表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/36

29.婚約破棄は私から

 国王の声が、大神殿の広間を震わせた。


「アレクシス」


 その一言で、空気が変わった。聖女の断罪が終わったばかりの広間に、新たな緊張が走る。国王が玉座から立ち上がり、第二王子を見据えていた。


「父上、これは——」


「黙りなさい」


 低く、重い声だった。先ほどセレスティアに向けた「もうよい」とは質の異なる怒り。王としてではなく、父としての——失望だった。


「聖女の不正を知りながら庇い立てし、国庫の資金を私的に流用させた。お前はこの国の王子として、何を見ていた」


 アレクシスの顔から血の気が引いていく。金髪が汗で額に張り付き、碧い目が揺れていた。


「違います、父上。私は聖女に騙されていただけで——」


「騙されていた?」


 国王の声が、さらに冷たくなった。


「三年間、騙され続けたと? それは無能の告白か、それとも共犯の自白か。どちらだ」


 広間にいる貴族たちが、息を詰めている。エレノーラは自分の席から、その光景を静かに見つめていた。


(——前世では、この場所に立っていたのは私だった)


 あの日、大広間の中央で断罪されたのはエレノーラだった。身に覚えのない罪を着せられ、弁明の機会すらなく、笑い者にされて。


 今、同じ場所でアレクシスが膝を震わせている。


 因果の反転。それを見つめるエレノーラの心は、不思議なほど凪いでいた。



      *



 国王の叱責が終わった後、広間は一時的な休憩に入った。


 貴族たちがざわめく中、エレノーラは回廊に面した控えの間で水を口にしていた。マリアが傍らに立ち、周囲に人がいないことを確認している。


「お嬢様。第二王子殿下が——」


 マリアが言い終える前に、足音が近づいた。


 速い。乱れた足取り。


「エレノーラ」


 アレクシスだった。


 先ほどまでの王子の威厳は消えていた。金髪は乱れ、碧い目は血走り、口元が引きつっている。


「話がある。二人きりで」


「マリアは下がらなくて結構ですわ」


 エレノーラは穏やかに答えた。マリアがその場に留まる。


 アレクシスは一瞬苛立ちを見せたが、すぐに表情を作り直した。懇願の顔。前世でも何度か見た、都合のいい時だけ浮かべる顔。


「頼む、エレノーラ。婚約を——このまま続けてくれ」


(やはり、そう来る)


 予想通りだった。前世の記憶が脳裏を過ぎる。あの頃のアレクシスは、いつもこうだった。自分に不利になると甘い言葉で繋ぎ止めようとする。餌は「婚約者」という立場。


「お前がいなければ、私は終わりだ。ハーゼンベルク公爵家の後ろ盾がなくなれば、父上はもう私を見限る。第一王子派が——」


 碧い瞳に涙すら浮かんでいた。この涙を、前世の自分は信じた。この人にも情があるのだと。自分を必要としてくれているのだと。


 愚かだった。


「殿下」


 エレノーラは静かに遮った。


「お聞きしてもよろしいですか。わたくしが必要なのですか。それとも、ハーゼンベルク家の名前が必要なのですか」


 アレクシスの口が、一瞬止まった。


 ほんの一瞬。だがその一瞬に、全ての答えがあった。視線が泳ぎ、唇が戦慄いて、それでも取り繕おうとする——その所作の全てが、この男の本質を物語っていた。


「そ、それは——お前のことを大切に思っていないわけでは」


「ええ、存じておりますわ」


 いつもの口癖が、今日は別の響きを持っていた。


「殿下がわたくしをどう思っているか。三年間——いいえ、それ以上の時間をかけて、よく存じております」


 前世を含めれば、六年だった。婚約者として傍にいた三年間と、裏切られてから死ぬまでの三年間。その全てを知っている。


 アレクシスの顔が歪んだ。何かを言おうとして、言葉が出ない。


「殿下は、わたくしの名前を呼ぶ時——一度も、わたくしの目を見たことがございませんでした」


 静かに、事実だけを述べた。


 アレクシスが息を呑む。今まさに、この男の目がエレノーラではなく自分の足元を見ていることに、本人は気づいているだろうか。


 エレノーラは一歩、前に出た。



      *



 広間に戻った時、貴族たちの視線が集まった。


 エレノーラは中央に進み出た。アレクシスがその後を追うように歩いている。国王の前、百人以上の貴族の前。


 前世では、この広間の中央は処刑台だった。


 あの日——アレクシスが高らかに婚約破棄を宣言した日。エレノーラはこの場所で、膝から崩れ落ちた。周囲の嘲笑。聖女の涙。そして王子の冷たい目。「貴様との婚約を破棄する」。その一言で、世界が終わった。


 今、同じ場所に自分の足で立っている。


 膝は震えていない。声は震えていない。心臓だけが、少しだけ速く打っている。


「陛下。お時間をいただけますでしょうか」


 国王が頷いた。広間が再び静まった。


 エレノーラは深く息を吸った。


(前世の私。冷たい床の上で、何もわからずに死んだ私。——聞いてくれていますか)


(あの日言えなかった言葉を、今から言う。見ていて)


 琥珀色の瞳を上げた。


 広間の全員がこちらを見ている。アレクシスが隣で顔を強張らせている。セレスティアが端の席で蒼白のまま座っている。


 そして——広間の奥、壁際に。銀灰色の髪と銀縁の眼鏡。クラウスが静かに立っていた。


 視線が交差した。


 紺色の瞳は何も語らない。いつも通りの、感情を排した顔。けれどその目が、まっすぐにエレノーラだけを見ている。


(大丈夫。もう、怖くない)


「殿下」


 アレクシスに向き直った。


 前世では、この言葉を彼の口から聞いた。嘲笑と共に。周囲の笑い声の中で。泣くことすらできずに。


 今、同じ言葉を自分の口から紡ぐ。


 怒りはない。恨みもない。ただ——長い長い夜が明ける瞬間の、静かな息吹のような声だった。


「わたくしから申し上げます」


 一拍、間を置いた。


「——この婚約を、破棄いたします」


 声は穏やかだった。静かだった。大神殿の高い天井にゆっくりと吸い込まれていくような、澄んだ声だった。


 アレクシスの目が見開かれた。


「な——」


 声が、出ていなかった。口が動いているのに音がない。顔から色が消えていく。強張った体が、ゆっくりと崩れた。膝が折れる。大神殿の石の床に、鈍い音がした。


「待て。待ってくれ、エレノーラ。考え直してくれ——」


 すがるように伸ばされた手を、エレノーラは見下ろした。


 前世では、この手に縋ったのは自分だった。どうか信じてください。わたくしは何もしていません。どうか、どうか——。


 あの時、この手は一度も差し伸べられなかった。


「殿下。わたくしはもう、あの頃のわたくしではございません」


 静かに、一歩下がった。アレクシスの手が空を掴む。


 広間が、完全な静寂に沈んだ。


 百人を超える貴族が、息を止めていた。国王は玉座で無言のまま。王妃が僅かに目を伏せた。


 静寂の中に——拍手の音がした。


 最初は一つ。ゆっくりとした、確かな拍手。


 広間の奥、壁際から。


 銀灰色の髪の男が、まっすぐにこちらを見て、手を打っていた。


 クラウスの表情は変わらない。いつもの無表情。いつもの眼鏡の奥の紺色の瞳。だが——その拍手には、言葉にできない全てが詰まっていた。


 二つ目の拍手が続いた。ルドルフ第一王子が、静かに席で手を合わせていた。三つ目は——ハーゼンベルク公爵。エレノーラの父が、目を赤くしながら、力強く手を打っていた。


 四つ目、五つ目。波紋のように広がっていく。最初は控えめだった拍手が重なり合い、やがて大神殿の広間は一つの大きなうねりに包まれた。


 エレノーラは立ち尽くしていた。涙は出ない。泣かないと決めたあの日から、一度も泣いていない。


 けれど胸の奥で、前世の自分が泣いていた。


(——ようやく。ようやく、この言葉が言えた)


 拍手の中で、エレノーラはゆっくりとクラウスの方を向いた。


 壁際の男は、もう拍手をやめていた。腕を組み、いつものように壁に寄りかかっている。


 ただ——眼鏡の奥の瞳が、かすかに潤んでいるように見えた。


 光の加減かもしれない。大神殿のステンドグラスが夕陽を受けて、広間に色とりどりの光を落としていたから。


 けれどエレノーラにはわかった。


(——あなたに、聞いてほしかった)


 令嬢の仮面の下で、唇が小さく動いた。


「ようやく、この言葉が言えました」


 声は誰にも届かなかった。拍手の音にかき消されて。


 ——でも、銀縁の眼鏡の奥が、僅かに細められた。


 聞こえていた。きっと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
王家の面目を潰さないように、王子は内々に処理する予定だったのにね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ