表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/36

2.夜会の脚本を書き換える

 夜会の大広間は、百本のシャンデリアに灯された光で息が詰まるほど眩しかった。


 弦楽団の旋律が天井の高い空間に反響し、宝石をまとった貴族たちが緩やかに踊っている。春の大夜会——王国でもっとも華やかな社交の舞台。


 前の人生で、私はこの隅に立っていた。


 壁に背をつけて、誰にも話しかけられず、婚約者の姿すら探せずに。グラスのぬるくなった果実水を啜りながら、早く帰りたいとだけ思っていた。


 あの夜、アレクシスはバルコニーでセレスティアと「運命的に出会い」、私の知らないところで全てが動き始めた。


 ——もう、あの私じゃない。


 琥珀色のドレスの裾を軽く捌いて、大広間の中央へ踏み出した。前世では一度も足を踏み入れなかった場所。ここが今夜の戦場だ。


「エレノーラ様、今宵はいつもと違うお色味ですのね。とてもお似合いですわ」


「ありがとうございます、マルグリット様。そちらの髪飾り、新しいものでしょう? とてもお綺麗」


「まあ、気づいてくださったの?」


 前世の記憶は、こういう場面で役に立つ。この令嬢が先月オーダーした髪飾りの話を、侍女たちの噂話で知っている。些細なことだ。でも「気づいてくれた」という事実は、人の心を開く鍵になる。


 私は微笑みながら社交の輪を渡り歩いた。一人、二人、三人——声をかけるたびに、相手の表情が驚きから好意に変わるのが見える。


「ヴィクトール伯のお嬢様、先日のお茶会ではお話しできなくて残念でしたわ。次はぜひご一緒させてくださいませ」


「え、ええ……喜んで」


 伯爵令嬢は目を丸くしていた。無理もない。去年の私なら目も合わせなかったはずだから。


(前の私が愛想がなかっただけで、みんな別に、嫌いだったわけじゃないんだ)


 少しだけ、胸が痛んだ。三年前からこうしていれば、何か変わっていただろうか。——いや、考えても仕方ない。後悔は前世に置いてきた。


 時計塔の鐘が九時を告げた。


 ——ここからが本番。



      *



 大広間の東側に、バルコニーへ続く硝子扉がある。


 前世では、あの場所で全てが始まった。聖女セレスティアが「迷子になってしまって」と涙ぐみながらバルコニーに出る。そこに偶然——偶然を装って——アレクシスがいる。月明かり。涙。運命的な邂逅。


 全部、嘘だ。


 セレスティアは事前にアレクシスの動線を調べていた。あの涙も、あの迷子も、一分の狂いもなく仕組まれた舞台だった。そのことを知ったのは、前世で全てを失った後だったけれど。


 今日は違う。


「あら——この扉、開きませんわね」


 バルコニーへの扉に手をかけた侍女が、首を傾げた。


 三十分前、私はこの扉の蝶番に目立たぬ細工を施した。髪留めの金具を一本、蝶番の隙間に差し込んだだけ。力を入れれば開くが、普通に引いただけでは動かない。ちょっとした不具合——よくあること。


 金具は明日の朝、使用人が掃除すれば自然に落ちる。証拠は残らない。


「申し訳ございません、老朽化でしょうか。衛兵にお伝えしますわ」


 私が丁寧に声をかけると、侍女は困った顔で頷いた。衛兵に伝わった頃には、もう夜会は終わっている。


 これでセレスティアがバルコニーに出ようとしても、自然に阻まれる。仮に別の扉から回ったとしても、その頃にはアレクシスはバルコニーにはいない。


 なぜなら——


「アレクシス殿下、ルドルフ殿下がお探しでしたわ。外交官のご紹介があるとか」


 すれ違いざまに声をかけた令嬢——事前に私が頼んでおいた協力者だ。些細な嘘。でもアレクシスは兄の名前を出されたら、無視はできない。


 アレクシスが舌打ち混じりに大広間の奥へ消えていくのを、グラスの縁越しに確認した。


(予定通り)


 唇が、自然に笑みの形になった。



      *



 それから十五分ほど経った頃だった。


 大広間の入口付近で、金色の巻き髪が揺れるのが見えた。


 セレスティア・ミルフィーユ。白いドレスに翡翠の首飾り。天使のような微笑みを浮かべて——けれど、その目が泳いでいる。


 バルコニーの方を見ている。扉の前まで歩いていく。手をかける。——開かない。


 もう一度。開かない。


 振り返る。大広間を見渡す。アレクシスの姿を探している。いない。


(そうでしょうね。あなたの「運命の出会い」の舞台は、今夜はお休みよ)


 セレスティアの顔に、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、焦りが浮かんだ。


 すぐに天使の微笑みに戻る。でも、私は見た。あの仮面の下の、計算が狂った人間の顔。


 セレスティアは何食わぬ顔で、近くにいた令嬢に声をかけた。「少し暑くて、外の空気を吸いたかったのですけれど」。完璧な演技。完璧な被害者の顔。——でも、もう舞台は壊した。


 果実水を一口飲んだ。甘い。今夜の果実水は、前世よりずっと甘い。


 ——快感だった。


 復讐なんて大層なものじゃない。ただ、あなたが私から奪った三年間の、最初の一手を潰しただけ。


 これは始まりに過ぎない。でもこの一手が意味するのは、「あなたの台本は、もう通用しない」ということ。



      *



 社交の輪に戻った。


 今夜の私は、前世とは別人のように振る舞っている。自覚はある。暗い隅で壁に張りついていた令嬢が、突然あちこちで会話を弾ませている。周囲が驚いていた。


「エレノーラ様って、こんなにお話が上手な方でしたの?」


「ふふ、少し人見知りを克服しましたの」


 嘘だ。人見知りを克服したんじゃない。三年分の修羅場をくぐった女が、社交辞令くらい造作もないだけ。


 でもこの笑顔を維持するのには、想像以上に体力を使う。頬の筋肉が微かに痛い。慣れないことをしている自覚はある。


 マルグリット様の冗談に笑い、ヴィクトール伯爵の娘の相談に耳を傾け、老婦人にワインのお代わりを勧める。ふとした瞬間に、大広間の奥にアレクシスの金髪が見えた。兄を探して苛立っている。ルドルフ殿下は最初から夜会には来ていない——当然だ、存在しない用事なのだから。


(ごめんなさい、殿下。でもあなたが苛立っている間に、聖女の計画は瓦解したの)


 何人もの視線を感じた。好奇。賞賛。困惑。


 その中に——一つだけ、質の違う視線があった。


 背筋に、冷たいものが走った。


 観察されている。品定めではない。分析されている。


 視線の主を探す。


 大広間の柱の陰。弦楽団の近く。


 銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。切れ長の目。


 長身の青年が、グラスを片手に壁にもたれていた。表情がない。けれど、その目だけが——鋭く、確かに、私を見ていた。


(——誰?)


 知らない顔だった。前世でも、見た記憶がない。


 視線が交錯した。


 一瞬——本当に一瞬だけ、その男の目が細くなった。笑ったのかもしれない。感情を読ませない、薄い変化。


 私は咄嗟に微笑みを返し、視線を外した。心臓が少し速い。


(なに、今の。何であんなに——見透かされているような気がしたの)


 今夜は完璧だったはずだ。バルコニーの封鎖も、アレクシスの誘導も、社交の立ち回りも、全て計画通り。誰にも怪しまれていない——はず。


 なのに、あの目だけが違った。


 胸の奥がざわつく。あの視線は危険だ。理由はわからないけれど、本能がそう告げている。


 もう一度だけ、柱の方を見た。


 男はまだそこにいた。グラスを傾けながら、隣に立つ同僚らしき男に何か呟いている。


「あの令嬢、今夜は随分と……楽しそうだ」


 声は届かない。唇の動きも読めない。


 けれど銀灰色の目は、もう私を離していなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ