2.夜会の脚本を書き換える
夜会の大広間は、百本のシャンデリアに灯された光で息が詰まるほど眩しかった。
弦楽団の旋律が天井の高い空間に反響し、宝石をまとった貴族たちが緩やかに踊っている。春の大夜会——王国でもっとも華やかな社交の舞台。
前の人生で、私はこの隅に立っていた。
壁に背をつけて、誰にも話しかけられず、婚約者の姿すら探せずに。グラスのぬるくなった果実水を啜りながら、早く帰りたいとだけ思っていた。
あの夜、アレクシスはバルコニーでセレスティアと「運命的に出会い」、私の知らないところで全てが動き始めた。
——もう、あの私じゃない。
琥珀色のドレスの裾を軽く捌いて、大広間の中央へ踏み出した。前世では一度も足を踏み入れなかった場所。ここが今夜の戦場だ。
「エレノーラ様、今宵はいつもと違うお色味ですのね。とてもお似合いですわ」
「ありがとうございます、マルグリット様。そちらの髪飾り、新しいものでしょう? とてもお綺麗」
「まあ、気づいてくださったの?」
前世の記憶は、こういう場面で役に立つ。この令嬢が先月オーダーした髪飾りの話を、侍女たちの噂話で知っている。些細なことだ。でも「気づいてくれた」という事実は、人の心を開く鍵になる。
私は微笑みながら社交の輪を渡り歩いた。一人、二人、三人——声をかけるたびに、相手の表情が驚きから好意に変わるのが見える。
「ヴィクトール伯のお嬢様、先日のお茶会ではお話しできなくて残念でしたわ。次はぜひご一緒させてくださいませ」
「え、ええ……喜んで」
伯爵令嬢は目を丸くしていた。無理もない。去年の私なら目も合わせなかったはずだから。
(前の私が愛想がなかっただけで、みんな別に、嫌いだったわけじゃないんだ)
少しだけ、胸が痛んだ。三年前からこうしていれば、何か変わっていただろうか。——いや、考えても仕方ない。後悔は前世に置いてきた。
時計塔の鐘が九時を告げた。
——ここからが本番。
*
大広間の東側に、バルコニーへ続く硝子扉がある。
前世では、あの場所で全てが始まった。聖女セレスティアが「迷子になってしまって」と涙ぐみながらバルコニーに出る。そこに偶然——偶然を装って——アレクシスがいる。月明かり。涙。運命的な邂逅。
全部、嘘だ。
セレスティアは事前にアレクシスの動線を調べていた。あの涙も、あの迷子も、一分の狂いもなく仕組まれた舞台だった。そのことを知ったのは、前世で全てを失った後だったけれど。
今日は違う。
「あら——この扉、開きませんわね」
バルコニーへの扉に手をかけた侍女が、首を傾げた。
三十分前、私はこの扉の蝶番に目立たぬ細工を施した。髪留めの金具を一本、蝶番の隙間に差し込んだだけ。力を入れれば開くが、普通に引いただけでは動かない。ちょっとした不具合——よくあること。
金具は明日の朝、使用人が掃除すれば自然に落ちる。証拠は残らない。
「申し訳ございません、老朽化でしょうか。衛兵にお伝えしますわ」
私が丁寧に声をかけると、侍女は困った顔で頷いた。衛兵に伝わった頃には、もう夜会は終わっている。
これでセレスティアがバルコニーに出ようとしても、自然に阻まれる。仮に別の扉から回ったとしても、その頃にはアレクシスはバルコニーにはいない。
なぜなら——
「アレクシス殿下、ルドルフ殿下がお探しでしたわ。外交官のご紹介があるとか」
すれ違いざまに声をかけた令嬢——事前に私が頼んでおいた協力者だ。些細な嘘。でもアレクシスは兄の名前を出されたら、無視はできない。
アレクシスが舌打ち混じりに大広間の奥へ消えていくのを、グラスの縁越しに確認した。
(予定通り)
唇が、自然に笑みの形になった。
*
それから十五分ほど経った頃だった。
大広間の入口付近で、金色の巻き髪が揺れるのが見えた。
セレスティア・ミルフィーユ。白いドレスに翡翠の首飾り。天使のような微笑みを浮かべて——けれど、その目が泳いでいる。
バルコニーの方を見ている。扉の前まで歩いていく。手をかける。——開かない。
もう一度。開かない。
振り返る。大広間を見渡す。アレクシスの姿を探している。いない。
(そうでしょうね。あなたの「運命の出会い」の舞台は、今夜はお休みよ)
セレスティアの顔に、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、焦りが浮かんだ。
すぐに天使の微笑みに戻る。でも、私は見た。あの仮面の下の、計算が狂った人間の顔。
セレスティアは何食わぬ顔で、近くにいた令嬢に声をかけた。「少し暑くて、外の空気を吸いたかったのですけれど」。完璧な演技。完璧な被害者の顔。——でも、もう舞台は壊した。
果実水を一口飲んだ。甘い。今夜の果実水は、前世よりずっと甘い。
——快感だった。
復讐なんて大層なものじゃない。ただ、あなたが私から奪った三年間の、最初の一手を潰しただけ。
これは始まりに過ぎない。でもこの一手が意味するのは、「あなたの台本は、もう通用しない」ということ。
*
社交の輪に戻った。
今夜の私は、前世とは別人のように振る舞っている。自覚はある。暗い隅で壁に張りついていた令嬢が、突然あちこちで会話を弾ませている。周囲が驚いていた。
「エレノーラ様って、こんなにお話が上手な方でしたの?」
「ふふ、少し人見知りを克服しましたの」
嘘だ。人見知りを克服したんじゃない。三年分の修羅場をくぐった女が、社交辞令くらい造作もないだけ。
でもこの笑顔を維持するのには、想像以上に体力を使う。頬の筋肉が微かに痛い。慣れないことをしている自覚はある。
マルグリット様の冗談に笑い、ヴィクトール伯爵の娘の相談に耳を傾け、老婦人にワインのお代わりを勧める。ふとした瞬間に、大広間の奥にアレクシスの金髪が見えた。兄を探して苛立っている。ルドルフ殿下は最初から夜会には来ていない——当然だ、存在しない用事なのだから。
(ごめんなさい、殿下。でもあなたが苛立っている間に、聖女の計画は瓦解したの)
何人もの視線を感じた。好奇。賞賛。困惑。
その中に——一つだけ、質の違う視線があった。
背筋に、冷たいものが走った。
観察されている。品定めではない。分析されている。
視線の主を探す。
大広間の柱の陰。弦楽団の近く。
銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。切れ長の目。
長身の青年が、グラスを片手に壁にもたれていた。表情がない。けれど、その目だけが——鋭く、確かに、私を見ていた。
(——誰?)
知らない顔だった。前世でも、見た記憶がない。
視線が交錯した。
一瞬——本当に一瞬だけ、その男の目が細くなった。笑ったのかもしれない。感情を読ませない、薄い変化。
私は咄嗟に微笑みを返し、視線を外した。心臓が少し速い。
(なに、今の。何であんなに——見透かされているような気がしたの)
今夜は完璧だったはずだ。バルコニーの封鎖も、アレクシスの誘導も、社交の立ち回りも、全て計画通り。誰にも怪しまれていない——はず。
なのに、あの目だけが違った。
胸の奥がざわつく。あの視線は危険だ。理由はわからないけれど、本能がそう告げている。
もう一度だけ、柱の方を見た。
男はまだそこにいた。グラスを傾けながら、隣に立つ同僚らしき男に何か呟いている。
「あの令嬢、今夜は随分と……楽しそうだ」
声は届かない。唇の動きも読めない。
けれど銀灰色の目は、もう私を離していなかった。




