33.叔母の断罪
ハーゼンベルク公爵邸の応接室は、花の香りがした。
白百合。カタリーナ叔母がいつも好んでいた花だ。前世でも、この人が訪ねてくる日には必ず白百合が飾られていた。幼いエレノーラはその香りを嗅ぐたびに嬉しくなったものだ。
今、同じ香りが鼻腔に触れて——胃の底が冷えた。
「お待たせいたしました、叔母様」
扉を開けた。
応接室の長椅子に、カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルクが座っていた。深い紫のドレスに身を包み、背筋を伸ばしている。四十を過ぎてなお美しい横顔。母に似た面差し。柔らかな栗色の髪が肩に落ちている。
エレノーラの母が生きていたら、こんな姿だっただろうか。
(——考えるな。今は)
「エレノーラ。久しぶりね」
カタリーナの声は穏やかだった。いつもと同じ、優しい叔母の声。
「ええ。お元気そうで何よりですわ」
エレノーラは向かいの椅子に腰を下ろした。膝の上に、一つの書類鞄を置いた。
*
「聖女の件、大変だったでしょう。あなたが無事で本当に良かったわ」
カタリーナが微笑んだ。心配する叔母の顔。前世のエレノーラなら、その笑顔を疑わなかっただろう。
「ありがとうございます、叔母様」
エレノーラも微笑み返した。同じ種類の仮面。同じ種類の演技。この人と自分は、似ている。だからこそ——見抜ける。
「それで、今日はどのようなご用件かしら。お茶でも——」
「いいえ、叔母様。今日は用件だけで」
声の温度を一段下げた。
カタリーナの目が僅かに細くなった。ほんの一瞬。だがエレノーラは見逃さなかった。
書類鞄を開いた。
「叔母様。単刀直入にお聞きします」
最初の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ハーゼンベルク家の別邸に、隣国の仲介人が出入りしていました。その日付と、叔母様が別邸に滞在された日付が——全て一致しております」
白百合の香りが、室内に漂っていた。
カタリーナの表情は変わらなかった。微笑みのまま、書類に目を落とす。
「何のことかしら。偶然では——」
「二つ目です」
次の書類を重ねた。
「エステリア公国の取引口座への送金記録に、叔母様の筆跡と一致する署名がございました。筆跡鑑定の結果も添えてあります」
「まあ。筆跡なんて似ることもあるでしょうに——」
「三つ目」
最後の書類を置いた。
「聖女の私室から押収された暗号書簡に、ハーゼンベルク家の内部情報が含まれていました。父の執務予定、屋敷の警備配置、そして——わたくしの食事の献立」
声が、一瞬だけ揺れた。
食事の献立。毒を盛るために必要な情報。前世で自分を殺すために使われた情報を、この人が渡していた。
「この情報にアクセスできるのは、公爵家の家族だけです」
三枚の書類がテーブルの上に並んでいる。白百合の花瓶の隣に。
「叔母様。弁明があれば、お聞きしますわ」
*
沈黙が落ちた。
カタリーナの微笑みが——ゆっくりと、溶けるように消えた。
優しい叔母の顔が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、エレノーラが一度も見たことのない表情だった。冷たく、乾いた目。唇の端が歪み、皺が深く刻まれる。
「——あなたに見抜かれるとはね」
声が変わっていた。優しさの欠片もない、低い声。
「十七年。十七年間、完璧だったのに」
カタリーナが背もたれに体を預けた。もう演技をする気がないのだと、その姿勢が語っていた。
「なぜ、と聞くのかしら」
「聞きたいのは事実の確認だけですわ。動機は——」
「遺産よ」
あっさりと言った。
「ヴァイセンブルク家はもう終わりなの。領地は枯れ、夫は寝たきり、借金だけが膨らんでいく。ハーゼンベルク家の遺産があれば——全てが解決したわ」
「わたくしが死ねば」
「ええ。あなたが死ねば」
白百合の香りの中で、叔母は姪の死を語った。抑揚のない声で。まるで帳簿の数字を読み上げるように。
(この人は——最初から、わたくしを金貨の山としか見ていなかったのだ)
痛みが走った。証拠を突きつける前から覚悟していたはずだった。だが言葉にされると、古い傷口が開くのがわかった。
幼い日の記憶。泣いている自分の髪を撫でてくれた手。あの温もりすら演技だったのか。
「お前なんかに——」
カタリーナの声が、突然鋭くなった。
「公爵家は務まらない。あの姉の娘。おっとりして、何も見えていない。政治も謀略もわからない小娘に、ハーゼンベルク家の名が——」
「ええ」
エレノーラが静かに遮った。
「以前のわたくしなら、そうだったかもしれません」
声は震えなかった。怒りに任せて叫ぶこともしなかった。前世の自分なら——叔母のその言葉に心が折れていただろう。「お前なんかに」。その一言で、自分には価値がないのだと信じ込んでいただろう。
「でも今のわたくしは——」
立ち上がった。
カタリーナを見下ろした。叔母の目が揺れた。初めて見る表情——それは怯えだった。目の前の姪が、もう知っていたあの少女ではないことに気づいた顔。
「ハーゼンベルク家の名に恥じない当主になると、決めた人間です」
静かに、しかし一切の迷いなく言い切った。
「叔母様。お世話になりました。幼い頃の優しさが全て嘘だったのかどうか、今のわたくしには判断がつきません。でも——証拠が示す事実は変わりません」
書類鞄を閉じた。
「身柄の拘束と取り調べについては、宰相府から正式な通達が参ります」
カタリーナは何も言わなかった。ただ長椅子に座ったまま、目の前の姪を見上げていた。
白百合の花弁が一枚、音もなくテーブルに落ちた。
*
応接室の扉を開けた。
廊下に出た瞬間——足が止まった。
壁際に、人影があった。
ハーゼンベルク公爵。エレノーラの父が、廊下の壁に片手をつき、俯いていた。
(——聞いていたのだ。全て)
「父様」
声をかけた。
公爵がゆっくりと顔を上げた。五十歳の顔に刻まれた皺が、いつもより深く見えた。目が赤い。泣いていたのだと、一目でわかった。
この人が泣くところを、エレノーラは見たことがなかった。母の葬儀でさえ、父は泣かなかったと聞いている。
「エレノーラ」
低い声が、掠れていた。
「聞いていたのですか——と、聞くのは愚問ですわね」
「……ああ」
公爵が壁から手を離した。背筋を伸ばそうとして——伸びきらなかった。
「カタリーナのことは——わかっていた。いや、わかりたくなかっただけかもしれん。妻の妹だ。家族だった。疑いたくなかった」
「父様——」
「お前を、守れなかった」
声が震えた。
エレノーラは息を呑んだ。
「妻を亡くし、娘を一人にし、身内の裏切りにも気づけなかった。——わたしが、至らなかった」
公爵の目から、一筋の涙が頬を伝った。
拭わなかった。拭うことを忘れたように、ただ娘の顔を見ていた。
初めてだった。
この父が、自分の前で涙を見せたのは。
(父様——)
胸の奥が、ひどく痛んだ。怒りではない。恨みでもない。ただ——この人もまた、不器用に戦ってきたのだと理解した。宮廷という戦場で、公爵という仮面の下で、一人の父として娘を守りたかったのだと。
「父様」
エレノーラは一歩、近づいた。
「わたくしは、ここにいます」
それだけを言った。
公爵の肩が震えた。大きな手が、不器用にエレノーラの頭に乗った。幼い頃にそうしてくれたように。けれどあの頃よりも——その手は、重かった。
廊下に、白百合の香りがかすかに漂っていた。
応接室の中では、叔母が一人で座っている。花弁が落ちたテーブルの前で。
廊下では、父と娘が立っている。言葉は少なかった。けれど——初めて、二人の間にある壁が、静かに崩れ始めていた。




