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28.聖女の化けの皮・破

 大神殿の扉が開いた瞬間、空気が変わった。


 白大理石の列柱が天井まで伸び、ステンドグラスを透かした朝の光が虹色の帯となって床に落ちている。神殿の最奥に据えられた黄金の祭壇。その左右に、グランディア王国の重鎮たちが居並んでいた。


 エレノーラは深く息を吸い、一歩を踏み出した。


(ここが——最後の舞台だ)


 国王ヴィルヘルム三世が玉座に座していた。老いてなお鋭い目が祭壇の前を見据えている。その傍らに王妃、ルドルフ第一王子、大臣たち、貴族院の重鎮、神殿の大司祭と長老たちが列席している。


 中央の証言席にはセレスティア・ミルフィーユが立っていた。


 白い聖女の正装に身を包み、翡翠の瞳はどこまでも穏やかだった。完璧な聖女の姿——少なくとも、表面上は。


 壇上に用意された提訴者の席に着く。膝の上に、昨夜クラウスと共に仕上げた書類の束を置いた。


 大司祭が杖で床を打った。


「聖女認定の再審を開廷する。提訴者、ハーゼンベルク公爵令嬢エレノーラ。陳述を始めなさい」


 エレノーラは立ち上がった。


 大神殿の全ての視線が集まる。百を超える目が、この十七歳の公爵令嬢を見つめている。


 怖くない、と言えば嘘になる。


 けれど——前世で同じ数の目に蔑まれた時よりは、ずっと楽だった。あの時は一人だったから。


 壁際の柱の陰に、銀灰色の髪が見えた。クラウスが腕を組み、壁に背を預けて立っている。あの大茶会の時と同じ場所。同じ姿勢。


 目が合った。頷きもしない。ただ紺色の瞳が、静かにエレノーラを見ていた。


 それだけで十分だった。


「国王陛下、王妃殿下、ならびにご列席の皆様」


 エレノーラの声は穏やかだった。震えていない。


「本日、聖女セレスティア・ミルフィーユ様の認定に関し、三つの証拠を提出いたします」



      *



「第一の証拠——魔力パターンの不一致について」


 エレノーラが最初の書類を掲げた。


「こちらは浄化の儀式において記録されたセレスティア様の魔力パターンと、過去百年の歴代聖女の記録です」


 大臣たちが書類に目を落とす。国王が手元の紙を一瞥した。


「ご確認いただければおわかりの通り——セレスティア様の魔力パターンは、歴代の聖女のそれと根本的に異なっております」


 ざわめきが広がった。


 エレノーラは長老席に視線を向けた。


「こちらについて、長老様に補足のご証言をお願いできますでしょうか」


 白髪の長老が立ち上がった。齢八十を超える老人が、震える声で——しかし明瞭に述べた。


「精査した結果、セレスティア殿の魔力構成は聖女のそれとは明確に異なるものでした。率直に申し上げれば——彼女の魔力は、我が国の聖術体系とは別の系統に属するものです」


 神殿関係者たちの間に動揺が走った。セレスティアの口元から微笑みが消えた。


「何かの間違いではないですか?」


 セレスティアが柔らかく言った。まだ余裕があった。翡翠の瞳を潤ませ、長老を見上げる。


「私は幼い頃から神殿で聖術を学んでまいりました。長老様にも可愛がっていただいたのに、そのようなことを仰るなんて……」


 涙が一筋、頬を伝った。


 完璧な演技だった。この涙に、今まで何人もの人間が騙されてきた。


 だが長老は首を横に振った。


「事実を述べたまでです。魔力は嘘をつきません」


 セレスティアの涙が、一瞬だけ止まった。



      *



「第二の証拠——隣国への資金の流れについて」


 エレノーラは二つ目の書類束を取り出した。


「こちらはセレスティア様の名義で動いた資金の帳簿と、外交文書の照合結果です」


 静まり返った大神殿に、エレノーラの声だけが響く。


「過去二年間で計十七回、隣国エステリア公国の特定の口座に送金がありました。合計額は金貨にして八千枚を超えます。送金の時期と金額は、エステリア公国の諜報機関が受け取った工作資金と正確に一致しております」


 大臣たちの顔色が変わった。国王の目が鋭くなった。


 エレノーラは顔を上げた。


「セレスティア様。あなたは隣国から送り込まれた工作員です」


 沈黙が落ちた。


 大神殿の空気が、凍りついたように動かなかった。


 セレスティアの顔から、血の気が引いていた。翡翠の瞳が左右に揺れている。唇が開いたり閉じたりを繰り返す。


「そ、そんな——嘘です。隣国となど何の関係も——」

「帳簿と外交文書は嘘をつきません」


 エレノーラが静かに遮った。


「資金の流れは、あなたの直筆署名のある指示書によって動いていました」


 三枚目の書類を掲げる。セレスティアの唇が、白くなるほど強く噛みしめられた。



      *



「そして、第三の証拠」


 エレノーラの声が、一段だけ低くなった。


 胸の奥に冷たいものが広がった。前世の自分を殺した毒の、証拠だ。


「毒の入手記録について。こちらはセレスティア様が禁制品の遅効性毒薬を入手した際の取引記録です」


 エレノーラは騎士団の席に目を向けた。


「証人として、騎士団副長ユリウス殿にご証言をお願いいたします」


 ユリウスが立ち上がった。


 甲冑の下の顔は硬く強張っていたが、声は明確だった。


「騎士団副長ユリウスです。セレスティア殿の侍女が闇市の毒物商と接触しているのを目撃し、独自に調査いたしました。セレスティア殿の指示で禁制品が入手されていたことを確認しております」


 取引記録と証言の写しが大司祭に手渡された。


 そのとき——。


「嘘です!」


 セレスティアが叫んだ。


 もう涙は流れていなかった。翡翠の瞳がぎらぎらと光り、両手の拳が白くなるほど握りしめられている。


「全部嘘です! 帳簿も、魔力パターンも、毒の記録も——全部、エレノーラ様が捏造したんです! 私を陥れるために!」


 あの完璧な聖女の姿は、もうどこにもなかった。金色の巻き髪が乱れ、声が裏返り、美しい顔立ちが醜悪に崩れていく。


「私は聖女です! 神殿に選ばれた聖女なんです!」


 叫びが大神殿の天井に反響した。誰も何も言わなかった。大臣たちは押し黙り、貴族たちは目を逸らしている。


「何かの間違いだ!」


 叫んだのはアレクシスだった。


 金髪が乱れ、碧い瞳が血走っている。席を立ち、セレスティアの前に出ようとした。


「聖女が隣国のスパイだと? 馬鹿な! こんなもの、ハーゼンベルク家の陰謀に決まっている!」


 だが——誰も、王子の言葉を聞いていなかった。


 大臣たちは書類に目を落としたまま。貴族たちは互いに顔を見合わせ、首を横に振っている。ルドルフ第一王子の目には、ただ深い諦めだけがあった。


「殿下」


 国王が、息子の名を呼んだ。


「お座りなさい」


 低く、重い声だった。


 アレクシスの体が震えた。父の声に逆らうことはできない。唇を噛みしめ、拳を震わせながら、ゆっくりと席に戻った。


 国王が書類から顔を上げた。


 老いた目が、セレスティアを見た。


 セレスティアはまだ立っていた。金色の巻き髪が額に張りつき、翡翠の瞳が怯えた獣のように揺れている。


 もう一度、泣こうとした。いつもそうしてきた。泣けば、誰かが助けてくれた。


 涙が頬を伝った。


「陛下、どうかお聞きください。私は——」


「……もうよい」


 国王の声が、全てを断ち切った。


 静かな声だった。怒りはなかった。ただ疲弊と、深い失望があった。


 セレスティアの涙が、止まった。


 初めてだった。


 泣いて——通じなかったのは。


「聖女セレスティア・ミルフィーユ。提出された証拠の審議は別途行うが——」


 国王が立ち上がった。


「現時点をもって、聖女認定の資格を停止する。身柄は神殿にて拘束とし、全ての調査が完了するまで外部との接触を禁ずる」


 大司祭が杖を床に打った。決定を追認する合図だった。


 セレスティアの膝が崩れた。


 白い聖女の正装が、大理石の床に広がる。その姿は——かつてエレノーラが前世で見た、自分自身の最後の姿に重なった。


 膝をつき、全てを失い、誰にも助けられない。


 エレノーラは壇上から、その姿を見下ろしていた。


 怒りはなかった。憎しみも、もうなかった。あるのはただ——静かな、凪のような感情だった。


(終わった。前世の私。あなたを殺したものが、今——裁かれた)


 前世の自分への、弔いだった。


 エレノーラの口元に、穏やかな微笑みが浮かんだ。



      *



 神殿衛兵がセレスティアの腕を取り、立ち上がらせようとした。


 その瞬間——。


 セレスティアの目が変わった。


 怯えも、悲しみも、演技も——全て消えた。その代わりに、底の見えない暗い光が翡翠の瞳に灯った。


 追い詰められた獣の、最後の牙。


「——私だけじゃない」


 低い声だった。大神殿の隅々まで届く、澄んだ声。


 セレスティアがゆっくりと顔を上げた。金色の巻き髪の隙間から、歪んだ笑みが覗いている。


「私だけが裁かれるのですか?」


 視線が、アレクシスに向いた。


「第二王子殿下も!」


 叫びが大神殿に反響した。


「殿下は全てをご存知でした! 資金の流れも、隣国との連絡経路も——私に指示を出していたのは殿下です! 私一人の罪ではない!」


 アレクシスの顔が、紙のように白くなった。


「な——何を言っている! セレスティア!」

「殿下こそ嘘をおつきにならないで! 私を使い捨てるおつもりですか!?」


 大神殿が騒然となった。


 大臣たちが声を上げ、貴族たちが席を立ち、国王の顔が険しく歪む。


 その混乱の中で——エレノーラは静かに立っていた。


 壇上から、崩れていくセレスティアと蒼白のアレクシスを見下ろしている。


 前世では、ここに立っていたのは自分だった。全てを奪われ、誰にも信じてもらえなかったのは——自分だった。


 壁際で、クラウスが微かに目を細めた。あの大茶会の時と同じ場所。だがあの時と違い——エレノーラはもう一人ではなかった。


 エレノーラは壇上で、静かに微笑んでいた。


 大神殿の天井から降り注ぐ虹色の光が、白い正装と藤色のドレスの両方を照らしている。一方は床に崩れ落ち、一方は真っ直ぐに立っている。


 聖女の時代が、終わった。


 だが——セレスティアの最後の叫びが投じた波紋は、まだ広がり始めたばかりだった。

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