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24.揺れる王宮

 浄化の儀式から三日。王宮の空気が、目に見えて変わっていた。


「聖女様の魔力に異常が見つかったらしい」


「長老院が調査を命じたって——本当かしら」


「第二王子殿下がお怒りだとか」


 回廊を歩くだけで、囁き声が波のように寄せては引いた。三日前までは聖女の名を口にするとき微笑みを浮かべていた貴婦人たちが、今は扇の陰で眉をひそめている。


 エレノーラは視線を正面に据えたまま、歩調を変えなかった。


(風向きが変わった。——でも、まだ足りない)


 長老の発言は宮廷内に波紋を広げたが、あくまで「調査が必要」という慎重な表現に留まっている。確定的な糾弾ではない。聖女派の貴族たちはまだ態度を決めかねており、日和見の者たちは様子を窺っている。


 だが、確実に均衡は崩れ始めていた。



      *



 その日の午後、宮廷に激震が走った。


 第二王子アレクシスが騎士団に対し、聖女セレスティアの身辺警護を命じたのだ。


「聖女は王国の宝である。根拠なき中傷から守ることは、騎士の義務だ」


 大広間で発せられたその命令を、エレノーラは宰相府の執務室でクラウスから聞いた。


「愚かな手ですね」


 クラウスが書類に目を落としたまま、淡々と言った。銀縁の眼鏡越しの紺色の瞳には、軽蔑ですらない冷静な分析がある。


「聖女を庇えば庇うほど、疑惑は深まる。長老院の調査を妨害していると受け取られかねません」


「ええ、存じておりますわ」


 エレノーラは紅茶のカップを傾けた。


(アレクシスは焦っている。自分の地位を支える柱が揺らぎ始めたことを、本能で感じ取っているのだろう。だから力で抑え込もうとする——前の人生と同じだ)


「問題は騎士団の反応です」


 クラウスが続けた。


「騎士団長は第二王子派ですが、末端の騎士や副長クラスには疑問を持つ者もいる。王子の個人的な命令に従うべきか、長老院の調査に協力すべきか——板挟みになっている」


「副長のユリウス殿、ですわね」


「ご存知でしたか」


「名前だけ。前の人生で、何度か遠くからお見かけしたことがあるだけですわ」


 エレノーラはカップを置いた。


(ユリウス・——直情径行で、嘘がつけない武人だと聞いた。そんな人が、今のアレクシスの傍にいるのか)



      *



 それは翌日の夕刻だった。


 エレノーラが中庭の回廊を歩いていると、柱の影から一人の男が姿を現した。


 騎士の礼装。広い肩幅に、日に焼けた肌。短く刈り上げた栗色の髪。鍛え抜かれた体躯が、回廊の薄暮に大きな影を落としている。


「——ハーゼンベルク公爵令嬢でいらっしゃいますか」


 低く、真っ直ぐな声だった。


 エレノーラは足を止め、穏やかな微笑みを浮かべた。内心では警戒の糸が張り詰めている。


「ええ。どなたでいらっしゃいますか?」


「騎士団副長、ユリウスと申します」


 男は深く頭を下げた。武人の礼だった。洗練されてはいないが、誠実さが伝わる所作。


「突然のご無礼をお許しください。どうしても——お話しなければならないことがございます」


 エレノーラは周囲を素早く見回した。回廊には誰もいない。マリアは侍女控えの間に下がっている。


「場所を変えましょう。こちらへ」


 近くの東屋へ導いた。蔦が絡まる石造りの小さな空間。外から見えにくく、だが叫べば声が届く距離。


 ユリウスは椅子に座らず、立ったまま口を開いた。その目は真っ直ぐにエレノーラを見ている。迷いと苦悩が、隠しようもなく滲んでいた。


「俺は——」


 太い声が、一瞬だけ揺れた。


「殿下に仕えて六年になります。剣を捧げ、忠誠を誓った。殿下の剣となり盾となることが、俺の全てでした」


 拳が握られている。革手袋が軋む音がした。


「だが——最近の殿下の行いは、俺が忠誠を誓った方のものとは思えない。聖女への不正な資金、長老院への圧力、そして——」


 ユリウスの声が低くなった。


「騎士団に聖女の護衛を命じた。調査を妨害しろと言わんばかりだ。騎士の誇りを、殿下の私欲のために使えと」


 エレノーラは黙って聞いていた。


 この男が、どれほどの覚悟でここに来たか。主君に背いて見知らぬ令嬢のもとを訪れることが、武人の誇りをどれほど引き裂いているか——その拳を見れば、わかった。


「俺は……殿下に従うべきなのか」


 絞り出すような声だった。


「忠誠とは何です。正しくない命令にも従うのが忠義なのか。それとも——」


 ユリウスの視線がエレノーラを射抜いた。


「あんたは、何が正しいと思う」


 令嬢に対する言葉遣いではなかった。だがエレノーラはそれを咎めなかった。この男は今、地位も礼儀も関係なく、一人の人間として問うている。


 エレノーラは立ち上がった。


 令嬢の仮面を、そっと外した。


「わたくしには、あなたに命令する権限はございません」


 静かに、だが確かな声で言った。


「忠誠の形を決められるのは、あなただけです。ですから——」


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐにユリウスを見上げた。


「あなたの正義に従ってください」


 ユリウスの目が見開かれた。


 命令を期待していたのだろう。聖女を裏切れ、アレクシスを見限れ——そう言われる覚悟で来たのだ。なのにこの小さな令嬢は、選択を委ねた。


 長い沈黙が東屋を満たした。蔦の葉が風に揺れる音だけが、かすかに聞こえている。


 やがて——ユリウスの拳が、ゆっくりと開かれた。


「……あんたは、思っていたのと違う人だな」


「よく言われますわ」


 エレノーラは微笑んだ。今度は仮面の微笑みではなかった。


 ユリウスが一つ頷いた。そして、声を落とした。


「もう一つ——これを伝えなければ、ここに来た意味がない」


 その目が、鋭くなった。武人の目だった。


「聖女の私室を警護した際、不審な物を見つけた。小さな革袋だ。中身を確かめた——薬瓶が入っていた」


 エレノーラの呼吸が、一瞬止まった。


「薬師に内密に見せた。中身は——毒だ。微量だが、確実に人を殺す類の」


 世界が、一瞬だけ暗転した。


 エレノーラの足元が揺らいだ。石の柱に手をついて、かろうじて体を支えた。


(毒——)


 喉の奥が焼ける感覚が蘇る。冷たい床。指先から消えていく感覚。あの夜の——。


「大丈夫か」


 ユリウスが一歩踏み出した。


「——ええ。大丈夫ですわ」


 声を絞り出した。微笑みは作れなかった。だが、立っていることはできた。


「その情報、感謝いたします。入手経路の記録は、お持ちですか」


「ある。薬師の証言と、聖女が王都の裏通りで接触した人物の記録を控えてある」


「明日——宰相府のクラウス様のもとへ、お届けいただけますか」


 ユリウスは黙って頷いた。


 東屋を出る前に、ユリウスが振り返った。


「あんたの言葉、忘れない。——俺の正義に従う」


 大きな背中が、夕闇の中に消えていった。


 一人になったエレノーラは、柱に背を預けて目を閉じた。


(毒を——持っていた。あの女は、今の人生でも、毒を用意していた)


 体の芯が震えている。恐怖ではない。怒りだ。


 だが同時に、もう一つの感情が這い上がってくる。


(前世の答え合わせが、始まる——)


 夕陽が沈みきり、東屋は闇に包まれた。エレノーラの琥珀色の瞳だけが、暗闇の中で静かに光っていた。

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