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31.隣国の影

 セレスティアの口が割れたのは、拘束から五日目の朝だった。


 宰相府に届いた報告書を開いた瞬間、エレノーラの指が止まった。名前が列挙されている。三人、五人、八人——芋づる式に、次々と。


「十一名」


 向かいの席でクラウスが眼鏡を押し上げた。


「聖女が接触していた人間の数です。宮廷内の侍従三名、商会の代理人二名、国境の関所役人が四名、そして教会内部に二名」


(十一人も——この王宮の中に、隣国の手が伸びていた)


 エレノーラは書類のページをめくった。名前の横に記された役職と、それぞれがセレスティアに渡していた情報の一覧。宮廷の人事、軍の配置、国庫の状況——断片を集めれば、グランディア王国の骨格が丸裸にされる。


「エステリア公国は、これだけの網を張っていたのですね」


「ただし」


 クラウスの声が一段低くなった。


「セレスティアが知っていたのは、末端の名前だけです」



      *



「末端、とは」


「諜報網には階層がある。セレスティアは表の顔——王宮に入り込むための看板でした。資金を動かし、情報を集め、目立つ役割を担っていた」


 クラウスが机の上に白紙を広げ、ペンで簡潔な図を描いた。頂点に疑問符。その下にセレスティアの名前。さらにその下に、十一人の名前が枝分かれしている。


「逆に言えば、上の人間の名前を知る必要がなかった。知られては困る人間が、別にいる」


「本命の工作員」


「ええ。セレスティアが捕まることは、エステリア公国にとって想定内だった可能性すらあります。末端を切り捨てて本体を守る——諜報の常套手段です」


 エレノーラは椅子の背にもたれた。


 十一人の名前。それは成果ではある。だが同時に——最も危険な人間がまだ見えていないという証拠でもあった。


「セレスティアに自覚はあったのでしょうか。自分が囮だという」


「なかったでしょう。彼女は自分が頂点だと信じていたはずです。だからこそ、簡単に口を割った」


(使い捨て。セレスティアもまた——駒だった)


 不思議と、怒りは湧かなかった。哀れみとも違う。ただ、諜報という世界の冷徹さが、骨の芯まで染みた。


「一つ、気になることがあります」


 エレノーラは報告書の三ページ目を指で押さえた。


「国境の関所役人が四名。これは——人の出入りを操作するためですわね」


「ご明察です。通行記録の改竄と、密使の通行を見逃す役割です」


「つまり、この四名が健在だった間は、エステリア公国の人間が自由にグランディア王国に入れた」


「少なくとも東の三つの関所については、そうなります」


 エレノーラの背筋に冷たいものが走った。


 聖女が拘束されたのは五日前。関所役人の拘束はまだ始まっていない。報告書が上がったのが今朝。つまり——この五日間、隣国の人間はまだ自由に出入りできていたことになる。


「クラウス様。関所の封鎖は」


「今朝の時点で手配済みです。父上——宰相の名で、騎士団に命じました」


「間に合っていれば良いのですが」


「間に合っていない可能性の方が高い。五日あれば、人一人が入国するには十分です」


 短い沈黙が落ちた。二人の間に、同じ結論が浮かんでいた。


 本命は、もうこの国の中にいるかもしれない。


 扉が控えめに叩かれた。マリアだった。


「お嬢様。宰相閣下より伝言です。拘束した関所役人の一人が——逃走したと」


 エレノーラはクラウスと目を合わせた。紺色の瞳が、僅かに険しくなっていた。


「やはり」


「ええ。動き始めています」


 マリアが下がった後、二人は再び書類に向き合った。



      *



「クラウス様」


 書類を閉じた。窓の外では、午後の陽光が宰相府の庭を照らしている。穏やかな光だった。この光の下で、見えない戦いが続いている。


「エステリア公国の最終的な目的は、何だとお考えですか」


 クラウスのペンが止まった。


「王国の弱体化——それが表向きの読みです。聖女を使って内部を腐食させ、派閥を分断し、国力を削ぐ。だが」


「だが?」


「資金の流れを精査した際、一つだけ不自然な項目がありました」


 クラウスが別の書類を引き出した。帳簿の写しだった。


「神殿への寄進金の中に、使途不明の一件がある。金額は小さい。だが宛先が——大神殿の地下書庫になっている」


「地下書庫?」


「大神殿の最深部にある、一般には公開されていない区画です。何が保管されているか、現時点では確認できていません」


 エレノーラの胸の奥で、微かな警鐘が鳴った。前世の記憶を探る。大神殿の地下——何か聞いた覚えがある。だが輪郭が掴めない。霧の中を手探りするような感覚。


(前世では、ここまで辿り着けなかった)


 そう。前世のエレノーラは聖女の断罪まで到達できずに死んだ。今いるこの場所から先は——一度も歩いたことのない道だ。


「クラウス様」


 声が、自分でも思わぬほど静かだった。


「正直に申し上げます」


 膝の上の拳を、ゆっくりと開いた。


「前世では、この先は未知の領域です。わたくしが持っていた知識は、もう——ここで尽きました」


 言葉にした瞬間、体の芯が冷えた。今までずっと支えだった「知っている」という優位が、完全に消えた。


「今までは『予定通り』と言えました。でもこれからは——何が起こるか、わたくしにもわかりません」


 クラウスは黙っていた。


 長い沈黙だった。窓の外で鳥が鳴いている。午後の光が書類の上に影を作り、二人の間に静かな時間が流れた。


「構いません」


 クラウスの声は、いつも通りだった。淡々として、感情を排した声。


「未知であるなら、調べればいい。前世の記憶がなくとも、帳簿は読める。証拠は集められる。論理は崩れない」


 眼鏡の奥の紺色の瞳が、真っ直ぐにエレノーラを見た。


「あなたの強さは、前世の知識だけではなかったはずです」


(——ああ)


 胸の奥で、何かが温かくほどけた。


 この人は、そう言ってくれるのだ。「知っている」ことだけが価値ではないと。今の自分の判断も、今の自分の目も、信じていいのだと。


 エレノーラは深く息を吸った。


「ええ。おっしゃる通りですわ」


 立ち上がった。椅子を引き、窓辺に歩み寄る。午後の光が琥珀色の瞳に差し込んだ。


「台本のない舞台は怖いですわ。でも——」


 振り返った。


 クラウスが机越しにこちらを見ている。銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。変わらない表情。変わらない瞳。


 この人がいる。それだけで、白紙の未来が少しだけ怖くなくなる。


「ここからは、二人で未来を書きます」


 恋の告白ではなかった。戦略の宣言でもなかった。もっと深い場所から出た言葉——信頼と覚悟が溶け合った、二人だけの誓い。


 クラウスの眼鏡の奥が、かすかに細められた。


「——異論はありません」


 短い返事だった。


 けれどその声の温度が、ほんの僅かだけ——いつもより温かかったことを、エレノーラは聞き逃さなかった。


 窓の外で、風が吹いた。東の空に薄い雲がかかっている。その向こうに、まだ見えない隣国の影が——静かに、動き始めていた。

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