38.最後の盤面
翌朝、宰相府の執務室に地図が広げられた。
王城の見取り図。大評議会の間の配置。貴族たちの席順。エレノーラは羽根ペンを握り、地図の上に次々と印を落としていく。赤い墨が、戦場の配置図のように広がった。
「全てを、一度に終わらせます」
窓からの朝日が、机の上の書類を白く照らしている。エレノーラの琥珀色の瞳には、穏やかな光も迷いもなかった。あるのは——計算だけだ。
「隣国の聖遺物狙い。アレクシス殿下の横領と情報漏洩。その全てを、明日の大評議会で暴きます」
向かいに座るクラウスの眉が、僅かに動いた。
「大評議会——陛下御前の正式な場で、ですか」
「ええ。国王陛下、宰相閣下、主要貴族、そして第一王子殿下と第二王子殿下。全員が揃う場で」
エレノーラは地図の上に指を置いた。大評議会の間。王国の最高意思決定機関が集う場所。
「個別に告発すれば、揉み消される可能性があります。アレクシス殿下の派閥はまだ完全には崩れていない。ですが大評議会の場であれば、国王陛下の御前で証拠を突きつけられる。逃げ場はありません」
「危険です」
クラウスの声は静かだった。だが、その一語に含まれる重さをエレノーラは聞き逃さなかった。
「大評議会でアレクシス殿下を追い詰めれば、殿下の派閥は最後の抵抗を試みるでしょう。場が荒れる可能性がある。加えて、隣国の工作がどこまで宮廷に浸透しているか——まだ全容が見えていない」
「わかっています」
エレノーラは頷いた。羽根ペンを置き、クラウスの目を見た。
「だからこそ、全てを一度にやるのです。個別に潰せば、残った者が証拠を隠滅する。逃がす。けれど大評議会の場で全てを同時に明かせば——連鎖的に崩れる」
(将棋の詰み。逃げ道を全て塞いでから、王手をかける)
*
「味方の配置を確認しましょう」
エレノーラは新しい紙を引き寄せ、名前を書き出した。
「まず、ルドルフ第一王子殿下。殿下には大評議会の場でアレクシス殿下の横領に関する質問を切り出していただきます。第一王子からの追及であれば、貴族たちも注目せざるを得ない」
「兄から弟への弾劾か。重い」
「重いからこそ、効きます」
クラウスが腕を組んだ。包帯の巻かれた左腕を庇う仕草が、一瞬だけ見えた。
「次に、グレゴール宰相閣下。閣下には横領の証拠書類を大評議会に正式提出していただきます。宰相府の調査報告として。これにより、告発の法的根拠が確立されます」
「父には既に話を通してあります。証拠の精査は昨夜のうちに完了しました」
「ありがとうございます」
エレノーラは三つ目の名前を書いた。
「ユリウス副長。騎士団には大評議会の間の警備を担当していただきます。アレクシス殿下の派閥が場を乱そうとした場合の抑え。そして——エステリア公国の工作員の証言を、直接証人として連れてきていただく」
「工作員を大評議会に。大胆ですね」
「生きた証人ほど強い証拠はありませんわ。書類は偽造だと言い逃れできても、人間は——目の前で口を開きます」
クラウスの目が細くなった。眼鏡の奥に、冷たい光ではなく——感心に近いものが滲んでいた。
「そしてわたくし自身は、聖遺物に関する情報を国王陛下に直接報告します。これは大評議会の本題ではなく、陛下への私的な上奏として。大評議会の混乱に紛れて隣国が動くことを防ぐために」
書き上げた配置図を、エレノーラは机の中央に置いた。
四つの名前。四つの役割。一つの盤面。
「全員が同時に動けば、アレクシス殿下に逃げ場はありません。横領の証拠、情報漏洩の証言、味方の包囲——三方向から詰める」
*
沈黙が落ちた。
朝日が傾き、窓から差す光の角度が変わっていた。どれほどの時間、二人で盤面を詰めていたのか。
クラウスが椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「一人でやるつもりですか」
静かな問いだった。
エレノーラは首を傾げた。
「全員の配置はお話しした通りですが」
「そうではない」
クラウスが視線を戻した。紺色の瞳が、まっすぐにエレノーラを射抜く。
「あなたはいつも、最も危険な役を自分に割り振る。大評議会の場で矢面に立つのは——結局、あなた自身だ」
(見抜かれている。いつも通り)
エレノーラは否定しなかった。
「国王陛下への上奏は、わたくしにしかできません。聖女の陰謀の全容を知るのはわたくしだけ。そして——元婚約者であるわたくしが立つことに、意味がある」
「意味がある。だが危険だ」
「ええ、危険ですわ」
穏やかに認めた。恐怖がないわけではなかった。大評議会の間で、王国の権力者たちの前で、全てを暴く。失敗すれば——前世と同じ結末が待っている。
けれど。
エレノーラは首を横に振った。自分の言葉を訂正するように。
「一人でやるつもりはありません」
クラウスを見た。朝日に照らされた銀灰色の髪。包帯の白。眼鏡の奥の深い紺色。
「あなたと、一緒に」
令嬢の仮面でも、戦略的な発言でもなかった。ただの——事実だった。
この人と共に戦ってきた全ての夜が、その言葉の中にあった。帳簿を並べて数字を追った夜。紅茶を飲みながら策を練った夜。机の上で眠ってしまった夜。毒の証拠を前に震える手を見守ってくれた夜。
一人ではここまで来られなかった。それを今さら否定する必要など、どこにもない。
クラウスは黙っていた。
長い沈黙だった。窓の外で鳥が鳴いている。朝の光が机の上の配置図を温かく照らしていた。
「……わかりました」
クラウスが眼鏡を押し上げた。その仕草の向こうで、紺色の瞳がかすかに——本当にかすかに、揺れた。
「では、大評議会の間で私はあなたの隣に立ちます。宰相補佐官として——証拠の提示と論証を担当する」
「ええ。お願いいたしますわ」
「加えて」
クラウスが立ち上がった。窓辺に歩み寄り、朝日に目を細める。
「万が一の場合の退路も用意しておきます。あなたは計画の完璧さに目が行きがちですが、盤面が崩れた時の保険も必要だ」
「相変わらず、お小言が多い方ですこと」
「事実の指摘です」
いつものやり取りだった。けれど——その声の温度が、ほんの少しだけ違った。
*
日が暮れた。
執務室の燭台に火が灯り、夜の帳が窓の外に降りていく。明日の今頃には、全てが終わっている。
エレノーラは最後の書類に目を通していた。横領の証拠。工作員の証言の写し。聖遺物に関する報告書。全てが一つの束にまとめられ、封蝋で閉じられている。
「準備は整いました」
エレノーラは封蝋に指先を触れた。蝋の表面はまだ温かい。
「明日——全てが決まります」
クラウスが向かいの椅子で書類を閉じた。一日中、二人で最終確認を重ねてきた。
もう、やれることは全てやった。
「エレノーラ嬢」
「はい」
「眠れますか。今夜」
思いがけない問いだった。
エレノーラは一瞬、言葉を失った。そして——小さく笑った。
「正直に申し上げれば、難しいかもしれませんわね」
「ならば、無理に眠ろうとしないでください。代わりに——」
クラウスが立ち上がり、棚から茶葉の缶を取り出した。
「温かいものを入れましょう。最後の夜くらい、書類から離れても罰は当たらない」
(この人は。こういう時に、こういうことを言う)
胸の奥が温かくなった。戦略でも計算でもない。ただ——この人なりの、不器用な優しさだった。
「では、お言葉に甘えますわ」
窓の外で、星が一つ瞬いた。
明日、大評議会の扉が開く。全ての盤面が動き出す。
けれど今夜だけは——温かい紅茶の香りの中で、静かに息をつこう。
最後の戦いの前に。隣にこの人がいることを、確かめるように。




