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22.前世の傷痕

 自室に戻っても、手の震えが止まらなかった。


 マリアが用意してくれた夜着に着替え、髪を解き、寝台に入った。けれど目を閉じると——闇の中に、前世の記憶が浮かび上がる。


(スパイだった。あの女は、最初から——)


 天井を見つめた。

 蝋燭は消してある。月明かりだけが窓から細く差し込み、部屋を青白く染めている。


 不意に——景色が変わった。


 冷たい石の床。鉄格子。窓のない部屋に充満する黴と湿気の匂い。手首に食い込む鎖の重さ。


(——牢だ)


 前世の記憶だと、わかっている。わかっているのに、体が反応する。指先が痺れ、胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。


 あの日のことを、覚えている。


 婚約破棄の宣告。聖女の涙。第二王子の冷たい目。誰一人、エレノーラの言葉を聞こうとしなかった。「悪女」の烙印を押され、弁明の機会すら与えられず、地下牢に落とされた。


 そして——毒。


 差し入れられた食事の中に混ぜられていた。味も匂いもなかった。ただ食べて、数時間後に体が動かなくなった。


 冷たい床に倒れた。指先から感覚が消えていく。腹の奥が焼けるように熱い。声を出そうとしたけれど、喉がもう動かなかった。


 天井の染みを数えた。

 三十七個目で、視界が暗くなった。


(あの死に、意味すらなかった)


 エレノーラは寝台の上で体を丸めた。


 宮廷劇の悲劇のヒロインですらなかった。隣国の陰謀の、ただの巻き添え。セレスティアにとってエレノーラを排除することは目的ではなく、王国を弱体化させるための手順の一つに過ぎなかった。


 一人の人間の人生が——ただの「手順」として消費された。


 目の奥が熱くなった。


(泣くな)


 唇を噛んだ。

 泣いたら、あの頃に戻ってしまう。何もできず、誰にも助けを求められず、冷たい床の上で命が消えていくのをただ待っていたあの自分に。


(泣いたら、負けだ)


 両手で顔を覆った。指の隙間から、息が漏れる。震えた、不安定な呼吸。


 こんこん。


 控えめなノックの音が、暗闇に響いた。


「……エレノーラ嬢。起きていますか」


 クラウスの声だった。


 エレノーラは反射的に体を起こした。目元を手の甲で拭い、髪を整えようとして——やめた。深夜だ。夜着のまま、髪を下ろしたまま。令嬢の体裁など保てるはずがない。


「……何用ですか」


「報告書の確認事項が一点。明日で構いませんが——」


 扉越しの声が、一瞬途切れた。


「灯りがついていたので」


(嘘だ。灯りは消してある)


 エレノーラは寝台から降り、扉の前に立った。開けるべきか迷った。今の顔を見られたくない。目が赤いかもしれない。声が震えているのは確実だ。


 けれど——扉の向こうに立っている人間が誰なのかを、知っている。


 静かに、扉を開けた。


 廊下の灯りを背に、クラウスが立っていた。いつもの銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。ただし上着は脱いでいて、シャツの袖が少しだけ乱れている。急いで来たのだ、とわかった。


 クラウスの瞳が、エレノーラの顔を見た。

 一瞬だけ——紺色の目が揺れた。


「……報告書の件は、明日にいたしますわ」


 平静を装おうとした。声が掠れていた。


「エレノーラ嬢」


「大丈夫です」


「聞いていません」


 静かな声だった。否定でも肯定でもない。ただ、事実を述べるだけの声。


「泣いてもいい」


 三つの言葉が、夜の空気を震わせた。


 エレノーラの唇が、わずかに開いた。閉じた。また開いた。


「……泣きません」


 声が震えていた。令嬢の仮面はとうに剥がれていた。


「泣いたら、あの頃に戻ってしまう」


 あの頃。冷たい床。天井の染み。指先から消えていく感覚。一人きりの死。


「戻りません」


 クラウスの声は、静かだった。


 怒りもなく、哀れみもなく、感情を排した——けれどどこまでも確かな声だった。


「今のあなたは、一人ではない」


 廊下の灯りが揺れた。

 クラウスは扉の枠に手をつき、そこに立ったままだった。


 部屋には入らなかった。手も伸ばさなかった。あの日のように膝をついて手を握ることも、仮面舞踏会の後のように上着をかけることもしなかった。


 ただ——そこに、いた。


 扉一枚分の距離を隔てて、夜の廊下に立ち、エレノーラがどんな顔をしていても構わないという沈黙を差し出していた。


 それだけのことが——どうしようもなく、温かかった。


 エレノーラの目から、涙がこぼれた。


 音はなかった。嗚咽も、震えも、声も。ただ静かに、涙だけが頬を伝い、顎から落ちて、夜着の胸元に小さな染みを作った。


 前世で死んだ時も泣かなかった。

 大茶会で戦った時も、密室に閉じ込められた時も、未来が変わり始めた恐怖に震えた時も——一度は泣いた。けれどあの時は、手を握ってもらった温もりに堰を壊されたのだ。


 今は違う。

 誰も触れていない。誰も抱きしめていない。ただ「一人ではない」という言葉だけがそこにあって、それだけで——涙が止まらなかった。


 クラウスは何も言わなかった。


 灯りの中に立ち、静かにこちらを見ている。その紺色の瞳に浮かんでいるものを、エレノーラは涙越しに見た。名前をつけることはできない。けれど、冷たい論理だけで構築されたはずのこの男の中に——確かに、温度があった。


 どれほどの時間が過ぎただろう。


 涙が止まった時、エレノーラの目から何かが消えていた。


 怯え。

 前世の記憶に縛られた、見えない鎖。


 代わりに灯ったものがあった。静かで、硬い光。


「……失礼いたしましたわ。お見苦しいところを」


「見苦しいとは思いません」


 短い沈黙。


「……報告書は、朝食後に」


「ええ。お待ちしておりますわ」


 クラウスが一歩下がった。踵を返しかけて——立ち止まった。


「エレノーラ嬢」


「はい」


「明日から、忙しくなります」


 それだけ言って、銀灰色の背中が廊下の闇に消えていった。


 エレノーラは扉を閉め、そのまま扉に背を預けた。


 頬に残る涙の跡が、冷たい。

 けれど胸の奥は、凍えてはいなかった。


(前世で——わたしは何も知らずに死んだ。スパイのことも、資金の流れも、この国が蝕まれていたことも)


 拳を握った。


(でも今は知っている。全部、知った。だから——)


 窓の外では、東の空がほんのわずかに白み始めていた。夜明けの気配。


「もう、誰も犠牲にしない」


 声に出した。

 誰にも聞こえない、小さな声だった。


 けれどその言葉には、前世で最期まで持てなかったものが宿っていた。


 怯えではなく、決意。

 孤独ではなく、覚悟。


 エレノーラは涙の跡を拭い、窓辺に立った。夜着のまま、髪を下ろしたまま。令嬢の仮面はどこにもない。


 ただ——目の中に、もう迷いはなかった。

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― 新着の感想 ―
読解力が無くて申し訳ないんだけど、ヒロイン達は王宮に住んでるってことなの?深夜に婚約者でも無い相手の部屋に行ったり(中に入らずとも)、調べ物や会議で密室に2人きりによくなってるけど、不用心だし不貞を働…
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