45.クラウス・フォン・ジークムント
堰が、切れた。
それは静かに始まった。目の奥が痛くなり、鼻の奥が閉まり、そして腹の底から――声にならない嗚咽がせり上がってきた。
先ほどの涙とは違った。覚え書きを読んだ時に流れたのは、驚きと理解の涙だった。今、あふれ出しているのは――もっと深い場所に溜まっていたものだった。
「――っ……ぅ……」
声が漏れた。押し殺そうとして、押し殺せなかった。
(泣かないって、決めたのに)
死に戻りの朝。鏡の前で立ち上がった時、自分に誓った。泣くのはこれで最後だと。
あれからどれだけの夜を、歯を食いしばって過ごしただろう。前世の悪夢に怯えた夜。聖女の前で微笑みを貼り付けた朝。帳簿を睨み、計画を練り、一度も本気では泣かなかった。
泣いたら戻ってしまうから。弱くて、何もできなくて、王子の言いなりで、最後は冷たい床の上で死んでいく――あの頃の自分に。
でも今――もう、止められない。
*
「前世で」
声が砕けた。嗚咽が邪魔をする。言葉が途切れる。それでも――この人に伝えなければならなかった。
「前世で、わたし――一人だと、思っていた」
毒が回る喉。冷たくなっていく指先が。天井の紋様が滲んで消えていく、あの感覚。
「誰も――助けてくれなかった。誰もわたしを見てくれなかった」
涙で視界が溶けていた。
「婚約者は笑っていた。聖女は裏で嗤っていた。侍女は毒を盛った。父は何もできなかった。わたしの声は、誰にも届かなかった」
膝の腕の拳が震えている。爪が掌に食い込んでいる。
「一人で死んだ。冷たい床の上で、声も出せなくて――暗くなっていって。最後に見えたのは、天井の紋様だけだった」
あの紋様を、今でも覚えている。死の瞬間に焼き付いた映像。何度も夜ごとに蘇った光景。
「誰にも看取られなかった。わたしが死んだことすら、誰も――」
「でも、違った」
声が、裏返った。
「一人じゃなかった。知らないところで――あなたが、全部賭けてくれていた。自分が消えるって、わかっていて――わたしのために」
言葉にならなかった。
前世の三年分の絶望。死の瞬間の冷たさ。死に戻りの朝からずっと抱えてきた孤独。そして――それを救った人がいたという事実。
全部、一度に溢れ出した。
エレノーラは椅子から崩れるように立ち上がり、クラウスに縋りついた。
考えてそうしたのではなかった。体が勝手に動いた。令嬢の矜持も、計画者の冷静さも、言葉遣いの仮面も――全て剥がれ落ちていた。
クラウスの胸に顔を押し付けた。シャツの布地が濡れていく。両手が上着の前を掴んでいる。皺になるとか、そんなことは考えられなかった。離せない。離したらまた一人になる気がした。
「――ごめ、なさい……こんな、こんな姿…」
「謝らないでください」
頭の上から、声が降ってきた。
静かだった。いつもの声。けれどその声が――今は、どんな言葉よりも温かかった。
腕が、背中に回された。ゆっくりと。慎重に。壊れたものを拾い集めるように。
抱きしめ返された。
*
クラウスの心臓の音が聞こえた。
速い。告白の夜と同じくらい速い。けれど腕は揺るがなかった。エレノーラを包んで、一切緩まない。
「前世の私のことを、私は覚えていません」
低い声が、髪を震わせた。
「あなたの死を見た記憶も、封印室に降りた記憶。何一つ」
エレノーラの嗚咽が、布地にくぐもって消えていく。
「ですが――今のあなたが、こうして泣いている」
背中の腕に、ほんの少しだけ力がこもった。
「前世で一人だったと。誰にも救われなかったと信じて、歯を食いしばって生きていたあなたが――今、泣いている」
「それは――前世の私の選択が、あなたに届いたということです」
涙が止まらなかった。
「だから、過去の私は正しい選択をした」
一拍の間。
「自分の存在と引き換えにあなたを救ったことは――合理的な判断かどうかはわかりません。おそらく合理的ではなかった」
沈黙。
「でも――正しかった」
(この人は――前世でも今世でも、同じなんだ)
合理性の奥に、途方もなく深い感情を隠している。冷たい仮面の裏側で、誰よりもまっすぐに人を想う人。
記憶がなくても変わらない。それが――クラウス・フォン・ジークムントという人間の、芯だった。
エレノーラはクラウスの胸にしがみついたまま、声を上げて泣いた。
押し殺さなかった。
十七歳の少女の泣き声が、地下書庫の石壁に反響した。魔道灯の青白い光が、抱き合う二人の影を大きく壁に映していた。
どれくらい泣いただろう。
涙が枯れるまで、クラウスは一度もエレノーラを離さなかった。背中を撫でることもしなかった。ただ腕の力を変えずに、抱き続けた。
それがこの人の、不器用な優しさだった。
*
泣き止んだ後の静けさは、嵐の後の凪に似ていた。
エレノーラはクラウスの胸に額を預けたまま、ぼんやりと息をしていた。目が腫れている。鼻が詰まっている。シャツの前面はぐしゃぐしゃだった。
けれど――胸の奥が、嘘みたいに軽かった。
前世からずっと抱えてきた重石。孤独と言う名の氷。それが――この人の体温で、溶けていた。
「……ひどい顔ですわね、きっと」
「ええ。ひどいです」
「正直すぎませんか」
「事実の指摘です」
笑った。笑えた自分に驚いた。たった今まで声を上げて泣いていたのに。
クラウスがポケットからハンカチを取り出した。
「鼻を」
「……ありがとうございます」
ハンカチを受け取って鼻をかんだ。令嬢としては最悪の所作だった。マリアが見たら三日は説教だろう。
けれど恥ずかしくなかった。この人の前でなら――仮面を外しても、冷静さを捨てても、泣き虫の十七歳でいても。この人は眼鏡の奥で静かにこちらを見ているだけだから。
「クラウス様」
「はい」
「わたくし――もう、前世のわたくしを一人にしません」
腫れた目でクラウスを見上げた。涙の跡が頬に残っている、酷い顔だと思う。でもこの言葉だけは、目を見て伝えたかった。
「あの人は一人ではなかった。知らなかっただけで、見てくれた人がいた。それを――忘れません」
クラウスはしばらく黙っていた。
魔道灯の光が揺れている。冷たい地下の空気に、二人の呼吸だけが響いていた。
紺色の瞳が、まっすぐエレノーラに向いた。
「それなら――もう、泣かないでください」
静かな声だった。
一拍の間。クラウスの視線がほんの一瞬だけ逸れ、戻った。この人にしては珍しく――言葉を選んでいた。
「いや――泣いてもいい。でも次も、次からも――嬉し涙にしてほしい」
魔道灯の光の中で、クラウスの口元が――ほんの僅かに、笑みの形を取った。
エレノーラは腫れた目のまま、笑った。
「……約束しますわ」
クラウスのハンカチを握ったまま、もう一度だけ胸に額を預けた。今度は泣かなかった。
ただ――温もりを確かめるように。
心臓の音が、まだ速い。
この人も平気ではないのだ。前世の自分の記憶も人格も失われたと聞かされて。今の自分が、その代償の上に立っていると知って。
けれどこの人は――自分の動揺よりも、エレノーラの涙を先に受け止めた。
それが、クラウス・フォン・ジークムントだった。




