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35.暗殺未遂

 薔薇が咲いていた。


 城の東庭園。石畳の小道の両脇に、白と薄紅の薔薇が連なっている。午後の日差しが花弁を透かし、甘い香りが風に乗って漂っていた。


 穏やかな午後だった。


 叔母の断罪、父との和解。立て続けの出来事に張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ日。マリアに「少しお散歩でもされては」と半ば追い出される形で部屋を出たのが、昼下がりのことだった。


 回廊でクラウスと合流したのは偶然ではない。報告書の受け渡しを兼ねた定例の打ち合わせ。ただ、普段は執務室で行うそれを、今日に限って庭園に場所を移した。


 理由は——聞かなかった。クラウスが「庭園で」と言った時、少しだけ窓の外を見ていたから。この人なりの気遣いだと思った。


「——エステリア公国の国境付近で、不審な人物の目撃情報が三件。いずれも商人を装っていますが、荷の中身が一致しません」


 クラウスが報告書を片手に歩きながら説明する。銀灰色の髪が風に揺れている。眼鏡のレンズに庭園の緑が映り込んでいた。長身の影が石畳に細く伸びて、エレノーラの影と並んでいる。


「偽装商人ですわね。荷に何を紛れ込ませているか、確認は」


「税関の記録を照合中です。早ければ明日には」


「急いでください。聖女を失ったエステリアが、次の手を打つなら今しかありません」


 エレノーラは薔薇の小道を歩きながら、頭の中で盤面を組み立てていた。


 セレスティアの失墜。婚約の破棄。国内の協力者であったカタリーナの断罪。エステリア公国にとって、これまで築いた工作網が一気に瓦解した形になる。


 焦る。必ず焦る。焦った時に人は——最も危険な手段に走る。


(前世の知識にない動きが来る。そろそろ)


 覚悟はしていた。ここから先は未知の領域。前世で死んだエレノーラが知り得なかった敵の動き。


「クラウス様。一つ気になることが」


「何ですか」


「セレスティアに繋がる工作員は複数いましたが、全員が末端でした。指揮系統の中枢——本命の工作員が、まだ姿を見せていません」


 クラウスが足を止めた。眼鏡を押し上げ、エレノーラを見る。


「同感です。捕縛した連絡員の証言からも、彼らは命令を受け取る側でしかなかった。命令を出す側の人間が——」


 薔薇の甘い香りが、ふわりと強くなった。風向きが変わったのだ。東からの風。庭園の奥、手入れの行き届いた茂みの向こうから吹いてくる風。


 エレノーラは何気なく歩みを進めた。次の言葉を考えながら。本命の工作員の特定。それが今の最優先課題だった。


 その瞬間だった。


 クラウスの目が変わった。


 紺色の瞳が鋭く細まり、視線がエレノーラの背後——薔薇の茂みの奥に向けられた。


 何かを見たのではない。気配を感じ取った。空気の流れの変化。茂みの葉が風もないのに揺れた、その微かな異変。


「伏せろ」


 敬語が消えた。


 その声を聞いた時にはもう、クラウスの腕がエレノーラの肩を掴んでいた。長身の体が覆い被さるように割り込み、エレノーラを石畳の上に突き飛ばす。


 同時に——空気を裂く音がした。


 鋭く、短い風切り音。


 矢だ。


 茂みの奥から放たれた一本の矢が、エレノーラが立っていた場所を貫いた。


 正確には——その軌道上に割り込んだクラウスの左腕を。


「——っ」


 鈍い音がした。矢が肉に食い込む音。クラウスの体が僅かによろめく。銀縁の眼鏡がずれた。


 白いシャツの袖に、赤い染みが広がっていく。


 エレノーラは石畳の上に倒れたまま、その光景を見上げていた。


 思考が止まった。


 前世の記憶が一瞬で蘇る。毒。矢。血。冷たい床。死の感触。自分を殺した毒と同じ匂いが——いや、違う。これは。


「クラウス様!!」


 叫んだ。


 自分でも聞いたことのない声だった。令嬢の声ではない。計画者の声でもない。ただの——十七歳の少女の、悲鳴に近い叫び。


 クラウスは左腕を押さえたまま、茂みの方を凝視していた。黒い影が一つ、庭園の奥に走り去っていくのが見えた。追えない。腕から血が流れている。


「衛兵!」


 クラウスの声が庭園に響いた。低く、鋭く。腕に矢が刺さっているにもかかわらず、その声に揺らぎはなかった。


 駆け寄ってきた衛兵たちに指示を飛ばす。


「東庭園の茂みから暗殺者が逃走。黒い外套、小柄。東門を封鎖しろ。城壁の見張りに伝達——」


「クラウス様、腕が——!」


 エレノーラが立ち上がり、クラウスの左腕に手を伸ばした。矢が上腕に深く刺さっている。矢羽根が血に染まり、滴が石畳に落ちて小さな赤い点を作っていた。


「矢は腕です。致命傷ではない」


 クラウスの声は平坦だった。まるで報告書を読み上げるように。


「騒がないでください」


「血が出ているのに何を冷静に——!」


 声が震えた。手も震えていた。クラウスの腕に触れた指先が、温かい血に濡れている。


(前世では——わたしが、毒で死んだ)


 あの時の冷たさを覚えている。体から温度が奪われていく感覚。暗くなっていく視界。


 今、目の前で——この人の血が流れている。温かい。まだ温かい。


「毒矢かもしれません。すぐに治療を——」


「エレノーラ嬢」


 クラウスが片手でエレノーラの肩に触れた。血のついていない右手。その手が、しっかりとエレノーラの肩を押さえている。


「落ち着いてください」


「落ち着いていられるわけが——」


「あなたが無事なら、問題ありません」


 淡々とした声だった。


 感情のこもらない、いつものクラウスの声。報告書を読むような、事実だけを述べる声。


 けれど——その言葉の意味に気づいた時、エレノーラの息が止まった。


(この人は——感情で動いた)


 クラウス・フォン・ジークムント。合理の人。常に最善手を選ぶ人。感情を排し、論理で全てを組み立てる人。


 その人が、咄嗟に体で庇った。


 計算ではない。判断でもない。矢の軌道を見極めて最適な対応を選んだのではなく——ただ、この人の体が先に動いた。


「……馬鹿」


 声が漏れた。令嬢の言葉ではない。計画者の言葉でもない。


「あなたが怪我をしたら——誰が、わたくしの隣で」


 言葉が続かなかった。喉が詰まった。涙は出ない。泣かないと決めている。


 けれど唇が震えていた。血のついた手を握りしめている。


 クラウスは何も言わなかった。ただ眼鏡を右手で押し上げ——紺色の瞳でエレノーラを見た。


「死にませんよ」


 静かな声だった。


「まだ、あなたの隣で見届けると言ったばかりですから」


 衛兵たちが駆けつけてきた。治療師を呼ぶ声。担架の手配。東門封鎖の報告。庭園が騒然となっていく。


 クラウスは衛兵が到着しても、矢の刺さった腕で衛兵長に指示を出し続けた。顔色は白い。額に汗が浮いている。それでも声は乱れなかった。


「矢を確保しろ。鏃に毒が塗られている可能性がある。素手で触るな」


「クラウス様、それよりお体を——」


「矢の出所が先だ。茂みの根元に射角から逆算した位置がある。足跡を踏み消すな」


 合理の人だった。自分の血が腕を伝っていても、頭は冷徹に回り続けている。


 その姿を見ながら、エレノーラは唇を噛んだ。


(怒っている。わたし——この人に、怒っている)


 怒りの矛先は曖昧だった。暗殺者に対して。自分の不注意に対して。そして何より——この人が、自分の命を軽く扱うことに対して。


 クラウスは衛兵に支えられながら治療室へ向かった。自分の足で歩くと言い張ったが、三歩目で膝が僅かに揺らいだ。失血が効いている。衛兵の一人が肩を貸し、クラウスは無言でそれを受け入れた。


 左腕から血が滴り落ち、石畳に赤い線を引いている。薔薇の花壇の脇を通り、回廊の角を曲がり——やがて、その背中が見えなくなった。


 エレノーラはその場に立ち尽くしていた。


 動けなかった。


 足元の石畳に、クラウスの血が落ちている。赤い点が、薔薇の花弁のように散っている。


 自分の手を見下ろした。


 血がついていた。クラウスの血。温かかった血が、もう冷たくなりかけている。


(前世では——わたしの血が、冷たくなった)


 あの時は一人だった。冷たい床の上で、誰にも看取られずに。


 今——この人が、わたしの代わりに血を流している。


「お嬢様」


 マリアが駆け寄ってきた。エレノーラの手を取り、顔を覗き込む。


「お怪我は——」


「わたくしは、無事よ」


 声がかすれた。


「……わたくしは」


 マリアの手を握り返す力が、微かに震えていた。


 庭園の薔薇が風に揺れている。甘い香りの中に、鉄の匂いが混じっていた。


 穏やかだった午後は、もうどこにもなかった。


 エレノーラは血のついた手を握りしめたまま、クラウスが消えた回廊の奥を見つめていた。


(お願い。無事でいて)


 計画も。策略も。前世の知識も。


 全部——今は、どうでもよかった。

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