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毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
第4章

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40.長い夜の終わり

 全てが終わった夜だった。


 城のバルコニーに出ると、月が出ていた。あの夜と同じ——宰相府の深夜、クラウスと二人で初めて月を見上げた夜と、同じ白銀の光。


 エレノーラは欄干に手をかけ、夜の空気を吸い込んだ。冷たい。けれど不思議と、体の芯は温かかった。


 疲弊していた。大評議会の後、書類の処理と貴族たちへの挨拶が怒涛のように過ぎて、気づけば日が落ちていた。


 けれど——清々しかった。


 胸の底に沈んでいた重石が消えている。前世の痛みが癒えたわけではない。ただ——もう、恨みを支えにしなくてよくなった。


(終わったんだ。本当に)


 月明かりが庭園を青白く染めている。噴水の水面が光を受けて細かく輝いていた。あの夜と同じ景色。けれどあの夜の自分とは、全てが違う。



      *



 足音がした。


 聞き慣れた靴音。規則的で、無駄がなくて、けれどいつもより少しだけゆっくりとした足取り。


「——ここでしたか」


 クラウスがバルコニーに出てきた。銀灰色の髪が月光を受けて、あの夜と同じように白く輝いている。銀縁の眼鏡のレンズに、月が小さく映り込んでいた。


「マリアに聞きました。『お嬢様はバルコニーに行かれました。追いかけてください』と」


「マリアは余計なことを言いますわね」


「余計ではないと思いますが」


 クラウスが隣に立った。欄干に腕を預け、庭園を見下ろす。あの夜と同じ構図。同じ距離。肩が触れそうで、触れない。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 月明かりの中に、噴水の水音だけが細く響いている。夜風が木々を揺らし、庭園の花の香りがかすかに運ばれてきた。


「終わりましたね」


 エレノーラが言った。


「ええ。今度こそ」


 クラウスの声は淡々としていた。いつも通りの声。けれどその「今度こそ」に込められた重みを、エレノーラは聞き逃さなかった。


 今度こそ。


 聖女を断罪した時は「まだ」だった。婚約を破棄した時も「まだ」だった。隣国の工作員を捕らえた時も、叔母を断罪した時も、まだ終わっていなかった。


 でも今度こそ——終わった。


「長い戦いでしたわ」


「ええ」


「最初にあなたに『嘘が下手ですね』と言われた日から、随分と経ちましたわね」


「あれは事実の指摘です」


「ひどい初対面でしたわ」


「あなたの嘘の質は、あれから格段に上がりました」


「褒めているのですか、それ」


「事実の指摘です」


 小さく笑った。クラウスの口元にも、息を吐くような——ほとんど笑みとは呼べない気配があった。


 この人の笑い方を、もう知っている。


 沈黙が降りた。


 けれど居心地の悪い沈黙ではなかった。月の光が二人の影を石畳に落としている。二つの影は寄り添うように近くて、けれど重ならない。



      *



(言おう)


 唐突に、そう思った。


 今まで何度も飲み込んだ言葉。あの夜、上着の温もりの中で自覚した感情。毒の証拠を前にした時も、暗殺未遂の夜も、看病の朝も——いつも胸の奥にしまい込んできた言葉。


 全てが終わるまで言えなかった。戦いの最中に溺れるわけにはいかなかったから。


 でも今——もう、しまっておく理由がない。


「クラウス様」


「何ですか」


「一つだけ、計画にないことを言ってもいいですか」


 クラウスが僅かに首を傾けた。月明かりの中で、眼鏡のレンズが光る。


「あなたの計画外の言葉は、いつも興味深い」


 いつもの言葉。いつもの声。


 けれどエレノーラには、その「興味深い」がどれだけ特別な意味を持つか、もうわかっていた。


 深く、息を吸った。


 月明かりが頬を照らしている。噴水の水音が遠くに聞こえる。夜風が止んで、バルコニーの空気が静まった。


 令嬢の仮面を、外した。


 敬語でも社交辞令でもない。計画でも策略でもない。ただの——十七歳の、声。


「——好きです」


 声が、震えた。


 自分でも驚くほどに。大評議会の壇上では一度も震えなかった声が、たった二文字で震えている。


「あなたが好きです。クラウス様」


 月明かりの中に、その言葉が溶けた。


 静寂が落ちた。噴水の水音すら、遠のいたように感じた。



      *



 クラウスが——動かなかった。


 眼鏡の奥の紺色の瞳が、見開かれていた。


 初めて見る表情だった。いつもの無表情でも、観察者の冷静さでも、かすかに目を細める柔らかさでもない。完全に——不意を突かれた顔。


 息を呑む音が聞こえた。小さく、けれどはっきりと。


 長い沈黙だった。


 エレノーラの心臓が痛いほど鳴っていた。大評議会の百倍、怖かった。国王の前に立つよりも、聖女と対峙するよりも、この沈黙の方がずっと怖い。


(返事が来ない。やっぱり、早まった? いや、でも——)


 クラウスの手が動いた。


 右手が顔に伸びる。細い指が銀縁の眼鏡のつるに触れた。


 そして——外した。


 眼鏡が外れた瞬間、月明かりがクラウスの素顔を照らした。


 エレノーラは息を呑んだ。


 眼鏡の奥に隠されていた紺色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。レンズ越しではない、剥き出しの瞳。そこに宿っている光は——冷徹でも合理的でもなかった。


 温かかった。


 深い紺色の奥に、押し殺してきた全ての感情が滲んでいた。


「……ようやく、言ってくれましたね」


 声が震えていた。クラウス・フォン・ジークムントの声が、初めて。


「ずっと待っていました」


(——ああ)


 エレノーラの目が熱くなった。


「知って、いたのですか」


「あなたの嘘が下手なのは、最初から知っています」


 眼鏡を外した顔が、月明かりの中でかすかに笑った。笑みと呼べる表情を、この人の顔で見るのは初めてだった。


「あの夜——宰相府のバルコニーで、あなたが『ずるい方』と言った時から。いえ、もっと前かもしれない」


 クラウスの手が、ゆっくりとエレノーラの頬に伸びた。


 触れた指先が、冷たかった。夜風に晒されていたのだろう。けれどその冷たさの奥に、微かな震えがあった。


「私は——感情を不要なものだと信じてきました」


 低い声だった。眼鏡のない目が、まっすぐにエレノーラを見ている。


「判断を鈍らせるものだと。だから名前をつけなかった。あなたの隣にいることが、いつの間にか息をするように当たり前になっていても——それを、認めなかった」


 指先がエレノーラの頬にかかった髪を払った。あの夜、触れかけて引いた指。今度は——引かなかった。


「あなたが毒矢の前に飛び出した時、初めて理解しました」


「逆ですわ。飛び出したのはあなたの方です」


「……そうでしたか」


 小さく、笑った。


「ともかく——あの瞬間、私は合理的な判断ができなくなった。あなたを失うという可能性を前にして、論理が全て消えた」


 紺色の瞳が、月光を受けて深く輝いた。


「それが答えです。感情は不要ではなかった。少なくとも——あなたに関しては」



      *



 夜風が凪いだ。


 月明かりの中に、二人だけが立っていた。


 クラウスの手がエレノーラの頬を包んでいた。冷たかった指先が、少しずつ温もりを帯びていく。


 エレノーラは見上げた。眼鏡のないクラウスの顔を。この距離で見る素顔は、初めてだった。切れ長の目元が、仮面を外したように柔らかくなっている。


(ずっと——この顔が見たかった)


 クラウスの視線が、エレノーラの唇に落ちた。ほんの一瞬。そしてすぐに目に戻る。


「——いいですか」


 かすれた声だった。あの冷徹な宰相補佐官が、許可を求めている。


 エレノーラは答えなかった。


 代わりに、爪先立ちになった。


 唇が触れた。


 月明かりの中で。噴水の水音の中で。全ての戦いが終わった夜に。


 柔らかかった。温かかった。冷たい夜風の中で、触れ合った唇だけが温かくて、その温もりが胸の奥までゆっくりと沁みていった。


 長い時間ではなかった。ほんの数秒。けれどその数秒の中に、これまでの全てが凝縮されていた。月夜のバルコニーで言葉を失った夜。上着の温もりの中で名前を呼んだ夜。毒矢の前に身を投げた瞬間。帳簿を前に並んだ全ての夜。


 唇が離れた。


 二人の間に、吐息が一つ、白く漂った。


 エレノーラの目から、涙が一筋だけ伝った。


 泣かないと決めた日から、一度も流さなかった涙。けれどこれは——前世の痛みの涙ではなかった。


「……泣いている」


 クラウスの指が、その涙を拭った。


「泣きません、と言ったはずですわ」


「嘘が下手ですね」


「——あなたのせいです」


 月が、二人を照らしていた。


 バルコニーの石畳に落ちた影は、もう二つではなかった。寄り添い、重なり合って、一つの輪郭を作っている。


 遠くで夜鳥が鳴いた。噴水の水音が、子守唄のように静かに響いている。


 エレノーラはクラウスの胸に額を預けた。心臓の音が聞こえる。速い。いつも冷静なこの人の心臓が、こんなにも速く鳴っている。


「クラウス様」


「はい」


「計画にないことを言っても、怒りませんか」


「先ほどから計画外のことしか言っていませんが」


「もう一つだけ」


 顔を上げた。月明かりに照らされた琥珀色の瞳が、紺色の瞳を見つめた。


「——ただいま、です」


 長い旅の果てに辿り着いた場所。前世では知ることのなかった温もり。死に戻りの少女がようやく見つけた、帰る場所。


 クラウスの腕が、エレノーラの肩を静かに抱き寄せた。


「おかえりなさい」


 月明かりの中で、二人の影が重なっていた。


 長い夜が、終わった。

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