表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/37

26.もう一人の共犯者

 調査の結果が出たのは、三日後の夜だった。


 クラウスが宰相府の執務室にエレノーラを呼んだ。いつもと違い、紅茶の用意はなかった。机の上には一通の報告書だけが置かれている。


「座ってください」


 クラウスの声に、普段の温度がなかった。事実を伝えるために感情を切り離した、刃のような声。エレノーラはそれだけで悟った。


(——良い知らせではない)


 椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃える。どんな報告にも耐えられるように。


「仲介人の接触相手を特定しました」


 クラウスが報告書を開いた。


「ハーゼンベルク家の別邸を管理している人物。別邸の出入り記録、仲介人の行動時刻との照合、そして——隣国との取引に使われた口座の名義」


 エレノーラは黙って聞いていた。


「全てが一人の人物に繋がります」


 クラウスが報告書の最後のページを示した。


 そこに記された名前を見た瞬間——エレノーラの思考が、白く塗り潰された。


「カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルク」


 クラウスの声が、遠くから聞こえた。


「あなたの母方の叔母にあたる方です」


 世界が揺れた。


 椅子の肘掛けを掴んだ。掴まなければ、崩れ落ちていた。


(——カタリーナ叔母様?)


 記憶が奔流のように押し寄せる。


 幼い日の記憶。母が亡くなった後、泣いているエレノーラの髪を撫でてくれた手。「泣いていいのよ、エレノーラ」と優しく言ってくれた声。お茶会のたびに焼き菓子を持ってきてくれた。誕生日には必ず手紙をくれた。父が政務で忙しい時、幼いエレノーラの話し相手になってくれたのは、いつもカタリーナ叔母だった。


 前世でも——最後まで味方だと思っていた。


「エレノーラ嬢」


 クラウスの声が、記憶の奔流を断ち切った。


「続きを聞けますか」


「……ええ」


 声が掠れた。それでも、頷いた。



      *



 クラウスは淡々と報告を続けた。感情を排した声が、かえってエレノーラの支えになっていた。


「カタリーナ・フォン・ヴァイセンブルクは、十年前にヴァイセンブルク家に嫁いでいますが、同家はすでに没落寸前の状態にあります。領地からの収入はほぼ枯渇し、夫のヴァイセンブルク男爵は病床に伏している」


「……存じておりますわ。叔母様からの手紙に、ご苦労されていると」


「ハーゼンベルク家の遺産。あなたが唯一の相続人である以上、あなたが亡くなれば母方の血縁者に相続権が移る。カタリーナ夫人は、その筆頭です」


 遺産。


 その一語が、全てを繋いだ。


 聖女と隣国の諜報機関。毒の入手ルート。そしてハーゼンベルク家の内部に潜む協力者。叔母は聖女に情報を流し、毒の仲介に手を貸し——姪の死と引き換えに、遺産を手に入れるつもりだった。


「具体的な証拠は三点」


 クラウスが報告書のページを示した。


「一つ、別邸の出入り記録。仲介人が訪れた日付と、カタリーナ夫人が別邸に滞在していた日付が完全に一致。二つ、隣国の取引口座への送金記録にカタリーナ夫人の筆跡と合致する署名。三つ、聖女の私室から押収された暗号書簡に、ハーゼンベルク家の内部情報が含まれている。この情報にアクセスできるのは、公爵と——」


「家族だけ、ですわね」


 エレノーラの声は、自分でも驚くほど平坦だった。


 感情が追いついていないのだと、頭の片隅で理解していた。衝撃が大きすぎて、心がまだ受け止めることを拒んでいる。


「……身内にまで、裏切られていたのですね」


 その言葉を口にした瞬間——堰が切れた。


 平坦だった声が震え、膝の上の拳が白くなるほど握り締められた。


(わたくしは——何も知らなかった)


 前の人生で、エレノーラは聖女とアレクシスの陰謀だけが死因だと思っていた。死に戻ってからも、その前提で全てを設計してきた。敵は聖女。背後に第二王子。隣国の諜報機関。


 だが本当は——もっと近くに、もう一人いた。


 血の繋がった叔母が、姪の死に手を貸していた。


(知らなかった。前の人生で気づかなかった。死んでもなお、気づけなかった)


 怒りが込み上げた。叔母への怒りではない。気づけなかった自分への怒りだった。


「前世の知識で全てを知っているつもりでいた」


 声が、零れ落ちた。独り言のように。


「でも——知らないことが、まだあった。わたくしが知っていたのは、真実のほんの一部で——」


「エレノーラ嬢」


 クラウスの声が、静かに遮った。


 エレノーラは顔を上げた。紺色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。


「だからこそ、証拠を固めましょう」


 同じ言葉だった。三日前にも聞いた言葉。


「感情は、後で」


 冷たいようで——冷たくなかった。


 この男は知っている。エレノーラが今ここで崩れたら、立ち直るのに時間がかかることを。だから感情を後回しにしろと言う。それは冷酷ではなく——この人なりの、不器用な支え方だった。


 エレノーラは深く息を吸った。


 震える手を、膝の上で握り締めた。一度、二度。呼吸を整える。


「……ええ。そうですわね」


 顔を上げた。涙は出ていなかった。泣く余裕すらなかった。


「証拠を固めましょう。叔母の——カタリーナ叔母の行動を、全て洗い出してくださいまし。そして——」


 声に力が戻った。震えはまだあった。だが、折れてはいなかった。


「父には、わたくしから伝えます」


 クラウスが一瞬、眼鏡の奥の瞳を細めた。それ以上は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。



      *



 宰相府を出た。


 夜の回廊を歩きながら、エレノーラは自分の足音だけを聞いていた。


 前世の知識。それは二度目の人生における最大の武器だった。敵の手を読み、罠を避け、味方を集める。全ては「知っている」ことを前提に設計された戦略だった。


 だが今日、その前提に亀裂が入った。


(わたくしが知っていたのは、死ぬ瞬間までに見えていたものだけ。裏で糸を引いていた者の全てを、知っていたわけではない)


 叔母の裏切り。それは前世では最後まで見えなかった真実だ。


 ならば——他にも、見えていなかったものがあるのではないか。


 まだ知らない共犯者。まだ気づいていない陰謀。前世の記憶という地図に、描かれていない道が、まだどこかにあるのではないか。


(前世を知っているから全てわかると——そう思い込んでいたわたくしは、傲慢だった)


 足が止まった。


 回廊の窓から、夜空が見えた。月は雲に隠れて、星もまばらだ。暗い夜だった。


 エレノーラは窓枠に手をついた。


(でも——だからといって、止まるわけにはいかない)


 知らないことがある。それは恐怖だ。だが同時に——知らないからこそ、今の人生で初めて見つけられるものがある。前世では死んだ後に隠されていた真実を、今度は生きたまま暴ける。


 呼吸が、少しだけ楽になった。


(感情は、後で——)


 クラウスの言葉を、胸の中で反芻した。


(ええ。後にしますわ。でもクラウス様——その「後」が来た時、わたくしはきっと、あなたの前で泣いてしまう)


 そう思った瞬間、自分の頬が熱くなったことに気づいた。


 すぐに首を振った。今は、そんな場合ではない。


 エレノーラは窓から離れ、歩き出した。


 暗い回廊の先に、自室の灯りが見えた。マリアが待っているだろう。温かい紅茶を用意して。


 前世の地図は、もう完全ではない。


 だが——白紙の場所を恐れるだけの少女は、もういない。


(知らないなら、知ればいい。見えないなら、暴けばいい。——それが、生き直すということだから)


 背筋を伸ばした。


 暗闇の中を、エレノーラは真っ直ぐに歩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なんで自分が毒殺された後のことを知ってるんだろ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ