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30.嵐の後の沈黙

 大神殿のバルコニーに出た時、夕陽が王都を染めていた。


 赤と橙と紫が混じり合う空の下、城壁の向こうに広がる街並みが琥珀色に輝いている。尖塔の影が長く伸び、遠くで教会の鐘が鳴った。夕方の六つの鐘。いつもと同じ音のはずなのに、今日はどこか柔らかく聞こえた。


 エレノーラは石の欄干に手をかけ、深く息を吸った。


 泣いていない。


 笑っている。


 自分でも不思議だった。前世のあの日、婚約を破棄された瞬間——世界が崩れ落ちるような絶望に飲み込まれたのに。今、同じ「婚約破棄」という結末に立って、こんなにも穏やかでいられるとは。


(変わったのね。私)


 風が吹いた。深い赤みがかった茶髪が揺れる。ドレスの裾がはためいて、バルコニーの石畳を撫でた。


 広間では後始末が続いているだろう。セレスティアの身柄。アレクシスの処遇。貴族たちの動向。全てが動き始めている。


 でも今だけは——ほんの少しだけ、ここにいたかった。


「——美しい夕焼けですわね」


 誰に向けたわけでもない言葉が、風に溶けた。



      *



 足音がした。


 規則的で、無駄のない足取り。聞き慣れた靴音。


「お一人ですか」


 振り返らなくても、わかった。


「クラウス様」


「マリアが心配していました。広間からいなくなったと」


「少しだけ、風に当たりたくて」


 クラウスが隣に立った。バルコニーの欄干に背を預け、広間の方を向いている。エレノーラは夕陽の方を向いたまま。視線は交差しないが、肩の距離は——手を伸ばせば触れるほど近い。


「終わりましたね」


 クラウスの声は淡々としていた。いつも通りの、感情を排した声。


「聖女の認定取り消し、資金流用の調査開始、そして——婚約の破棄。当面の目標は、全て達成です」


 合理的な総括。いつものクラウスだった。


 エレノーラは小さく首を振った。


「いいえ。まだですわ」


「まだ?」


「聖女の背後には、エステリア公国がいます」


 夕陽に目を細めた。王都の向こう、東の空がすでに藍色に沈みかけている。その先に、隣国がある。


「資金の流れは断ちましたが、彼らの目的が王国の弱体化であるなら、聖女一人を失っただけでは止まらない。次の手を打ってくるはずです」


「——加えて」


 クラウスが続けた。


「聖女に協力していた国内の人間。教会内の協力者。そして、毒の入手経路に関わった者たち」


 毒。


 その一語に、エレノーラの指が僅かに強張った。


 前世で自分を殺した毒。その出所に繋がる人間が、まだこの宮廷のどこかにいる。


「本当の戦いは、これからですわね」


 声は静かだった。けれど揺らがなかった。


 クラウスが眼鏡を押し上げた。夕陽の光がレンズに反射して、一瞬だけ紺色の瞳が見えなくなる。


「エレノーラ嬢」


「はい」


「あなたの隣で、最後まで見届けます」


 淡々とした声だった。感情の起伏のない、報告書を読むような声。


 なのに——その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、エレノーラの目頭がじわりと熱くなった。


(泣かないって決めたのに。——ずるい人)


 唇を噛んで堪えた。夕陽のせいにすればいい。この熱は。


「……ありがたいお言葉ですわ。パートナーとして、心強い限りです」


「パートナー、ですか」


「ええ。何か不服でも?」


「いいえ。十分です」


 声の温度が、ほんの少しだけ変わった気がした。気のせいかもしれない。夕風の音が大きくて、よく聞こえなかっただけかもしれない。



      *



 二人の間を、風が通り過ぎた。


 夕方の風は冷たいはずだった。大神殿は高台にあり、この時刻のバルコニーは冷え込む。


 けれど——不思議と、寒くなかった。


 隣に立つ人の体温が、風に混じって届いているような。そんな錯覚。


「クラウス様」


「はい」


「先ほどの拍手——最初に手を打ってくださったのは、あなたでしたね」


 クラウスは一拍、間を置いた。


「誰かが始めなければ、場が動かない。合理的な判断です」


「合理的」


 エレノーラは小さく笑った。この人はいつも、そう言う。


「ええ。そういうことにしておきますわ」


 夕陽が沈みかけている。空の半分が藍色に、半分がまだ橙色に燃えている。昼と夜の境目。終わりと始まりが重なる時間。


 エレノーラは欄干から手を離し、空を見上げた。


「でも——一つだけ、終わったことがあります」


「何ですか」


 風が凪いだ。


 ほんの一瞬、バルコニーの空気が静まった。遠くの鐘の余韻だけが、微かに残っている。


「わたくしはもう——あの頃のわたくしではありません」


 静かな声だった。


 前世で、冷たい床の上で毒に蝕まれながら死んだ少女。何一つ自分の意志で選べなかった少女。


 今世の初め、復讐だけを胸に立ち上がった少女。怒りと執念で前に進んだ少女。


 その、どちらでもない。


 今ここに立っているのは、自分の足で歩き、自分の言葉で未来を切り拓くと決めた女。傍らに信じられる人がいることを知った女。


「あの頃の——とは」


「ええ、存じておりますわ。あなたが聞きたいのは、前世の話か今世の話か、でしょう」


 クラウスが僅かに目を見開いた。読まれたことへの驚き。この表情を見るのは、何度目だろう。


「どちらも、ですわ。怯えて死んだ前世の私も、復讐だけで動いていた今世の初めの私も——もう、いません」


 振り返った。


 夕陽を背にしたクラウスの輪郭が、金色の光に縁取られている。銀灰色の髪が夕風に揺れ、眼鏡のレンズが茜色に染まっていた。


 その向こうにある紺色の瞳が、まっすぐにエレノーラを見ていた。


「では、今のあなたは」


「さあ。まだ名前をつけていませんわ」


 微笑んだ。令嬢の仮面でも、強がりでもない。ただ——穏やかな笑み。


「でも悪くない気分ですわ」


 クラウスは何も言わなかった。


 ただ、眼鏡の奥の目が——ほんの僅かに、柔らかくなった。この人が見せる、最大限の感情表現。もう、それだけで十分だとわかっている自分がいた。


 夕陽が最後の光を落とし、大神殿のバルコニーに夜の帳が降り始めた。


 二人は並んで立っていた。手は触れていない。言葉も途切れている。


 けれど、その沈黙は冷たくなかった。


 二人の間を通り過ぎる風が——少しだけ、温かかった。




 第三章 偽りの聖女 了

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