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4.聖女の最初の嘘

 それは、昼食の席で起きた。


 甲高い泣き声が、食堂の空気を切り裂く。

 エレノーラはティーカップを置いた。

 ——来た。


「わたくし……わたくし、怖くて……っ」


 セレスティアが両手で顔を覆い、肩を震わせていた。

 彼女の足元には、砕けた花瓶の破片。水に浸かった白百合が、大理石の床に無残に散らばっている。


「セレスティア殿、いかがなされた」


 真っ先に駆け寄ったのはアレクシスだった。

 彼は聖女の肩を抱き、まるで壊れ物を扱うように——いや、実際そう思っているのだろう。この男は。


「あ、アレクシス様……」


 セレスティアが濡れた睫毛を持ち上げる。

 計算され尽くした角度。光が涙を拾い、宝石のように煌めかせる。


(——綺麗なものね。何度見ても、吐き気がするくらい)


「エレノーラ様が……お花瓶を、わたくしに向かって……」


 食堂がざわめいた。

 令嬢たちの視線がエレノーラに集まる。囁き声。扇の陰に隠された口元。


 前世では、この瞬間に凍りついた。

 違う、と言えなかった。証拠がなかった。誰も味方がいなかった。


 だから——泣いた。謝った。それが間違いだった。


「まあ」


 エレノーラは静かに立ち上がった。

 スカートの皺を丁寧に伸ばし、微笑む。


「それは大変でしたわね、セレスティア様」


 声が震えていないことを、自分で確認する。


「ですが、少しだけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「か、確認……?」


「その花瓶が割れたのは、先ほど——正午の鐘が鳴った直後ですわよね」


 セレスティアの涙が、一瞬だけ止まった。

 ほんの一瞬。だが、エレノーラは見逃さない。


「その時刻でしたら、私はこちらの方々とお茶をしておりました」


 エレノーラが視線を向けると、三人の令嬢が頷いた。


 クレア・ブランシェ伯爵令嬢。

 リゼット・モンフォール子爵令嬢。

 ナターシャ・ヴェルホーフ男爵令嬢。


 三人とも、エレノーラが二週間かけて丁寧に関係を築いた相手だった。


「エレノーラ様は、ずっとご一緒でしたわ。中庭の東屋で、新しい紅茶を試していらしたの」


 クレアが穏やかに、しかしはっきりと言った。


「ええ。正午の鐘が鳴ったとき、三杯目のダージリンを淹れていただいたところでした」


 リゼットが続く。


「私も同席しておりました」


 ナターシャが頷く。


 三人。

 三人の証人。

 前世のエレノーラには、一人もいなかったもの。



      *



 食堂が静まり返った。


 セレスティアの唇が微かに震えた。瞳の奥で、何かが高速で回転しているのがわかる。


(——そう。あなたは頭がいい。だから怖いのよ)


「わ……わたくし、見間違い、だったのかもしれません……」


 セレスティアの声が揺れた。

 だが今度は、計算ではない。本物の動揺だ。


「怖くて、混乱してしまって……ごめんなさい、ごめんなさい……」


 再び涙。

 しかし今度の涙は、別の意味を帯びていた。自分の嘘を塗り潰すための涙だ。


「セレスティア殿、気に病むことはない」


 アレクシスが聖女の肩を強く抱いた。エレノーラを睨む。


「怖い思いをしたのだ。混乱して当然だろう。——エレノーラ、お前も責めるな」


(……私は何も責めていないけれど)


「もちろんですわ、アレクシス殿下」


 エレノーラは完璧な微笑みを浮かべた。


「セレスティア様がお怪我をなさらなくて、本当によかった」


 その言葉に、食堂の空気がわずかに変わった。

 誰が嘘をついていて、誰が真実を語ったのか。全員が見ていた。全員が聞いていた。


 アレクシスだけが、気づいていない。



      *



 自室に戻り、扉を閉める。


 背中を扉に預けて、ゆっくりと息を吐いた。

 指先が震えている。——まだ、緊張が抜けない。


(前世では、ここで終わった)


 花瓶の件で「乱暴な令嬢」の烙印を押された。弁明は誰にも聞いてもらえなかった。セレスティアの涙だけが正義だった。


(今度は違う)


 エレノーラは机に向かい、羊皮紙を広げた。

 日付、時刻、場所、証人の名前。セレスティアの発言。アレクシスの発言。

 全てを書き留める。


(証拠は残す。一つ残らず。あの女が何回嘘をついたか、数えられるように)


 ペンを置いた。

 インクが乾くのを待ちながら、窓の外を見る。


 中庭に、セレスティアの姿が見えた。

 アレクシスに寄り添い、何かを囁いている。時折、目元を拭う仕草。


 だが——その横顔に、涙の痕はない。


(泣いてない)


 エレノーラの目が細くなった。


(さすがね、セレスティア。切り替えが早い。……でも、それは私も同じよ)


 視線を戻す。

 羊皮紙の隅に、小さく書き足した。


『第一の嘘——花瓶事件。不成立。証人三名により否定』


(これが一つ目。あなたの嘘を、全部数えてあげる)


 ペンを引き出しにしまう。

 次に羊皮紙を取り出すのは、そう遠くない。


 ——セレスティアが「次の嘘」をつくのは、いつだって早いのだから。

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