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20.共犯者の代償

 仮面舞踏会の翌朝、噂はもう城中に広がっていた。


「宰相補佐官が第二王子殿下に盾突いたらしい」


「密室から令嬢を連れ出したんですって——まるで騎士さまね」


「でも第二王子派の貴族たちが激怒しているそうよ。報復があるかも」


 エレノーラは自室の窓辺に座り、マリアが持ってきた報告を聞いていた。


 指先が冷たい。紅茶のカップを握っているのに、温もりが届かない。


「——クラウス様への処分の話は」


「まだ正式なものはございません。ですが、第二王子殿下がお父上の宰相閣下に直接抗議されたと」


 マリアの声が慎重になる。


「宰相閣下は表向き『息子の不手際を詫びる』と仰ったそうです」


(詫びた。グレゴール閣下が——あのクラウスのために、頭を下げた)


 エレノーラはカップを置いた。


 指の震えを、マリアに見られたくなかった。


「ありがとう、マリア。少し一人にして」


「かしこまりました」


 扉が閉まる。


 エレノーラは両手で顔を覆った。


(——私のせいだ)


 クラウスが仮面舞踏会で動いたのは、エレノーラを守るためだった。あの密室から連れ出すために、宰相補佐官という立場を盾にして第二王子に正面から逆らった。


 その代償が、今、彼に降りかかっている。



      *



 同じ頃。宰相府の奥にある私室。


 グレゴール・フォン・ジークムントは息子を前にして、長い沈黙を保っていた。


 五十五年の人生で培われた老獪な目が、クラウスを見据えている。


「……しばらく目立つな」


 低い声だった。叱責ではない。忠告でもない。


 父親が息子に与える、数少ない庇護の言葉だった。


「第二王子派の中でも強硬な者たちが動いている。お前の宰相府内での権限を制限しろという声が出ている」


「承知しています」


「お前が何のために動いたかは聞かん。だが結果として、我がジークムント家に火の粉が飛んだ」


 クラウスは姿勢を崩さなかった。


 銀灰色の髪の下、紺色の瞳は静かに父を見返している。


「申し訳ございません」


「謝罪は要らん。要るのは時間だ。ほとぼりが冷めるまで、表舞台から退け」


 グレゴールが椅子の背に体を預けた。


 一瞬——ほんの一瞬だけ、老いた目に別の感情が過ぎった。心配とも、諦めともつかない何か。


「……お前の母もそうだった。正しいと思ったことは、損得を度外視して動く」


 クラウスの指が、かすかに動いた。


「母上は関係ありません」


「ああ。関係ないな。——行け」


 クラウスは一礼して踵を返した。

 扉が閉まった後、グレゴールは深くため息をついた。


「……馬鹿息子め」


 その声は、怒りよりもずっと柔らかかった。



      *



 午後、エレノーラは宰相府を訪れた。


 廊下を歩くだけで視線がまとわりつく。官吏たちの囁きが背中を刺した。


 奥の執務室の前で、ノックしようとした手が震えた。


(会って、謝って、対策を話し合う。それだけのことだ)


 拳を握り、二度叩いた。


「どうぞ」


 変わらない声。


 扉を開けると、クラウスは窓際の机に向かって書類を捌いていた。いつもと同じ姿勢。いつもと同じ銀縁の眼鏡。まるで何も起きていないかのように。


「エレノーラ嬢。お座りください。紅茶を淹れます」


 立ち上がる動作に、わずかな硬さがあった。


 左肩を庇うような動き。仮面舞踏会で扉をこじ開けた時に、どこか痛めたのかもしれない。


「クラウス様」


「はい」


「昨夜のこと、お聞きしました。宰相閣下から——」


「ああ、父の件ですか。問題ありません」


 あっさりと遮られた。


 クラウスは湯を注ぎながら、何でもないことのように続ける。


「一時的な権限制限と、しばらくの謹慎に近い扱いになるでしょう。ですが実務は変わりません。書類の決裁ルートが一つ増えるだけです」


「問題ありません、ではないでしょう」


 声が、自分で思ったよりも強く出た。


 クラウスの手が止まる。


「あなたが第二王子に逆らったのは、私を助けるためです。その結果、あなたの立場が危うくなった。これは——」


 言葉を選ぶ。令嬢の仮面を保とうとする。だが、喉の奥が詰まるような感覚が邪魔をする。


「あなたが傷つく計画は、私の設計にはありませんでした」


 静かに言った。

 紅茶を注ぐ音が止んだ。


 クラウスがゆっくりと振り返った。


 眼鏡の奥の瞳が、エレノーラをまっすぐに見ている。


「——あなたの設計に、私は最初からいなかったでしょう」


 心臓が、止まったかと思った。


「前世で描いた計画に、私の名前はなかった。あなたは一人で全てを設計し、一人で実行するつもりだった。違いますか」


 エレノーラは答えられなかった。


 図星だった。


 前の人生で、クラウス・フォン・ジークムントという人間は存在しないも同然だった。同じ宮廷にいながら、一度も言葉を交わさなかった。彼の名前すら知らなかった。


 死に戻った時、エレノーラが描いた設計図にこの男の姿はなかった。


「ですから」


 クラウスが静かに続ける。


「私が傷つくことを想定していなかったのは、当然です。設計に含まれていない変数の損害は、計算のしようがない」


 合理的な言葉だった。いつも通りの、感情を排した論理。


 なのに——その声の奥に、かすかな温度を感じた。


 エレノーラは唇を噛んだ。


 言わなければ。

 今、ここで。


「……ええ。いませんでした」


 声が震えていた。令嬢の仮面が、剥がれていく。


「前世の設計図に、あなたはいなかった。一人で復讐して、一人で終わらせるつもりでした」


 クラウスは黙っている。


「でも今は——」


 視線を上げた。

 涙は出ていない。泣いていない。ただ、琥珀色の瞳がまっすぐに、銀縁の眼鏡の奥を見つめている。


「——いてくれなければ、困ります」


 長い沈黙が落ちた。


 窓から差す午後の光が、二人の間を横切っている。遠くで鳥の声がした。宰相府の廊下を歩く足音が、かすかに聞こえて、消えた。


 クラウスの表情は変わらなかった。


 口元も、眉も、動かない。


 ただ——眼鏡の奥の目が、わずかに、柔らかくなった。


 それはこの男が見せる、最大限の感情表現だった。


「……紅茶が冷めます」


 静かに言って、クラウスはカップを差し出した。


 エレノーラは受け取った。


 指先が触れた。昨日のように震えてはいなかった。


「これからの方針ですが」


 クラウスが向かいの椅子に座った。


「私がしばらく表に出られない以上、派閥工作の表向きの窓口はエレノーラ嬢に集約されます。裏の情報経路は維持しますが、直接の接触は控えたほうがいい」


「……それは、しばらく会えないということですか」


 聞いてから、しまった、と思った。


 会えない。その言葉を選んだ自分に、エレノーラ自身が驚いていた。


 クラウスが一拍、間を置いた。


「会議は書面で。必要な場合は、マリアを介して」


 答えになっていない。


 だが、クラウスの声がほんの少しだけ低くなったことに、エレノーラは気づいた。


「……わかりましたわ」


 紅茶を一口飲んだ。いつもと同じ完璧な温度。完璧な濃さ。


(——ああ)


 この紅茶を飲めなくなることが、計画の停滞よりもずっと、胸を締めつけている。


 そのことの意味を、エレノーラは理解していた。

 理解していて——名前をつけることを、拒んでいた。



      *



 宰相府を出た。

 西日が城壁を赤く染め始めている。


 エレノーラは回廊を歩きながら、自分の胸に手を当てた。


 前世の設計図には、自分が生き残るための線しか引かれていなかった。


 そこにクラウスの名前はなかった。あるはずがなかった。


 それなのに——今はもう、この人なしでは設計図が成り立たない。


 いつからだろう。


 あの夕暮れの回廊で秘密を打ち明けた日か。震える手を握られた日か。それとも——密室の扉を開けて、冷たい声で王子に向かった、昨夜のあの瞬間か。


 わからない。


 わからないけれど、一つだけ確かなことがある。


(この感情の名前を、私はまだ知らない振りをしている)


 夕陽が沈んでいく。

 回廊の影が長く伸びて、エレノーラの足元を追いかけていた。




 第二章 盤上の駒 了

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