19.仮面舞踏会の罠
千の灯火が、夜を昼に変えていた。
王宮の大舞踏場。天井から吊るされた七つのシャンデリアが、水晶の雫を通して虹色の光を撒き散らしている。仮面をつけた貴族たちが渦を巻くように踊り、弦楽団の旋律が壁という壁に反響していた。
仮面舞踏会。前世の記憶にない催し。
エレノーラは深紅のドレスに銀の仮面をつけ、会場の端に立っていた。仮面の下で、琥珀色の瞳が忙しなく動いている。
(知らない夜だ。台本にない場面。何が起きるかわからない)
不安は、もう慣れた。未来が変わり始めてからずっと、この感覚を抱えて戦っている。
「お嬢様、お飲み物を」
マリアが差し出したグラスを受け取った。
「クラウス様はいらしてるの?」
「宰相府の方々は東翼にいらっしゃるとのことです」
(今夜は一人か)
グラスに口をつけた。シャンパンの泡が甘く弾けた。
*
舞踏会が始まって一時間ほど経った頃だった。
「——踊っていただけませんか、お嬢様」
黒い仮面の男が、手を差し出した。
仮面の下から覗く金の髪。碧い瞳。声を聞いた瞬間、エレノーラの背筋に冷たいものが走った。
第二王子、アレクシス。
「殿下」
「おや、わかりましたか。仮面の意味がありませんね」
笑っている。柔らかな笑み。大茶会の後の怒りが、嘘のように消えている。
(——おかしい。この男が穏やかな顔をするのは、何かを企んでいる時だけだ)
だが断れない。仮面舞踏会で王子の誘いを拒否すれば、それだけで醜聞になる。
「光栄ですわ、殿下」
差し出された手を取った。
アレクシスの手は大きく、指先が冷たかった。
ワルツが始まる。回転。ステップ。仮面越しの碧い瞳が、じっとこちらを見つめている。
「最近、ずいぶんとお忙しいようですね」
踊りながら、アレクシスが囁いた。
「聖女を貶め、貴族を懐柔し——兄上にまで手を伸ばしたとか」
エレノーラの指が、一瞬だけ強張った。
(図書室のことを知っている——?)
「何のことでしょう。わたくしは本を読んでいただけですわ」
「ふふ。相変わらずだ」
曲が終わりに近づく。アレクシスがエレノーラの腰に回した手に、わずかに力がこもった。
「少し話がしたい。——静かな場所で」
「殿下、それは」
「拒否できる立場ではないでしょう? エレノーラ」
低い声だった。仮面の下の碧い瞳から、穏やかさが消えている。
曲が終わった。拍手の中、アレクシスがエレノーラの手を引いた。有無を言わさぬ力で。
周囲の貴族は仮面越しに談笑している。王子が令嬢を連れ出す。誰も気に留めなかった。
(まずい——でも、ここで騒げば余計に目立つ)
廊下に出た。舞踏場の喧騒が遠ざかり、灯りが少なくなる。
アレクシスは慣れた足取りで一つの扉の前に立ち止まった。
「ここだ」
扉を開ける。小さな応接室だった。ソファと小卓が置かれただけの、簡素な部屋。窓はない。
「どうぞ、お入りください」
エレノーラは一瞬、立ち止まった。窓のない部屋。廊下の奥。全てが危険を告げている。だが前世の記憶にない場面だ。答えを知らない。
(考えろ——何を企んでいる?)
部屋に足を踏み入れた瞬間。
背後で、扉が閉まった。
重い音。鍵がかかる金属の響き。
振り向いた。アレクシスが扉に背を預け、仮面を外していた。その顔に浮かんでいるのは——勝利の笑み。
「殿下、これはどういう——」
「大人しくしていろ、エレノーラ」
声が変わっていた。穏やかさの仮面が剥がれ、生の感情が剥き出しになっている。怒り。屈辱。そして——嗜虐。
「もうすぐ証人が来る。この部屋の扉を開けたとき、中にいるのは——仮面舞踏会の夜に二人きりで密室にいた王子と令嬢だ」
血の気が引いた。
「不貞のスキャンダルを捏造するおつもりですか……!」
「捏造? 事実だろう。王子が令嬢を部屋に連れ込んだ。それを複数の貴族が目撃する。——お前の社交界での評判は、一夜にして終わる」
エレノーラの体が震えた。恐怖と、それ以上に——自分の無力さへの怒り。
(前世にない罠だ。答えを知らない。対処法がない——)
記憶が一瞬蘇る。冷たい床。体に回る毒。指先から消えていく感覚。あの時も——何もできなかった。
膝が震えた。
「もう観念しろ。お前が何を仕組んでいるか知らないが、不貞の烙印を押された令嬢の言葉を信じる者はいない」
アレクシスが一歩、近づいた。
エレノーラは後ずさった。背中がソファの縁に当たった。逃げ場がない。
*
——扉が、開いた。
鍵がかかっていたはずの扉が。外側から、静かに、確実に。
廊下から流れ込む灯りの中に、一人の男が立っていた。
銀灰色の髪。銀縁の眼鏡。長身の影が床に長く伸びている。
「第二王子殿下」
宰相補佐官、クラウス・フォン・ジークムントの声は、これまでエレノーラが聞いたどの瞬間よりも冷たかった。
氷ではない。鋼だ。折れも曲がりもしない、研ぎ澄まされた刃の声。
「この部屋で、何をされているのですか」
アレクシスの顔が凍った。
「ジークムント……なぜ——」
「質問しているのは私です。殿下」
クラウスが一歩、部屋に入った。紺色の瞳に感情の揺らぎはない。だからこそ、奥に宿る怒りの深さが際立った。
「王族が臣下の令嬢を密室に連れ込み、鍵をかける。——これが何を意味するか、殿下はご理解されていますか」
「これは——違う、私はただ——」
「エレノーラ嬢」
声の温度が変わった。鋼から、静かな温もりに。
「怪我は」
「……ありませんわ」
声が震えていた。情けないと思った。だが止められなかった。
クラウスは一つ頷き、再びアレクシスに向き直った。
「殿下。宰相府の護衛が二名、廊下に控えております。殿下がハーゼンベルク令嬢を連れ込んだことは、すでに複数の目撃者が確認済みです」
アレクシスの顔が蒼白に変わった。
「証人を集めていたのはどちらでしょうね。——証言される内容は、殿下のお望みとは少々異なるかと存じますが」
「き、貴様——宰相補佐官の分際で——」
「宰相補佐官として申し上げております。王族の不祥事を未然に防ぐことも、私の職務です」
淡々と。だがその一語一語が、アレクシスの退路を断っていた。
アレクシスの碧い瞳に、怒りと屈辱と恐怖が入り混じっている。
「……覚えていろ」
それだけ吐き捨てて、アレクシスは部屋を出た。仮面を拾い上げることすら忘れて、闇の中に消えていった。
*
静寂が落ちた。
遠くから、舞踏場の音楽がかすかに聞こえる。華やかなワルツの旋律。まるで別の世界の出来事のようだった。
エレノーラの膝から、力が抜けた。
「——っ」
崩れ落ちそうになった体を、腕が支えた。
クラウスだった。銀の仮面をそっと外してくれる。仮面の下のエレノーラの顔は蒼白で、琥珀色の瞳が揺れていた。
「……すみません。足に力が」
「座ってください」
ソファに座らされた。
「大丈夫です。もう大丈夫ですから」
「また嘘をつく」
「……嘘が下手なのは、ご存知でしょう」
小さく笑おうとした。だが唇が震えて、うまく笑えなかった。
クラウスは何も言わず、上着を脱いでエレノーラの肩にかけた。温かかった。紅茶とインクの、かすかな匂い。
エレノーラは深く息を吐き、上着の襟を無意識に握り締めた。
「クラウス様」
「はい」
「なぜ——ここがわかったのですか」
沈黙が落ちた。
クラウスは眼鏡を押し上げ、窓のない壁に目を向けた。
「……第二王子が仮面舞踏会で不審な動きをしていると、情報が入りました」
「それだけ?」
「あなたが会場から消えた時刻と、殿下が消えた時刻が一致した。——あとは、廊下を辿っただけです」
合理的な説明だった。筋は通っている。
だがエレノーラは気づいていた。
(嘘だ。私が会場から消えた時刻を知っている——つまり、ずっと見ていた)
「クラウス様」
「何ですか」
「……あなた、わたくしを見張っていたのでしょう」
クラウスは答えなかった。
ただ、眼鏡の奥の紺色の瞳がわずかに揺れた。それが答えだった。
「見張る、というのは語弊があります」
長い間を置いて、クラウスが口を開いた。
「警護です」
「同じことですわ」
「違います。——見張りは疑いから生まれる。警護は」
そこで言葉が途切れた。
エレノーラは上着の襟を握ったまま、クラウスを見上げた。仮面を外した素顔で。震えの残る瞳で。
「警護は?」
クラウスは答えなかった。
ただ一度だけ、ごく小さな声で——
「……帰りましょう。マリアが心配している」
差し出された手を取った。
アレクシスの冷たい手とは何もかもが違う。温かくて、確かで、この手が離されることはないと——なぜか、そう思えた。
廊下に出ると、仮面舞踏会の音楽はまだ続いていた。何事もなかったかのように。
エレノーラは歩きながら、上着の温もりを感じていた。
(この人は偶然ではなく、ここにいた。私を——守るために)
その事実が、冷え切った体の奥に小さな火を灯していた。
名前をつけてはいけない火。今はまだ。けれど確かに、そこにあった。




