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25.毒の証拠

 翌朝、宰相府の執務室に三人が揃った。


 エレノーラ、クラウス、そして——騎士団副長ユリウス。


 ユリウスが革袋を机の上に置いた。重い音がした。小さな袋なのに、この部屋の空気を一変させるだけの重さがあった。


「約束通り持ってきた。薬瓶と、薬師の証言書。それから、聖女が王都の裏通りで接触した人物の行動記録だ」


 クラウスが革袋の口を開き、中身を確認した。細い指が薬瓶を取り出す。親指ほどの小さな硝子瓶。中に淡い琥珀色の液体が揺れている。


「この色は——」


 クラウスの声が、わずかに変わった。銀縁の眼鏡の奥の紺色の瞳が、硬くなっている。


「蛇百合の抽出液。微量で致死に至る。解毒は困難。宮廷では禁制品に指定されている」


 淡々とした説明。だがクラウスの視線は一瞬だけ、エレノーラの方を向いた。


 エレノーラは——見ていた。


 硝子瓶の中の琥珀色の液体を。揺れる光を。


 見ていた。


(これだ)


 喉の奥に、焼けるような感覚が蘇った。


 前世の最後の夜。晩餐の葡萄酒に混ぜられていた、甘い痺れ。最初は酔いだと思った。次に指先が冷たくなった。視界が霞んだ。立ち上がろうとして膝が崩れ、冷たい石の床に倒れた。


 助けを呼ぼうとした。声が出なかった。


 喉が——燃えるように熱くて、それなのに体は氷のように冷たくて。


「——っ」


 手が震えた。


 抑えられなかった。両手を膝の上で握り締めたが、震えは止まらない。指の先まで、あの夜の記憶が染み込んでいる。


「エレノーラ嬢」


 クラウスが立ち上がった。硝子瓶を革袋に戻し、机の引き出しにしまった。エレノーラの視界から消す動作が、無駄なく速かった。


「あなたは見なくていい」


 静かな声だった。命令ではない。盾だった。この男は今、自分の体で毒の記憶を遮ろうとしている。


 エレノーラは拳を膝に押し付けた。爪が掌に食い込む痛みで、意識を現在に繋ぎとめる。


「いいえ」


 声が震えた。それでも、言葉は途切れなかった。


「見ます」


 顔を上げた。琥珀色の瞳が、まっすぐにクラウスを見た。


「これが——わたくしが戻ってきた理由です」


 クラウスの手が、引き出しの取っ手の上で止まった。


 長い沈黙が落ちた。


 ユリウスは壁際に立ったまま、二人のやり取りを見守っていた。事情は知らない。だが——この令嬢の震える手と、それでも前を向く目の意味を、武人の直感で理解していた。


「……わかりました」


 クラウスが引き出しを開け、革袋を再び机の上に出した。


 エレノーラは震える手で薬瓶を取り上げた。硝子越しに液体が揺れる。琥珀色。自分の瞳と同じ色だと思った。


(あの夜、わたくしを殺したもの。——今、わたくしの手の中にある)


 恐怖はあった。だがそれ以上に、怒りがあった。そして怒り以上に——決意があった。


 薬瓶を机に置いた。手の震えは、まだ止まっていなかった。


「続きを見せてくださいまし」



      *



 クラウスが証言書と行動記録を広げた。


「薬師の証言によると、この毒の原料は国内では入手できません。隣国経由で持ち込まれたもの。聖女が裏通りで接触した人物は、以前から隣国の諜報機関との繋がりが確認されている仲介人です」


「先日の資金追跡と一致しますわね」


 エレノーラの声が、少しずつ落ち着きを取り戻していた。震えはまだ指先に残っている。だが思考は明晰に回り始めていた。頭を使え。考えろ。感じるのは後だ。


「聖女は諜報機関を通じて資金だけでなく、毒も入手していた」


「その通りです。ただ——」


 クラウスが行動記録の一点を指で示した。


「問題はここです」


 エレノーラの目がその箇所に吸い寄せられた。


 仲介人の行動記録。聖女との接触の日付と場所が記されている。だがその中に——一つだけ、異質な記述があった。


「仲介人は聖女以外にも、もう一人と接触しています。日付は三ヶ月前。場所は王都郊外の——」


 クラウスが言葉を切った。


「ハーゼンベルク家の別邸近く」


 時間が止まった。


「……何ですって」


 エレノーラの声が、乾いた。


「仲介人の接触相手の詳細は、この記録だけでは特定できません。ただ、ハーゼンベルク家の関係者であることはほぼ確実です」


 ユリウスが壁から身を起こした。


「行動記録はそこまでしか追えなかった。だが、仲介人が別邸の方角から歩いてきたのを、部下の騎士が目撃している」


 エレノーラは椅子の肘掛けを握った。


(ハーゼンベルク家の関係者——? 聖女と繋がっている者が、わたくしの家の中にいる?)


 前世の記憶を必死に探る。父は裏切らない。それだけは確信がある。マリアも違う。では誰が——。


「エレノーラ嬢」


 クラウスの声が、思考の渦を断ち切った。


「今の段階で推測に走るのは危険です。仲介人の接触相手を特定するには、別邸周辺の調査が必要になる」


「……ですわね」


「ユリウス殿」


 クラウスがユリウスに向き直った。


「この記録の写しを、もう一部作成できますか」


「やる」


「感謝します。——原本は宰相府で保管します。第二王子派に見つかれば、証拠ごと消される可能性がある」


 ユリウスは頷き、執務室を出ていった。重い足音が廊下に遠ざかっていく。


 二人きりになった。


 扉が閉まった途端、執務室が静かになった。廊下の足音すら遠い。

 窓からの光が、机の上の証言書を白く照らしている。硝子瓶はまだ革袋の中にある。見えなくても——エレノーラはその存在を肌で感じていた。あの琥珀色の液体が、引き出しの向こうで静かに揺れている気配を。


「クラウス様」


「はい」


「わたくしの家の者が、聖女と繋がっている。——前の人生では、全く気づきませんでした」


 声に、苦いものが混じった。


「知っているはずのことが、まだ足りないのですね」


 クラウスは答えなかった。代わりに、机の上の書類を静かに整えた。薬瓶を引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。


 それから——エレノーラの方を向いた。


 紺色の瞳に、いつもの冷徹な光はなかった。代わりにあったのは、静かに燃える何か。怒りに似て、だがもっと深いもの。


「特定します。必ず」


 短い言葉だった。だがその声には、約束の重さがあった。


 エレノーラは頷いた。


 クラウスが椅子の背に手をかけ、窓の外に視線を向けた。午後の陽光が傾き始めている。


「感情は、後で」


 静かに、だが確かに言った。


「今は——証拠を固めましょう」


 エレノーラは目を閉じた。


 喉の奥にまだ、あの夜の焼けるような感覚の残滓がある。手はまだ、かすかに震えている。


 だが——立てる。


 この人が隣にいる限り、立っていられる。


(感情は、後で。——ええ。そうしますわ。今だけは)


 目を開けた。


 琥珀色の瞳に、涙はなかった。

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