29.婚約破棄は私から
国王の声が、大神殿の広間を震わせた。
「アレクシス」
その一言で、空気が変わった。聖女の断罪が終わったばかりの広間に、新たな緊張が走る。国王が玉座から立ち上がり、第二王子を見据えていた。
「父上、これは——」
「黙りなさい」
低く、重い声だった。先ほどセレスティアに向けた「もうよい」とは質の異なる怒り。王としてではなく、父としての——失望だった。
「聖女の不正を知りながら庇い立てし、国庫の資金を私的に流用させた。お前はこの国の王子として、何を見ていた」
アレクシスの顔から血の気が引いていく。金髪が汗で額に張り付き、碧い目が揺れていた。
「違います、父上。私は聖女に騙されていただけで——」
「騙されていた?」
国王の声が、さらに冷たくなった。
「三年間、騙され続けたと? それは無能の告白か、それとも共犯の自白か。どちらだ」
広間にいる貴族たちが、息を詰めている。エレノーラは自分の席から、その光景を静かに見つめていた。
(——前世では、この場所に立っていたのは私だった)
あの日、大広間の中央で断罪されたのはエレノーラだった。身に覚えのない罪を着せられ、弁明の機会すらなく、笑い者にされて。
今、同じ場所でアレクシスが膝を震わせている。
因果の反転。それを見つめるエレノーラの心は、不思議なほど凪いでいた。
*
国王の叱責が終わった後、広間は一時的な休憩に入った。
貴族たちがざわめく中、エレノーラは回廊に面した控えの間で水を口にしていた。マリアが傍らに立ち、周囲に人がいないことを確認している。
「お嬢様。第二王子殿下が——」
マリアが言い終える前に、足音が近づいた。
速い。乱れた足取り。
「エレノーラ」
アレクシスだった。
先ほどまでの王子の威厳は消えていた。金髪は乱れ、碧い目は血走り、口元が引きつっている。
「話がある。二人きりで」
「マリアは下がらなくて結構ですわ」
エレノーラは穏やかに答えた。マリアがその場に留まる。
アレクシスは一瞬苛立ちを見せたが、すぐに表情を作り直した。懇願の顔。前世でも何度か見た、都合のいい時だけ浮かべる顔。
「頼む、エレノーラ。婚約を——このまま続けてくれ」
(やはり、そう来る)
予想通りだった。前世の記憶が脳裏を過ぎる。あの頃のアレクシスは、いつもこうだった。自分に不利になると甘い言葉で繋ぎ止めようとする。餌は「婚約者」という立場。
「お前がいなければ、私は終わりだ。ハーゼンベルク公爵家の後ろ盾がなくなれば、父上はもう私を見限る。第一王子派が——」
碧い瞳に涙すら浮かんでいた。この涙を、前世の自分は信じた。この人にも情があるのだと。自分を必要としてくれているのだと。
愚かだった。
「殿下」
エレノーラは静かに遮った。
「お聞きしてもよろしいですか。わたくしが必要なのですか。それとも、ハーゼンベルク家の名前が必要なのですか」
アレクシスの口が、一瞬止まった。
ほんの一瞬。だがその一瞬に、全ての答えがあった。視線が泳ぎ、唇が戦慄いて、それでも取り繕おうとする——その所作の全てが、この男の本質を物語っていた。
「そ、それは——お前のことを大切に思っていないわけでは」
「ええ、存じておりますわ」
いつもの口癖が、今日は別の響きを持っていた。
「殿下がわたくしをどう思っているか。三年間——いいえ、それ以上の時間をかけて、よく存じております」
前世を含めれば、六年だった。婚約者として傍にいた三年間と、裏切られてから死ぬまでの三年間。その全てを知っている。
アレクシスの顔が歪んだ。何かを言おうとして、言葉が出ない。
「殿下は、わたくしの名前を呼ぶ時——一度も、わたくしの目を見たことがございませんでした」
静かに、事実だけを述べた。
アレクシスが息を呑む。今まさに、この男の目がエレノーラではなく自分の足元を見ていることに、本人は気づいているだろうか。
エレノーラは一歩、前に出た。
*
広間に戻った時、貴族たちの視線が集まった。
エレノーラは中央に進み出た。アレクシスがその後を追うように歩いている。国王の前、百人以上の貴族の前。
前世では、この広間の中央は処刑台だった。
あの日——アレクシスが高らかに婚約破棄を宣言した日。エレノーラはこの場所で、膝から崩れ落ちた。周囲の嘲笑。聖女の涙。そして王子の冷たい目。「貴様との婚約を破棄する」。その一言で、世界が終わった。
今、同じ場所に自分の足で立っている。
膝は震えていない。声は震えていない。心臓だけが、少しだけ速く打っている。
「陛下。お時間をいただけますでしょうか」
国王が頷いた。広間が再び静まった。
エレノーラは深く息を吸った。
(前世の私。冷たい床の上で、何もわからずに死んだ私。——聞いてくれていますか)
(あの日言えなかった言葉を、今から言う。見ていて)
琥珀色の瞳を上げた。
広間の全員がこちらを見ている。アレクシスが隣で顔を強張らせている。セレスティアが端の席で蒼白のまま座っている。
そして——広間の奥、壁際に。銀灰色の髪と銀縁の眼鏡。クラウスが静かに立っていた。
視線が交差した。
紺色の瞳は何も語らない。いつも通りの、感情を排した顔。けれどその目が、まっすぐにエレノーラだけを見ている。
(大丈夫。もう、怖くない)
「殿下」
アレクシスに向き直った。
前世では、この言葉を彼の口から聞いた。嘲笑と共に。周囲の笑い声の中で。泣くことすらできずに。
今、同じ言葉を自分の口から紡ぐ。
怒りはない。恨みもない。ただ——長い長い夜が明ける瞬間の、静かな息吹のような声だった。
「わたくしから申し上げます」
一拍、間を置いた。
「——この婚約を、破棄いたします」
声は穏やかだった。静かだった。大神殿の高い天井にゆっくりと吸い込まれていくような、澄んだ声だった。
アレクシスの目が見開かれた。
「な——」
声が、出ていなかった。口が動いているのに音がない。顔から色が消えていく。強張った体が、ゆっくりと崩れた。膝が折れる。大神殿の石の床に、鈍い音がした。
「待て。待ってくれ、エレノーラ。考え直してくれ——」
すがるように伸ばされた手を、エレノーラは見下ろした。
前世では、この手に縋ったのは自分だった。どうか信じてください。わたくしは何もしていません。どうか、どうか——。
あの時、この手は一度も差し伸べられなかった。
「殿下。わたくしはもう、あの頃のわたくしではございません」
静かに、一歩下がった。アレクシスの手が空を掴む。
広間が、完全な静寂に沈んだ。
百人を超える貴族が、息を止めていた。国王は玉座で無言のまま。王妃が僅かに目を伏せた。
静寂の中に——拍手の音がした。
最初は一つ。ゆっくりとした、確かな拍手。
広間の奥、壁際から。
銀灰色の髪の男が、まっすぐにこちらを見て、手を打っていた。
クラウスの表情は変わらない。いつもの無表情。いつもの眼鏡の奥の紺色の瞳。だが——その拍手には、言葉にできない全てが詰まっていた。
二つ目の拍手が続いた。ルドルフ第一王子が、静かに席で手を合わせていた。三つ目は——ハーゼンベルク公爵。エレノーラの父が、目を赤くしながら、力強く手を打っていた。
四つ目、五つ目。波紋のように広がっていく。最初は控えめだった拍手が重なり合い、やがて大神殿の広間は一つの大きなうねりに包まれた。
エレノーラは立ち尽くしていた。涙は出ない。泣かないと決めたあの日から、一度も泣いていない。
けれど胸の奥で、前世の自分が泣いていた。
(——ようやく。ようやく、この言葉が言えた)
拍手の中で、エレノーラはゆっくりとクラウスの方を向いた。
壁際の男は、もう拍手をやめていた。腕を組み、いつものように壁に寄りかかっている。
ただ——眼鏡の奥の瞳が、かすかに潤んでいるように見えた。
光の加減かもしれない。大神殿のステンドグラスが夕陽を受けて、広間に色とりどりの光を落としていたから。
けれどエレノーラにはわかった。
(——あなたに、聞いてほしかった)
令嬢の仮面の下で、唇が小さく動いた。
「ようやく、この言葉が言えました」
声は誰にも届かなかった。拍手の音にかき消されて。
——でも、銀縁の眼鏡の奥が、僅かに細められた。
聞こえていた。きっと。




