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18.第一王子の選択

 王宮の東翼にある王立図書室は、宮廷で最も静かな場所だった。


 午後の陽光が高い窓から差し込み、無数の塵が金色に輝いている。革装丁の古書が壁一面を埋め尽くし、インクと羊皮紙の匂いが空気に溶けていた。


 そしてこの場所の主は、いつも同じ席にいる。


「失礼いたします。——お隣の席、お借りしてもよろしいでしょうか」


 ルドルフ・ロイ・グランディア第一王子は、分厚い書物から顔を上げた。


 穏やかな茶色の瞳。金を帯びた淡い髪は弟のアレクシスと似ているが、纏う空気がまるで違う。鋭さではなく、静けさ。この人は剣ではなく書物を選んだ王子だ。


「ハーゼンベルク公爵令嬢か。珍しいな、こんな場所まで」


「わたくしも本は好きですのよ。——特に、歴史書を」


 エレノーラは微笑んで隣の椅子を引いた。手にしているのは、一冊の年代記。選んだのは偶然ではない。クラウスに相談した時、「第一王子の関心を引くなら、歴史書がいい」と助言されたのだ。


(この人が今読んでいるのは、建国期の財政改革に関する論文。前世でも同じ本を読んでいた。ルドルフ殿下の関心は常に——国の仕組みそのものにある。クラウスの読みは正確だった)


「その本は」


 ルドルフの視線がエレノーラの手元に向いた。


「フレデリック三世の歳入改革の記録か。渋い選択だね」


「ええ。王国の財政基盤を一から立て直した名君の手記ですわ。読むたびに、この国がいかに繊細な均衡の上に成り立っているか、思い知らされます」


 ルドルフの瞳がわずかに動いた。興味を引いた、という目だった。


「均衡、か。面白い言い方をする」


「事実ですもの。歳入と歳出の釣り合い、地方と中央の信頼関係、王室の権威と貴族の自治——どれか一つが崩れれば、全てが傾きますわ」



      *



 しばらく、二人は並んで本を読んだ。


 ページをめくる音と、遠くで時計が時を刻む音だけが図書室に響いている。穏やかな時間だった。


 エレノーラは焦らなかった。


 この人には正面からぶつけても意味がない。聡明な人間には、自分で気づかせるのが最善だ。それはクラウスと接するうちに学んだことでもあった。


「殿下」


「何かな」


「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 エレノーラは年代記のあるページを開いた。


「フレデリック三世の治世で最も深刻だった問題——この書には『王室直轄領の歳出管理の不透明さ』と記されています。修繕費や慈善基金の名目で資金が流出し、国庫が空洞化していた、と」


 ルドルフの手が止まった。


「具体的には、名目を分散させて一件あたりの金額を小さくすることで、監査の目を逃れていたそうですわ。百年前の話ですけれど」


 静かな声だった。何の感情も込めていない。ただ歴史書の内容を紹介しているだけ——表面上は。


 長い沈黙が落ちた。


 ルドルフは本を閉じなかった。ただ、開いたページに視線を落としたまま、動かなかった。


「……ハーゼンベルク嬢」


「はい」


「百年前の話、と言ったね」


「ええ」


「本当に?」


 エレノーラは微笑みを崩さなかった。


「歴史は繰り返すものだと、この書にもございますわ」


 ルドルフがようやく顔を上げた。その瞳に、先ほどまでの穏やかさはなかった。聡明さが刃に変わった目。


 この人は学問好きで政治に無関心なのではない。政治の醜さを知った上で距離を置いていたのだ。


「……君は」


 低い声が、図書室の静寂を揺らした。


「弟を——告発したいのか」



      *



 直球だった。


 エレノーラは一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐにルドルフを見上げた。


「いいえ」


 令嬢の仮面をほんの少しだけ——ほんの少しだけ外した声で、言った。


「王国を守りたいだけです」


 嘘ではなかった。


 復讐のために始めた二周目の人生。けれど帳簿を読み、派閥を崩し、この国の仕組みを内側から見続けるうちに——いつの間にか、その言葉は本心になっていた。


 ルドルフは長い間、エレノーラの目を見つめていた。


 値踏みではない。確かめるような、見極めるような視線。


「……君の目は嘘をついていない」


 ルドルフが呟いた。そして小さくため息をつき、窓の外に目を向けた。午後の陽光が傾き始め、図書室の影が長く伸びている。


「宰相補佐官のジークムントと組んでいるのだろう。あの男が近頃、不自然に財務資料を精査していることは知っている」


(やはり聡明だ。この人には何も隠せない)


「……ええ。クラウス様には大変お力添えいただいております」


「あの男が動くということは、宰相閣下も承知の上か」


「少なくとも、黙認はされているかと存じます」


 ルドルフは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。


「私は弟を庇うつもりはない。だが、王家の恥を無秩序に晒す気もない」


「当然のことですわ」


「——君は、その線引きを理解している。だからこうして遠回しに来たんだろう」


 エレノーラは何も言わなかった。肯定の沈黙だった。


 図書室の窓から差し込む光が赤みを帯び始めていた。書架の影が二人の間に長く落ちている。


 ルドルフが再びエレノーラに向き直った。


 その目に、決意の色が浮かんでいた。


「いいだろう。私は味方になる」


 エレノーラの心臓が跳ねた。だが顔には出さない。


「ただし、条件がある」


「お聞かせください」


「証拠は、私自身が確認する。帳簿の写しだけでは足りない。原本と照合し、数字の一つ一つをこの目で検証する。それが確かなものだと私自身が納得するまでは、一切動かない」


 合理的で、誠実な条件だった。


 感情ではなく、事実で判断する。権力ではなく、正しさで動く。ルドルフ・ロイ・グランディアという人物の本質が、その一言に凝縮されていた。


「殿下」


 エレノーラは立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは早い。私はまだ何も見ていない」


「いいえ。——耳を傾けてくださっただけで、十分ですわ」


 ルドルフは一瞬目を瞠り、それから小さく苦笑した。


「……なるほど。宰相補佐官が惹かれるわけだ」


「え——」


「何でもない。——原本の閲覧は、三日以内に手配できるか」


「いたしますわ」


 エレノーラは微笑んだ。計画通り——いや、計画以上だ。


 三日。原本を閲覧できる場所と時刻を用意しなければならない。クラウスの力が要る。今夜のうちに伝えよう。


 図書室を辞す時、振り返ると、ルドルフはすでに本に視線を戻していた。けれどその横顔に、もう以前の無関心はなかった。


 静かな決意。それは書物の中ではなく、現実に向けられている。


(駒が揃い始めている。あとは——)


 廊下に出ると、窓の向こうで夕陽が王城の尖塔を赤く染めていた。


 三日後、王宮では仮面舞踏会が開かれる。


 前世の記憶にない催し。未来が変わった証。


 エレノーラの胸に、かすかな不安が過ぎった。


 けれどすぐに、一人の男の顔が浮かんだ。銀灰色の髪と、銀縁の眼鏡。「一人で戦う必要はない」と言った声。


「——予定通りです」


 誰にも聞こえない声で呟き、エレノーラは歩き出した。

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