41.恋人たちの朝
朝の光が、まぶしかった。
カーテンの隙間から差し込む陽光に目を細めながら、エレノーラは寝台の上で天井を見つめていた。窓の外で小鳥が鳴いている。いつもと同じ朝。同じ部屋。同じ光。
なのに——全てが違って見える。
(昨夜のこと、夢じゃないよね?)
頬に触れた指先の冷たさを思い出す。月明かりの中の紺色の瞳。眼鏡を外した顔。震えていた声。そして——唇の温もり。
心臓が跳ねた。
寝台の上で身を丸め、枕に顔を埋める。十七歳の公爵令嬢として、大評議会で王族を断罪した少女として、あまりにみっともない姿だった。けれど止められない。
(好きって言った。言っちゃった。しかも返事が——「ずっと待っていました」って——)
枕に顔を押し付けたまま、足をばたつかせそうになる衝動を辛うじて堪えた。
その瞬間、扉が三度ノックされた。
「お嬢様、おはようございます。お支度のお時間です」
マリアの声。エレノーラは弾かれたように身を起こし、髪を整え、表情を整え、令嬢の仮面をかぶり直した。
「入りなさい」
扉が開き、マリアが朝の茶器を載せた盆を手に入ってきた。栗色の髪をいつも通りきちんと結い上げ、いつも通りの控えめな笑顔を浮かべている。
「おはようございます、お嬢様。よくお休みになれましたか?」
「ええ、よく眠れましたわ」
完璧な令嬢の声。完璧な微笑み。前世から数えて何千回と繰り返してきた朝の挨拶。
マリアが紅茶を注ぎながら、ちらりとエレノーラの顔を見た。
「お嬢様」
「何かしら」
「今朝は随分とご機嫌ですね」
「——気のせいですわ」
「左様でございますか。でも、先ほどから口元が少し」
「気のせいです」
エレノーラは紅茶のカップを手に取り、唇に運んだ。マリアがそれ以上何も言わないことを祈りながら。
「お嬢様、お顔が」
「気のせいですわ、マリア」
「まだ何も申しておりませんが」
「これから言おうとしていたことも含めて、気のせいです」
マリアが小さく笑った。口元を手で隠しているが、目が完全に笑っている。
*
宰相府に向かう馬車の中で、エレノーラは窓の外を眺めていた。
昨日の大評議会でアレクシスの全ての罪が断罪され、国中がその話題で持ちきりだろう。宰相府には後処理の書類が山のように積まれているはずだ。
(仕事。仕事に集中しなくちゃ。昨夜のことは——)
馬車が宰相府の門をくぐった。
正面玄関を入り、いつもの執務室に向かう廊下を歩く。足音が石の床に響く。前世から何度も歩いた道。何も変わらない。
執務室の扉を開けた。
クラウスが、いた。
銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。深い紺色の瞳。書類に目を落としたまま、ペンを走らせている。いつもの姿。完璧に、いつも通りの姿。
「おはようございます、エレノーラ嬢」
声が——普通だった。あまりに普通だった。昨夜、震えた声で「ずっと待っていました」と言った人間と同じ人物とは思えないほどに。
「おはようございます、クラウス様」
エレノーラも完璧に返した。いつもの声。いつもの距離。いつもの角度で椅子に座り、積まれた書類の一枚目を手に取る。
何も変わらない朝。
——ただ、目が合う頻度が、いつもより少し高かった。
書類をめくる手が止まる瞬間が重なる。視線が交差し、すぐに逸れる。それが三度、四度と繰り返される。
(意識しすぎ。普通にして。普通)
五度目に目が合った時、クラウスの口元がほんの一瞬だけ動いた。笑みとも呼べない気配。それだけで心臓が跳ねた。
エレノーラは書類に視線を落とした。文字が頭に入らない。同じ行を三度読んだ。
*
午前の執務が一段落した頃、扉がノックされた。
「入りなさい」
クラウスが応じると、給仕の少年が茶器を運んできた。
「クラウス様、本日の紅茶でございます」
「ああ。ここに」
クラウスが机の端を示す。少年が茶器を置き、退室しようとして——足を止めた。
「あの、クラウス様。本日はカップが二つ用意されておりますが」
沈黙が落ちた。
エレノーラの手が止まった。クラウスのペンも止まった。
「……最初から二つ淹れた方が効率的だと判断しました」
「はあ。いつもはエレノーラ様の分は別にご用意しておりましたが」
「今日から変更です」
「承知いたしました」
少年が首を傾げながら退室した。
残された二人の間に、微妙な沈黙が漂った。
(紅茶を二杯淹れた。最初から二杯。それって——)
エレノーラは何も言わなかった。クラウスも何も言わなかった。ただ、差し出された紅茶を受け取る時、指先がほんの一瞬だけ触れた。
それだけのことなのに、呼吸が浅くなった。
*
午後。宰相グレゴールが執務室を訪れた。
五十五歳の重厚な体躯が扉をくぐり、銀灰色の髪——息子と同じ色だが、白いものが混じっている——を撫でつけながら入ってきた。
「やあ、二人とも。大評議会の後処理は順調かね」
「予定通りです、父上。各領への通達は午前中に発送を終え、王宮への報告書も本日中に仕上がります」
「結構。さすがだな」
グレゴールが二人の間を見回した。いつもの光景。向かい合った机に座り、書類を捌く二人。距離も、表情も、声のトーンも変わらない。
——はずだった。
グレゴールの目が、机の上の茶器に止まった。
カップが二つ。同じ茶器から注がれた紅茶。いつもなら別々に用意されるそれが、今日は揃いの盆に載っている。
「ふむ」
グレゴールが顎をさすった。
「クラウス」
「何ですか」
「紅茶が二杯あるな」
「効率化の一環です」
「ほう。効率化か」
グレゴールの目が細くなった。含み笑い——という表現がこれほど似合う顔も珍しい。
「確かに効率的だな。何しろ、これから先ずっと二杯淹れることになるのだろうからな」
「父上。何かおっしゃりたいことがあるなら、端的にどうぞ」
「いいや、何もない。何もないとも」
グレゴールがエレノーラに向き直り、穏やかに笑った。
「エレノーラ嬢。息子が不器用な男で申し訳ない。だが、悪い人間ではないのだ。どうか長い目で見てやってほしい」
「お父上、私とクラウス様は——」
「ああ、何も聞いていないよ。何も見ていない。老いた宰相は目が悪くてね」
上機嫌で鼻歌を抑えるような足取りで、グレゴールが退室した。
扉が閉まった後の沈黙が、重かった。
「……バレていますわね」
「父上の観察力を甘く見ていました」
「マリアにも朝から指摘されましたわ」
「被害報告ですか」
「ええ。『お嬢様、お顔が』と三回言われました」
「私は紅茶の件で一回です。あなたの方が被害が大きい」
「これは競うものではありませんわ」
目が合った。
一拍の間を置いて、二人同時に——小さく、笑った。
穏やかな午後だった。窓から差し込む陽光が執務室を暖かく照らしている。紅茶の香りが漂い、書類のインクの匂いが混じる。ここが二人の日常だった。これからも、ここが二人の場所になる。
(幸せだ。こんなに——)
ふと、書類の束の中に一通の封書が混じっていた。蝋印を確認する。王家の紋章。
「クラウス様、これは」
「ヴィルヘルム陛下からの勅命です。今朝届いたものですが、後処理の書類を優先していました」
クラウスが封を切り、目を走らせた。その表情が——ほんの一瞬、引き締まった。
「何と書いてありますの?」
「聖遺物に関する調査命令です。エステリア公国が接触を試みた形跡がある以上、安全保障上の確認が必要だと」
聖遺物。王城の地下に封印された神器。隣国が狙っていたもの。
(そうだ。まだ——全てが終わったわけではなかった)
幸せな時間の中に、影がちらりと過ぎった。冷たい風が窓の隙間から吹き込んだように、空気が変わった。
「調査はいつから」
「明日。陛下が直接、封印区域への立ち入りを許可しています」
エレノーラは紅茶のカップに目を落とした。温かい琥珀色の液面に、自分の顔が揺れている。
幸せだった。こんなに幸せな朝は、二度の人生で初めてだった。
だからこそ——胸の奥に、かすかな予感がある。
この幸せを守るために、まだやるべきことが残っている。
「参りましょう、クラウス様。最後の仕事ですわ」
「ええ」
クラウスが眼鏡を押し上げた。紺色の瞳が、一瞬だけ柔らかくなる。
「——共に」
その一言が、今はただ温かかった。




