37.工作員の尋問
地下牢の空気は、冷たく湿っていた。
松明の炎が石壁を舐めるように揺れ、男の顔に不規則な影を落としている。鉄格子の向こう——椅子に縛り付けられた工作員は、口を固く結んだまま動かなかった。
エレノーラは鉄格子の手前に立ち、その男を見つめていた。
(この男が、クラウス様を傷つけた)
右腕に巻かれた包帯の白が脳裏を過ぎる。毒矢を受けた傷。自分を庇って負った傷。あの時の血の色を、まだ忘れられない。
「では、始めましょう」
隣に立つクラウスが静かに言った。包帯の巻かれた左腕を庇うように、右手で書類の束を持っている。銀縁の眼鏡に松明の光が映り込み、紺色の瞳を隠していた。
鉄格子の内側では、ユリウスが工作員の背後に立っている。腰の剣に手を添えた姿勢。無言の圧。
「名前は」
クラウスの問いに、男は答えない。顔を背け、壁の一点を睨んでいる。
「黙秘ですか。構いません」
クラウスは書類の一枚目をめくった。
「あなたの名はルーカス。エステリア公国第三情報局所属。三年前に商人の偽装身分でグランディア王国に入国。王都南区で織物商を営みながら、情報収集と工作活動に従事していた」
男の——ルーカスの肩が、わずかに強張った。
「偽装身分の書類は精巧でしたが、入国時の通関記録に一箇所だけ不整合があります。織物商を名乗りながら、荷の中に染料が一切含まれていなかった。三年前の通関吏は見逃したようですが」
淡々とした声。事実を積み上げていくクラウスの手法を、エレノーラは何度も見てきた。帳簿の数字を追い詰めた夜と同じだ。逃げ道を一つずつ塞いでいく。
ルーカスの喉が動いた。唾を飲み込む音が、地下牢に響く。
*
「何も話すことはない」
ルーカスが初めて口を開いた。低い声。訛りのない、訓練された発音だった。
「捕虜の扱いには国際法がある。拷問は許されない」
「ええ。拷問などいたしませんわ」
エレノーラが一歩前に出た。鉄格子に指先を触れ、松明の灯りの中でルーカスを見据える。
「ですが、あなたが話さなくとも、既に十分な証拠が揃っています。エステリア公国の紋章が刻まれた毒矢。あなたの隠れ家から押収された暗号文書。王都南区の協力者の名簿」
ルーカスの目が揺れた。
「話さなければ、全ての罪はあなた一人が被ることになります。公国はあなたを切り捨てるでしょう。失敗した駒に、用はありませんもの」
(前世で学んだことがある。追い詰められた人間が口を割るのは、痛みではなく孤立を突きつけられた時だ)
沈黙が落ちた。松明の炎が音を立てて揺れる。
クラウスが書類の二枚目を取り出した。
「加えて、あなたの本国での家族構成も把握しています。妻と、二人の子供。公国東部の小さな村に住んでいる」
ルーカスの顔色が変わった。今度は明らかだった。
「脅すのか」
「脅しではありません。事実の確認です」
クラウスの声には感情がなかった。ただ、次の言葉を置くように続けた。
「あなたが黙秘を貫けば、我が国はエステリア公国に対し、正式な抗議と工作員の身柄引き渡し要求を行います。外交問題になれば、公国は必ず関与を否定する。そしてあなたは——どちらの国からも見捨てられる」
ルーカスの目から光が消えた。壁を見ていた視線が落ち、石の床を見つめている。
「……何が、知りたい」
掠れた声だった。
*
「目的を聞かせてください。なぜわたくしを狙ったのですか」
エレノーラの問いに、ルーカスは長い息を吐いた。
「俺は末端だ。詳しいことは知らされていない。ただ——上からの指示は、ハーゼンベルク家の令嬢の排除。理由は、邪魔だから」
「邪魔。何の邪魔ですか」
「……聖遺物だ」
聞いたことのない言葉だった。エレノーラの眉が僅かに動く。隣でクラウスの指が書類の上で止まった。
「聖遺物?」
「上が欲しがっている。この国の王城の地下に封印されている——神器だと聞いた。それ以上は知らない。本当だ」
王城の地下。封印。神器。
(知らない。前世でも——聞いたことがない)
エレノーラは動揺を顔に出さなかった。令嬢の仮面を保ったまま、静かに問いを重ねる。
「王城の地下の情報を、どこから得ましたか」
「それは——」
ルーカスが口ごもった。視線が泳ぐ。
「聖女だ。あの女が、この国の王子から聞き出した」
空気が凍った。
エレノーラの背後で、ユリウスが低く息を呑む音がした。
「王子というのは——第二王子アレクシス殿下のことですか」
「名前は知らない。だが聖女が『王子が教えてくれた』と報告書に書いていた。王城の地下に古い封印があること。そこに国の守護に関わる何かが眠っていること。詳細はまだ聞き出せていないと」
クラウスの眼鏡が松明の光を反射した。紺色の瞳が、鉄のように冷たく硬くなっている。
「つまり第二王子は——聖女に王城の機密を漏洩していた」
ルーカスは黙って頷いた。
エレノーラは目を閉じた。
(アレクシス。あなたは——どこまで愚かなの)
悪意ではないだろう。聖女に惚れ込み、信頼し、何でも話してしまった。王城の地下のことも、封印のことも。国を守る機密を、枕元で囁くように漏らした。
それがどれほど危険なことか、わかりもせずに。
「聖遺物の詳細については、本当に知らないのですね」
「知らない。上は『手に入れろ』としか言わなかった。俺の任務は、情報収集と——邪魔者の排除だ」
ルーカスの目がエレノーラを見た。その目に、もう敵意はなかった。ただ——疲弊した兵士の目だった。
「お前が消えれば、この国の動きが鈍ると聞いた。聖女の件を暴いたのがお前だと」
*
地下牢を出た時、廊下の空気がぬるく感じた。
松明の灯りが遠ざかり、石段を上がるにつれて窓からの月光が足元を照らし始める。
「聖遺物」
エレノーラが呟いた。
「聞いたことがありませんわ。王城の地下に封印された神器——前世でも、そんな話は一度も」
「宰相府の機密文書にも記載はありません。私の父ですら、知らない可能性がある」
クラウスが階段の途中で足を止めた。月の光が銀灰色の髪を冷たく照らしている。
「だとすれば、王家の最深部の秘密です。知っているのは国王陛下と、ごく限られた者だけ」
「それをアレクシス殿下が聖女に漏らし、聖女がエステリア公国に伝えた」
「——そして公国は、その聖遺物を奪うために工作員を送り込んだ」
月光の中で、二人の視線が交差した。
エレノーラの胸の中で、歯車が回り始めていた。聖女の背後にあった資金の流れ。隣国の暗躍。そして今——王城の地下に眠る、未知の神器。
(終わっていなかった。聖女を倒しても、婚約を破棄しても——本当の脅威は、まだ残っている)
「クラウス様」
「はい」
「聖遺物とは、一体何なのでしょうか」
クラウスは答えなかった。
眼鏡の奥の紺色の瞳が、窓の向こうの月を映している。その沈黙が——わからない、という答えだった。
この男が沈黙するのは、推測で語ることを良しとしない時だけだ。
月が雲に隠れた。廊下が暗くなる。
王城の足元、遥か地下に何かが眠っている。隣国が喉から手が出るほど欲しがる何かが。
エレノーラは暗い廊下の先を見据えた。
まだ、終わらない。




