3.観察者の眼鏡
あの視線が、まだ残っている。
夜会から三日が過ぎた。王宮の回廊を歩きながら、私は何度も首の後ろに手をやった。誰かに見られているような感覚。もちろん、振り返っても誰もいない。
銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。あの男の正体は、翌日には判明した。
クラウス・フォン・ジークムント。宰相補佐官。二十四歳。宰相グレゴールの息子にして、王宮でもっとも冷徹と称される若き官僚。
(——知らない名前だ)
前世の三年間、一度も聞いたことがなかった。宰相の息子なら、宮廷のどこかですれ違っていてもおかしくないのに。私があまりにも閉じこもりすぎていたのか、あるいは——この人が、表に出ない人間だったのか。
どちらにせよ、前世の私の地図にはいなかった人。
それが、なぜか不安だった。
*
その日の午後。王宮の庭園で催された小規模な茶会に、私は顔を出していた。
夜会での振る舞いが功を奏したのか、以前より声をかけてくれる令嬢が増えた。薄い信頼の糸。まだ頼りないけれど、ないよりずっといい。
「エレノーラ様」
声がかかったのは、茶会の席を立とうとした時だった。
低い声。穏やかだが、妙に通る。
振り返った先に——あの銀灰色が立っていた。
「失礼。お時間をいただいても?」
クラウス・フォン・ジークムントが、わずかに頭を下げた。眼鏡の奥の目は、夜会の時と同じだ。凪いでいる。何の感情も読めない。
「ええ、もちろんですわ」
微笑みを作る。心臓が少し速くなるのを意志の力で抑えた。
「宰相補佐官のクラウス・フォン・ジークムントと申します。先日の夜会では、ご挨拶する機会を逸しまして」
「ハーゼンベルク公爵家のエレノーラですわ。ご丁寧にありがとうございます」
社交辞令。型通りの挨拶。ここまでは、何も問題ない。
「庭園をご一緒してもよろしいですか。少しお話ししたいことが」
「まあ、なんでしょう」
断る理由がない。いや——断れば不自然だ。
私たちは庭園の小径を並んで歩き始めた。薔薇のアーチの下。春の陽光が柔らかい。穏やかな午後。
——のはずなのに、隣を歩くこの人の空気だけが、冷たい。
*
「先日の夜会は、お楽しみでしたか」
「ええ。とても素敵な夜でしたわ」
「ハーゼンベルク公爵令嬢が社交を楽しまれるのは、珍しいと伺いましたが」
さり気ない。だが、刃が仕込まれている。
この人は「以前のあなたは社交が苦手だったはずだ」と言っている。
「人は変わりますわ、クラウス様。お花見の季節ですもの、少し心が浮き立っただけです」
「なるほど。季節の力というのは侮れない」
表面上は納得した顔をしている。だが眼鏡の奥の目は、微塵も納得していなかった。
「夜会では随分と多くの方とお話しされていましたね」
「ええ。せっかくの機会ですもの」
「マルグリット・アーデルハイト嬢。ヴィクトール伯の御息女。ランベール男爵夫人。いずれも、以前はあまり交流のなかった方々だと記憶していますが」
(——この人、私の交友関係まで把握しているの?)
背筋が冷えた。観察されていた。夜会のあの瞬間だけではない。もっと前から——あるいは、あの夜から徹底的に調べたのだ。
「興味の幅を広げましたの。同じお相手とばかりお話ししていては、視野が狭くなりますもの」
「おっしゃる通りです。——ところで、バルコニーの扉が不調だったのはご存じですか」
心臓が、跳ねた。
顔には出していない。出していないはずだ。
「まあ、そうでしたの? 存じませんでしたわ」
「ええ。蝶番の不具合だったそうです。翌朝には直っていたと聞きました。不思議なこともあるものです」
——翌朝には直っていた。
当然だ。私の細工は一晩限りのもの。朝になれば自然に元に戻るよう仕込んでいた。
でもこの人は「不思議だ」と言っている。偶然の故障にしては都合がよすぎる、と。
「建物も年月が経てば不調が出ますわ。王宮ともなれば、なおさらでしょうね」
「ごもっともです」
クラウスが足を止めた。
私も立ち止まる。薔薇のアーチの下。木漏れ日が、銀灰色の髪に斑の光を落としていた。
「失礼ですが——以前、お会いしたことはありますか」
空気が変わった。
社交辞令の皮が、するりと剥がれた。この人の目が、初めて本気の色を見せている。
「いいえ」
即答した。声が震えていないことを確認する。
「あなたのお名前も、今夜——いえ、先日の夜会で初めて知りましたわ」
嘘ではない。
前世の三年間、クラウス・フォン・ジークムントという名前は一度も私の耳に入らなかった。私たちは本当に、前の人生では他人だった。
「そうですか」
クラウスが、少し首を傾げた。
「では、なぜ」
「なぜ?」
「あなたの受け答えは——公爵令嬢にしては、不自然なほど的確だ」
息が詰まった。
「社交辞令には慣れています。しかし、あなたの言葉には社交辞令の『型』がない。相手の弱点と関心を把握した上で、最も効果的な返答を選んでいる。まるで——何十回も試行した結果のような精度です」
(……この人)
全身の毛が逆立つような感覚。恐怖ではない。もっと原始的な、獣が天敵に出くわした時のような緊張。
「買いかぶりですわ。私はただの公爵令嬢ですもの」
「ただの公爵令嬢は、あの笑い方はしません」
「あの笑い方?」
「夜会で、バルコニーの方を見た瞬間。あなたは笑っていた。楽しいから笑ったのではない。——計画通りに物事が運んだ時の、達成の笑みです」
(——見られていた)
あの一瞬を。セレスティアが困惑するのを遠くから眺めて、つい口元が緩んだ、あの一瞬を。
沈黙が落ちた。
薔薇の花弁が一枚、風に揺れて落ちる。私たちの間の地面に。
「……ずいぶんと、観察がお好きなのですね」
「職業病です」
クラウスの唇が、かすかに動いた。笑みと呼ぶには薄すぎる、けれど確かに感情のある変化。
「ご気分を害したのなら、申し訳ない。ただ——あなたは興味深い方だ」
「興味深い、ですか」
「ええ。私の知る限り、三日で別人のように変わった人間を、他に知りません」
心臓が、鳴っている。
この人の前で微笑みを維持するのが、これほど難しいとは思わなかった。見透かされている。全部ではないけれど、「何かがおかしい」ということを、正確に捉えている。
「お褒めいただいたと受け取っておきますわ」
「お好きなように」
クラウスが一歩引いた。社交的な距離。
「今日はお時間をいただき、ありがとうございました。——また、お話しできれば幸いです」
「ええ、こちらこそ」
優雅に一礼して、彼は踵を返した。長い脚が、庭園の小径を離れていく。
その背中が十分に遠ざかるのを待って——私は、薔薇のアーチの柱に手をついた。
膝が、少し震えていた。
(……危険だ)
あの人は危険だ。アレクシスやセレスティアとは違う種類の脅威。あの二人は愚かだから御しやすい。でもクラウス・フォン・ジークムントは——頭が切れる。観察力がある。そして何より、嘘を見抜く。
敵に回したら、致命的。
でも——
(不思議だ)
怖かったはずなのに、不快ではなかった。
あの冷たい視線の中に、悪意がなかった。好奇心はあった。分析する目はあった。でも、嘲りも、見下しも、一片もなかった。
前世で私を取り囲んだ視線は、全て痛かった。嘲笑。哀れみ。無関心。そのどれとも違う。
あの人の目は——ただ、「知りたい」と言っていた。
風が吹いて、薔薇の香りが鼻をくすぐる。
(この人——前の人生には、いなかった人。なぜ今、私の前に現れたの?)
答えは出ない。
前世の地図にない人間。私の知識が通用しない、唯一の変数。
その存在が怖いのか、心強いのか。
——まだ、わからなかった。




