17.勝手に守らないでください
翌朝、エレノーラは眠れないまま朝を迎えた。
寝台の天蓋を見つめながら、昨日の光景を何度も反芻する。聖女の涙。国王の沈黙。そして——クラウスの「急を要しました」。
(一晩かけても、整理がつかない)
怒っている。それは確かだ。
けれど、何に怒っているのか。自分でもわからないのが、一番腹が立つ。
「お嬢様、お支度のお時間です」
マリアの声に促され、エレノーラは寝台から起き上がった。
*
宰相府の執務室の前に立ったのは、午前十時だった。
深く息を吸い、背筋を伸ばす。ノックをした。
「どうぞ」
扉を開けると、アッサムの濃い香りがした。
クラウスは窓際に立っていた。いつもの執務机ではなく、窓の前に。まるで、こちらを待っていたように。
「昨日は失礼いたしましたわ」
「いえ」
エレノーラは部屋の中央で足を止めた。椅子には座らない。
「なぜ、わたくしに相談なく動いたのですか」
握りしめた手の爪が、掌に食い込んでいる。
クラウスは眼鏡を押し上げた。
「急を要しました。聖女が国王に接触する兆候を掴んだのが六日前。報告書の準備に五日。あなたに相談する余裕は——」
「ありませんでしたか? 本当に?」
エレノーラの声に、刃が混じった。
「六日あれば、一言伝えることくらいできたはずです。『聖女が動く』——それだけで良かった」
「……確かに」
「それなのに何も言わなかった。つまり、相談する気がなかったのでしょう」
クラウスが、わずかに目を伏せた。
この男が視線を外すのを見たのは、初めてだった。
「……否定はしません」
「なぜ」
「あなたの負担を増やしたくなかった」
淡々とした口調に、普段とは違う何かが混じっている。
「全てあなたが主導している。その上に聖女の対策まで背負わせるのは——合理的ではない」
「合理的」
エレノーラは一歩、前に出た。
「合理的ですって? では伺いますわ。宰相閣下を動かしてまで報告書を準備したこと——通常のあなたなら、そんなリスクは取らない」
エレノーラの琥珀色の瞳が、クラウスを射抜いた。
「あなたは合理性以外の理由で動いた。違いますか」
沈黙が執務室を満たした。
「……否定はしません」
二度目の、同じ言葉。
だがその声は、先ほどより少しだけ低かった。
「クラウス様」
エレノーラは背筋を伸ばした。声に力を込めた。
「わたくしは、自分で戦えます」
「知っています」
「守られなければならないほど、弱くありません」
「知っています」
クラウスの声が、僅かに強くなった。
「あなたが強いことは、誰よりも知っている」
一歩、クラウスが近づいた。銀灰色の髪が窓からの光を受けて白く輝く。紺色の瞳が、真っ直ぐにエレノーラを捉えていた。
「だが——あなたが一人で戦う必要はない」
その言葉が、胸の奥に落ちた。深く、静かに。
(——あの日と、同じだ)
「二人で道を作ればいい」。震えるわたくしの手を握って言った言葉。あの時は合理的な提案だった。
でも今は違う。今のクラウスは、合理性で動いていない。
「……っ」
言葉が出なかった。喉の奥が熱い。怒りで来たはずなのに、全く違う感情が込み上げてきている。
「……ずるいですわ」
絞り出した声は、怒りでも抗議でもなかった。
「いつもそうやって、わたくしの言葉を奪うのですね」
「そのつもりはありませんが」
「あるでしょう。絶対にあるでしょう」
エレノーラは顔を背けた。
頬が熱い。耳まで熱い。こんな顔を見せるわけにはいかない。
「——今後は、必ず事前にわたくしに相談してください。これは命令ではなく——」
一度、息を整えた。
「お願いですわ。わたくしたちは共犯者でしょう。情報の非対称は、計画の最大のリスクです」
「……わかりました」
クラウスの声に、微かな笑みが混じった気がした。
振り向いて確かめる勇気は、なかった。
「では、今後は全ての作戦について事前に共有します」
「ええ。そうしてくださいまし」
「ただし——」
クラウスが、ほんの一瞬、間を置いた。
「あなたが危険に晒される場面では、事後報告になる可能性がある。それだけは——許してほしい」
エレノーラは反射的に振り返った。抗議しようとして——言葉を失った。
紺色の瞳が、すぐそこにあった。いつものクラウスのはずなのに、その奥に見えたものに息を呑んだ。
(この人は——本気だ)
「……善処いたしますわ、としか言えませんわね」
精一杯の虚勢だった。声が裏返らなかったのが奇跡だ。
「それで十分です」
クラウスが一歩下がり、ティーポットに手を伸ばした。
「紅茶をどうぞ。今日はアッサムです」
「……いただきますわ」
椅子に腰を下ろした。膝が、少しだけ震えていた。
*
その頃——執務室の扉の向こうで。
マリアは、紅茶の載った盆を抱えたまま固まっていた。
(お、お嬢様の声が震えていた……)
ノックしようとした手が空中で止まっている。会話が嫌でも聞こえてしまった。
(「一人で戦う必要はない」って——それ、もう告白では?)
マリアは盆を抱え直し、静かに後ずさった。
(お嬢様のお顔が見たい。絶対に真っ赤。絶対に)
口元を押さえたいが盆が邪魔だ。唇を噛んで笑いを堪える。
(でも——よかった。お嬢様の孤独を、あの方はちゃんと見ている)
マリアは音を立てずに踵を返した。紅茶は冷めてしまったが、淹れ直せばいい。
今はまだ、あの扉を開けるべきではない。
*
執務室の窓から差す光が、午後の色に変わり始めていた。
二人は向かい合って紅茶を飲んでいた。
報告書の内容について。聖女の次の手について。国王の判断の行方について。話すべきことは山ほどあった。
けれどエレノーラの胸の中では、もう一つの言葉が静かに温もっていた。
(共犯者——いいえ、もう共犯者ではない)
カップを傾けながら、窓の外に目を向けた。
(この人は——パートナーだ)
その言葉が胸の中に落ちた瞬間、不思議なほど自然に、呼吸が楽になった。一人で戦っていた頃の、あの息苦しさが——ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
「どうしました」
クラウスが怪訝そうに聞いた。
「いいえ。何でもありませんわ」
エレノーラは微笑んだ。
今度の微笑みは、令嬢の仮面ではなかった。
「——予定通りですわ」
嘘だった。
でも今度は——悪い嘘ではなかった。




