表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
毒殺された悪役令嬢は過去に戻り、今度は全員の破滅を設計する  作者: スナハコ
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/38

36.看病と本音

 薬の瓶を三本と包帯を二巻き、盆に載せて廊下を歩いている自分が信じられなかった。


 エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク。公爵令嬢。看病の経験は、皆無。


(包帯の巻き方くらい、本で読んだはずなのに——全く思い出せない)


 昨夜、マリアに基本だけ教わった。傷口を清潔な布で押さえ、薬を塗り、包帯をきつすぎず緩すぎず巻く。言葉にすれば簡単だ。


 実践は別だった。


 クラウスの執務室の前で足が止まった。扉の隙間から明かりが漏れている。昨日矢を腕に受けたばかりだというのに、もう執務をしているらしい。


(この人は本当に……)


 深く息を吸い、扉を叩いた。


「クラウス様。失礼いたします」


「——どうぞ」


 扉を開けた。


 クラウスは机に向かっていた。左腕に白い包帯が巻かれ、腕吊りの布で首から支えている。右手だけで書類をめくっていた。銀縁の眼鏡の奥の紺色の瞳が、エレノーラを見上げる。


「薬と、包帯の替えをお持ちしました」


「治療師が来ることになっていますが」


「午後の予定ですわ。それまでに一度替えた方がいいと、マリアが」


 嘘だった。マリアは何も言っていない。自分の目で確かめたかっただけだ。昨日の血の色が——まだ、手のひらに残っている気がして。


 クラウスは一瞬だけ何かを言いかけたが、口を閉じた。代わりに左腕を差し出す。


「……では、お願いします」


 盆を机の端に置き、椅子を引き寄せて座った。腕吊りの布を外し、包帯の端を探す。


 指が震えた。


(落ち着いて。ただ包帯を巻き直すだけ——)


 包帯を解いていく。白い布が赤黒い染みを見せた瞬間、胸が詰まった。傷口が覗く。治療師が処置した跡があるが、矢が抉った痕が生々しく残っていた。


「——薬を」


 瓶の蓋を開け、清潔な布に薬を含ませた。傷口に当てる。


「っ——」


 クラウスの肩が僅かに強張った。


「す、すみません。痛みましたか」


「……薬の量が多い」


「えっ」


「布から垂れています」


 見下ろすと、薬液がクラウスの腕を伝って机の上に滴っていた。書類の端が濡れている。


「申し訳ございません……!」


 慌てて布で拭く。新しい布を取り、今度は少量だけ含ませて恐る恐る傷口に当てた。


「……どうですか」


「まあ、先ほどよりは」


 淡白な評価だった。


 薬を塗り終え、新しい包帯を手に取った。巻き始める。傷口を中心に、腕をぐるりと一周、二周。


「緩い」


「え」


「包帯が緩すぎます。これでは固定になりません」


「も、もう少しきつく……こうですか」


「きつすぎます」


「……」


 三度目の巻き直し。力加減がわからない。公爵令嬢の指は、刺繍やティーカップを扱うことには慣れていても、人の腕に包帯を巻くようにはできていなかった。


「エレノーラ嬢」


「はい」


「痛いのですが」


「すみません、もう一度——」


 包帯を解き、また最初から。四度目。指先が緊張で冷たくなっている。傷口を見るたびに昨日の光景が蘇る。血。石畳に落ちる赤い滴。


「自分で巻きます」


 クラウスが右手を伸ばした。


「駄目です」


 エレノーラの声は、思いのほか強かった。


 クラウスの手が止まる。


「あなたは、わたくしのために怪我をしたのですから」


 自分の声が震えているのがわかった。令嬢の言葉遣いは保っている。けれど声の奥にある感情は、隠しきれていなかった。


「わたくしに、させてください」


 沈黙が落ちた。


 執務室に午前の光が差し込んでいる。窓の外で小鳥が鳴いた。


 クラウスは何も言わず、左腕を差し出し直した。


 五度目。


 今度は、ゆっくり巻いた。力を入れすぎないように。けれど緩くならないように。一周ごとに指先でクラウスの腕に触れて、締め具合を確かめながら。


 不器用だった。それでも——丁寧に巻いた。


 最後の端を留め金で止めた時、エレノーラはようやく息を吐いた。


「……できました」


 我ながら不恰好な包帯だった。少し斜めになっているし、厚さも均一ではない。治療師が見たら眉をひそめるだろう。


「エレノーラ嬢」


「はい」


 顔を上げた。クラウスの紺色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。


「看病が下手ですね」


 淡々とした声。報告書を読むような、いつもの声。


「……自覚しておりますわ」


 目を伏せた。耳が熱い。


 沈黙が、一拍。


「——でも、嬉しい」


 聞き間違いかと思った。


 顔を上げる。クラウスは窓の方を向いていた。横顔しか見えない。銀灰色の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。


「……え」


「聞こえなかったなら、もう一度は言いません」


 横顔のまま、眼鏡を右手で押し上げた。


 耳の先が——ほんの僅かに、赤くなっていた。


 エレノーラは口を開いたが、言葉が出なかった。心臓がうるさい。顔が熱い。首筋まで熱い。


(嬉しいって——この人が——わたしの下手な看病が——)


「あ、あの……」


「仕事に戻ります。書類がまだ三十件ほど」


「片腕で三十件は無茶です」


「支障ありません」


「ありますわ。左手が使えないのに——」


「右手で書けます」


「それは、そうかもしれませんが——」


 会話が噛み合わない。いつもの鋭い応酬が、どこかぎこちない。二人とも、さっきの一言を避けるように事務的な話に逃げている。


 その時、扉が開いた。


「お嬢様、お薬の追加を——」


 マリアが盆を持って入ってきた。二人の姿を見て、ぴたりと止まる。


 エレノーラの手にはまだ包帯の切れ端が握られている。クラウスの腕には不格好に巻かれた包帯。机の上には薬の染みが広がった書類。


 そして二人とも、なぜか不自然に顔を背けている。


 マリアは全てを察した顔で——微笑んだ。


「あら。お嬢様、包帯を替えてくださったのですね」


「え、ええ。マリアが午前中に替えた方がいいと言ったから——」


「わたくし、そのようなことは申しておりませんが」


「——っ」


 エレノーラの顔が、耳まで真っ赤に染まった。


 マリアが盆を机に置きながら、穏やかに笑った。十九歳の侍女の目が、悪戯っぽく細められている。


「お嬢様。お顔が真っ赤ですよ」


「まっ——薬のせいですわ。この薬は刺激が強くて」


「薬は傷口に塗るものでございますが」


「……マリア」


「はい」


「黙ってくださる?」


「かしこまりました」


 にこにこと笑ったまま、マリアは一礼して退室した。扉が閉まる直前、こちらを振り返って小さくウィンクしたのを、エレノーラは見逃さなかった。


(あの子、絶対に楽しんでいる……!)


 クラウスは窓の外を向いたまま微動だにしなかった。表情は見えない。


 ただ——右手で眼鏡を押し上げる仕草が、いつもより少しだけぎこちなかった。


 執務室に沈黙が戻った。


 小鳥の声と、ペンが紙を走る音だけが響いている。


 エレノーラは散らかった薬と包帯を片づけながら、自分の頬に手を当てた。まだ熱い。全然引かない。


(嬉しい、か——)


 その一言が、胸の奥で何度も反響していた。


 不器用な看病。不格好な包帯。この人の言う「嬉しい」は、きっとそういうもの全てを含んでいる。


 完璧でなくていい。上手でなくていい。ただ、ここにいることが。


 エレノーラは小さく唇を噛んで、赤い顔を隠すように下を向いた。


 窓の外では、昨日暗殺者が潜んでいた庭園に、いつも通りの陽光が降り注いでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ