36.看病と本音
薬の瓶を三本と包帯を二巻き、盆に載せて廊下を歩いている自分が信じられなかった。
エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク。公爵令嬢。看病の経験は、皆無。
(包帯の巻き方くらい、本で読んだはずなのに——全く思い出せない)
昨夜、マリアに基本だけ教わった。傷口を清潔な布で押さえ、薬を塗り、包帯をきつすぎず緩すぎず巻く。言葉にすれば簡単だ。
実践は別だった。
クラウスの執務室の前で足が止まった。扉の隙間から明かりが漏れている。昨日矢を腕に受けたばかりだというのに、もう執務をしているらしい。
(この人は本当に……)
深く息を吸い、扉を叩いた。
「クラウス様。失礼いたします」
「——どうぞ」
扉を開けた。
クラウスは机に向かっていた。左腕に白い包帯が巻かれ、腕吊りの布で首から支えている。右手だけで書類をめくっていた。銀縁の眼鏡の奥の紺色の瞳が、エレノーラを見上げる。
「薬と、包帯の替えをお持ちしました」
「治療師が来ることになっていますが」
「午後の予定ですわ。それまでに一度替えた方がいいと、マリアが」
嘘だった。マリアは何も言っていない。自分の目で確かめたかっただけだ。昨日の血の色が——まだ、手のひらに残っている気がして。
クラウスは一瞬だけ何かを言いかけたが、口を閉じた。代わりに左腕を差し出す。
「……では、お願いします」
盆を机の端に置き、椅子を引き寄せて座った。腕吊りの布を外し、包帯の端を探す。
指が震えた。
(落ち着いて。ただ包帯を巻き直すだけ——)
包帯を解いていく。白い布が赤黒い染みを見せた瞬間、胸が詰まった。傷口が覗く。治療師が処置した跡があるが、矢が抉った痕が生々しく残っていた。
「——薬を」
瓶の蓋を開け、清潔な布に薬を含ませた。傷口に当てる。
「っ——」
クラウスの肩が僅かに強張った。
「す、すみません。痛みましたか」
「……薬の量が多い」
「えっ」
「布から垂れています」
見下ろすと、薬液がクラウスの腕を伝って机の上に滴っていた。書類の端が濡れている。
「申し訳ございません……!」
慌てて布で拭く。新しい布を取り、今度は少量だけ含ませて恐る恐る傷口に当てた。
「……どうですか」
「まあ、先ほどよりは」
淡白な評価だった。
薬を塗り終え、新しい包帯を手に取った。巻き始める。傷口を中心に、腕をぐるりと一周、二周。
「緩い」
「え」
「包帯が緩すぎます。これでは固定になりません」
「も、もう少しきつく……こうですか」
「きつすぎます」
「……」
三度目の巻き直し。力加減がわからない。公爵令嬢の指は、刺繍やティーカップを扱うことには慣れていても、人の腕に包帯を巻くようにはできていなかった。
「エレノーラ嬢」
「はい」
「痛いのですが」
「すみません、もう一度——」
包帯を解き、また最初から。四度目。指先が緊張で冷たくなっている。傷口を見るたびに昨日の光景が蘇る。血。石畳に落ちる赤い滴。
「自分で巻きます」
クラウスが右手を伸ばした。
「駄目です」
エレノーラの声は、思いのほか強かった。
クラウスの手が止まる。
「あなたは、わたくしのために怪我をしたのですから」
自分の声が震えているのがわかった。令嬢の言葉遣いは保っている。けれど声の奥にある感情は、隠しきれていなかった。
「わたくしに、させてください」
沈黙が落ちた。
執務室に午前の光が差し込んでいる。窓の外で小鳥が鳴いた。
クラウスは何も言わず、左腕を差し出し直した。
五度目。
今度は、ゆっくり巻いた。力を入れすぎないように。けれど緩くならないように。一周ごとに指先でクラウスの腕に触れて、締め具合を確かめながら。
不器用だった。それでも——丁寧に巻いた。
最後の端を留め金で止めた時、エレノーラはようやく息を吐いた。
「……できました」
我ながら不恰好な包帯だった。少し斜めになっているし、厚さも均一ではない。治療師が見たら眉をひそめるだろう。
「エレノーラ嬢」
「はい」
顔を上げた。クラウスの紺色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「看病が下手ですね」
淡々とした声。報告書を読むような、いつもの声。
「……自覚しておりますわ」
目を伏せた。耳が熱い。
沈黙が、一拍。
「——でも、嬉しい」
聞き間違いかと思った。
顔を上げる。クラウスは窓の方を向いていた。横顔しか見えない。銀灰色の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。
「……え」
「聞こえなかったなら、もう一度は言いません」
横顔のまま、眼鏡を右手で押し上げた。
耳の先が——ほんの僅かに、赤くなっていた。
エレノーラは口を開いたが、言葉が出なかった。心臓がうるさい。顔が熱い。首筋まで熱い。
(嬉しいって——この人が——わたしの下手な看病が——)
「あ、あの……」
「仕事に戻ります。書類がまだ三十件ほど」
「片腕で三十件は無茶です」
「支障ありません」
「ありますわ。左手が使えないのに——」
「右手で書けます」
「それは、そうかもしれませんが——」
会話が噛み合わない。いつもの鋭い応酬が、どこかぎこちない。二人とも、さっきの一言を避けるように事務的な話に逃げている。
その時、扉が開いた。
「お嬢様、お薬の追加を——」
マリアが盆を持って入ってきた。二人の姿を見て、ぴたりと止まる。
エレノーラの手にはまだ包帯の切れ端が握られている。クラウスの腕には不格好に巻かれた包帯。机の上には薬の染みが広がった書類。
そして二人とも、なぜか不自然に顔を背けている。
マリアは全てを察した顔で——微笑んだ。
「あら。お嬢様、包帯を替えてくださったのですね」
「え、ええ。マリアが午前中に替えた方がいいと言ったから——」
「わたくし、そのようなことは申しておりませんが」
「——っ」
エレノーラの顔が、耳まで真っ赤に染まった。
マリアが盆を机に置きながら、穏やかに笑った。十九歳の侍女の目が、悪戯っぽく細められている。
「お嬢様。お顔が真っ赤ですよ」
「まっ——薬のせいですわ。この薬は刺激が強くて」
「薬は傷口に塗るものでございますが」
「……マリア」
「はい」
「黙ってくださる?」
「かしこまりました」
にこにこと笑ったまま、マリアは一礼して退室した。扉が閉まる直前、こちらを振り返って小さくウィンクしたのを、エレノーラは見逃さなかった。
(あの子、絶対に楽しんでいる……!)
クラウスは窓の外を向いたまま微動だにしなかった。表情は見えない。
ただ——右手で眼鏡を押し上げる仕草が、いつもより少しだけぎこちなかった。
執務室に沈黙が戻った。
小鳥の声と、ペンが紙を走る音だけが響いている。
エレノーラは散らかった薬と包帯を片づけながら、自分の頬に手を当てた。まだ熱い。全然引かない。
(嬉しい、か——)
その一言が、胸の奥で何度も反響していた。
不器用な看病。不格好な包帯。この人の言う「嬉しい」は、きっとそういうもの全てを含んでいる。
完璧でなくていい。上手でなくていい。ただ、ここにいることが。
エレノーラは小さく唇を噛んで、赤い顔を隠すように下を向いた。
窓の外では、昨日暗殺者が潜んでいた庭園に、いつも通りの陽光が降り注いでいた。




