26.もう一人の共犯者
調査の結果が出たのは、三日後の夜だった。
クラウスが宰相府の執務室にエレノーラを呼んだ。いつもと違い、紅茶の用意はなかった。机の上には一通の報告書だけが置かれている。
「座ってください」
クラウスの声に、普段の温度がなかった。事実を伝えるために感情を切り離した、刃のような声。エレノーラはそれだけで悟った。
(——良い知らせではない)
椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃える。どんな報告にも耐えられるように。
「仲介人の接触相手を特定しました」
クラウスが報告書を開いた。
「ハーゼンベルク家の別邸を管理している人物。別邸の出入り記録、仲介人の行動時刻との照合、そして——隣国との取引に使われた口座の名義」
エレノーラは黙って聞いていた。
「全てが一人の人物に繋がります」
クラウスが報告書の最後のページを示した。
そこに記された名前を見た瞬間——エレノーラの思考が、白く塗り潰された。
「カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルク」
クラウスの声が、遠くから聞こえた。
「あなたの母方の叔母にあたる方です」
世界が揺れた。
椅子の肘掛けを掴んだ。掴まなければ、崩れ落ちていた。
(——カタリーナ叔母様?)
記憶が奔流のように押し寄せる。
幼い日の記憶。母が亡くなった後、泣いているエレノーラの髪を撫でてくれた手。「泣いていいのよ、エレノーラ」と優しく言ってくれた声。お茶会のたびに焼き菓子を持ってきてくれた。誕生日には必ず手紙をくれた。父が政務で忙しい時、幼いエレノーラの話し相手になってくれたのは、いつもカタリーナ叔母だった。
前世でも——最後まで味方だと思っていた。
「エレノーラ嬢」
クラウスの声が、記憶の奔流を断ち切った。
「続きを聞けますか」
「……ええ」
声が掠れた。それでも、頷いた。
*
クラウスは淡々と報告を続けた。感情を排した声が、かえってエレノーラの支えになっていた。
「カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルクは、十年前にヴァイセンブルク家に嫁いでいますが、同家はすでに没落寸前の状態にあります。領地からの収入はほぼ枯渇し、夫のヴァイセンブルク男爵は病床に伏している」
「……存じておりますわ。叔母様からの手紙に、ご苦労されていると」
「ハーゼンベルク家の遺産。あなたが唯一の相続人である以上、あなたが亡くなれば母方の血縁者に相続権が移る。カタリーナ夫人は、その筆頭です」
遺産。
その一語が、全てを繋いだ。
聖女と隣国の諜報機関。毒の入手ルート。そしてハーゼンベルク家の内部に潜む協力者。叔母は聖女に情報を流し、毒の仲介に手を貸し——姪の死と引き換えに、遺産を手に入れるつもりだった。
「具体的な証拠は三点」
クラウスが報告書のページを示した。
「一つ、別邸の出入り記録。仲介人が訪れた日付と、カタリーナ夫人が別邸に滞在していた日付が完全に一致。二つ、隣国の取引口座への送金記録にカタリーナ夫人の筆跡と合致する署名。三つ、聖女の私室から押収された暗号書簡に、ハーゼンベルク家の内部情報が含まれている。この情報にアクセスできるのは、公爵と——」
「家族だけ、ですわね」
エレノーラの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
感情が追いついていないのだと、頭の片隅で理解していた。衝撃が大きすぎて、心がまだ受け止めることを拒んでいる。
「……身内にまで、裏切られていたのですね」
その言葉を口にした瞬間——堰が切れた。
平坦だった声が震え、膝の上の拳が白くなるほど握り締められた。
(わたくしは——何も知らなかった)
前の人生で、エレノーラは聖女とアレクシスの陰謀だけが死因だと思っていた。死に戻ってからも、その前提で全てを設計してきた。敵は聖女。背後に第二王子。隣国の諜報機関。
だが本当は——もっと近くに、もう一人いた。
血の繋がった叔母が、姪の死に手を貸していた。
(知らなかった。前の人生で気づかなかった。死んでもなお、気づけなかった)
怒りが込み上げた。叔母への怒りではない。気づけなかった自分への怒りだった。
「前世の知識で全てを知っているつもりでいた」
声が、零れ落ちた。独り言のように。
「でも——知らないことが、まだあった。わたくしが知っていたのは、真実のほんの一部で——」
「エレノーラ嬢」
クラウスの声が、静かに遮った。
エレノーラは顔を上げた。紺色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「だからこそ、証拠を固めましょう」
同じ言葉だった。三日前にも聞いた言葉。
「感情は、後で」
冷たいようで——冷たくなかった。
この男は知っている。エレノーラが今ここで崩れたら、立ち直るのに時間がかかることを。だから感情を後回しにしろと言う。それは冷酷ではなく——この人なりの、不器用な支え方だった。
エレノーラは深く息を吸った。
震える手を、膝の上で握り締めた。一度、二度。呼吸を整える。
「……ええ。そうですわね」
顔を上げた。涙は出ていなかった。泣く余裕すらなかった。
「証拠を固めましょう。叔母の——カタリーナ叔母の行動を、全て洗い出してくださいまし。そして——」
声に力が戻った。震えはまだあった。だが、折れてはいなかった。
「父には、わたくしから伝えます」
クラウスが一瞬、眼鏡の奥の瞳を細めた。それ以上は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
*
宰相府を出た。
夜の回廊を歩きながら、エレノーラは自分の足音だけを聞いていた。
前世の知識。それは二度目の人生における最大の武器だった。敵の手を読み、罠を避け、味方を集める。全ては「知っている」ことを前提に設計された戦略だった。
だが今日、その前提に亀裂が入った。
(わたくしが知っていたのは、死ぬ瞬間までに見えていたものだけ。裏で糸を引いていた者の全てを、知っていたわけではない)
叔母の裏切り。それは前世では最後まで見えなかった真実だ。
ならば——他にも、見えていなかったものがあるのではないか。
まだ知らない共犯者。まだ気づいていない陰謀。前世の記憶という地図に、描かれていない道が、まだどこかにあるのではないか。
(前世を知っているから全てわかると——そう思い込んでいたわたくしは、傲慢だった)
足が止まった。
回廊の窓から、夜空が見えた。月は雲に隠れて、星もまばらだ。暗い夜だった。
エレノーラは窓枠に手をついた。
(でも——だからといって、止まるわけにはいかない)
知らないことがある。それは恐怖だ。だが同時に——知らないからこそ、今の人生で初めて見つけられるものがある。前世では死んだ後に隠されていた真実を、今度は生きたまま暴ける。
呼吸が、少しだけ楽になった。
(感情は、後で——)
クラウスの言葉を、胸の中で反芻した。
(ええ。後にしますわ。でもクラウス様——その「後」が来た時、わたくしはきっと、あなたの前で泣いてしまう)
そう思った瞬間、自分の頬が熱くなったことに気づいた。
すぐに首を振った。今は、そんな場合ではない。
エレノーラは窓から離れ、歩き出した。
暗い回廊の先に、自室の灯りが見えた。マリアが待っているだろう。温かい紅茶を用意して。
前世の地図は、もう完全ではない。
だが——白紙の場所を恐れるだけの少女は、もういない。
(知らないなら、知ればいい。見えないなら、暴けばいい。——それが、生き直すということだから)
背筋を伸ばした。
暗闇の中を、エレノーラは真っ直ぐに歩いた。




