16.聖女の逆襲
「エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク様。国王陛下が、謁見の間にてお待ちです」
王宮の回廊で、衛兵の声がエレノーラの足を止めた。
心臓が、一拍だけ止まった。
(——国王陛下が、直接? 前の人生では、一度もなかった)
予定にない。計画のどこにもない召喚。
道が書き換わっている——クラウスの言葉が耳の奥で反響する中、エレノーラは微笑みを貼りつけて衛兵の後に続いた。
*
通された小謁見室——王族が私的な面会に使う部屋に、国王フリードリヒ・ロイ・グランディアが座していた。
鷹のような目。聡明さと威厳が、その眼差しに凝縮されている。
そして——その隣に。
「エレノーラ様……」
セレスティア・ミルフィーユが、涙に濡れた顔を上げた。
白い聖衣。祈りを捧げるように胸の前で組まれた両手。翡翠の瞳からは絶え間なく涙がこぼれ、金色の巻き髪が震える肩に散っている。
(——本気だ)
大茶会の時とは違う。あの時の涙は計算だった。今のこれは——計算の上に、本物の怒りを乗せている。追い詰められた者の、最後の一撃。
「エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク」
国王の声が室内に響いた。低く、感情を排した声。
「聖女セレスティアより、重大な訴えがある。聞きなさい」
「——はい、陛下」
エレノーラは膝を折り、頭を下げた。
セレスティアが口を開いた。途切れ途切れの声——だが、その一言一言が刃のように研がれていた。
「エレノーラ様は……第二王子殿下を陥れようとしておいでです。横領の証拠を捏造し、殿下の名誉を……私は何度もお止めしようとしました」
涙が白い聖衣の襟に染みを作る。
「大茶会で私の名誉を傷つけたのも、全ては殿下を孤立させるための布石。お願いです、陛下——どうか、真実をお確かめください」
セレスティアは崩れるように床に手をついた。嗚咽が小謁見室に響く。
エレノーラは微動だにしなかった。していられなかった。
(——まずい)
冷静に分析する頭と、焦りに支配されそうな心が、真っ二つに分かれている。
(この女——追い詰められて、むしろ強くなっている)
巧妙だった。エレノーラたちが帳簿を調べていた事実を逆手に取り、「捏造」へとすり替えている。しかも大茶会での敗北すら「被害者」の根拠にしている。
国王が口を開いた。
「ハーゼンベルク嬢。弁明はあるか」
エレノーラは顔を上げた。
国王の目が、こちらを射抜いている。どちらの味方でもない、公正な目。聖女の涙に同情はしている。だが、鵜呑みにもしていない。
「陛下。わたくしは明確に否定いたします」
声を制御した。震えさせるわけにはいかない。
「横領の証拠を捏造しているという事実はございません。公爵令嬢が王室の帳簿に手を加えることなど、仕組み上不可能です」
「けれど、あなたは帳簿を調べていたのでしょう?」
セレスティアの声が割り込んだ。涙ながらに——しかし、その言葉は狙い澄ましたように急所を突いていた。
「宰相府の資料室で、夜遅くまで。宰相補佐官のクラウス様と二人で」
エレノーラの指先が、一瞬だけ冷えた。
(監視されていた? いつから——)
「わたくしは学問として財務に関心があり——」
「陛下」
セレスティアがエレノーラの言葉を遮った。膝をつき、両手を胸に当て、国王を見上げる。その姿はまるで宗教画のようだった。
「どうかご調査ください。わたくしの言葉が真実か、エレノーラ様の言葉が真実か——神に誓って、わたくしは嘘をついておりません」
涙が光を受けて輝いた。
沈黙が降りた。
国王の表情は読めない。だがその沈黙の長さが、セレスティアの演技がどれほど効果的だったかを物語っていた。
(——負ける)
その考えが、氷のように脳裏を走った。
前世の知識にない局面。準備のない戦場。手札が足りない。
エレノーラが唇を開きかけた、その時——。
「陛下」
小謁見室の扉が開き、一人の男が入ってきた。
宰相グレゴール・フォン・ジークムント。恭しく一礼する。
「お取り込み中、失礼いたします。先日ご依頼の報告書が完成いたしました」
国王が頷き、差し出された革装丁の報告書を受け取った。聖女の訴えとは無関係の、ただの書類の受け渡し——のはずだった。
国王が報告書を開いた瞬間、その眉がわずかに動いた。
ほんの僅かな変化。だがエレノーラは見逃さなかった。ページをめくる速度が上がっていく。
国王は報告書を閉じた。
「……なるほど」
短い一言。だが声音が、先ほどまでと明らかに変わっていた。
「セレスティア」
「は、はい、陛下」
「そなたの訴え、確かに受け取った。——だが、判断には時間を要する」
セレスティアの顔に、かすかな動揺が走った。即座に調査が命じられると思っていたのだろう。
「ハーゼンベルク嬢、そなたも下がりなさい。追って沙汰する」
「……かしこまりました」
エレノーラは深く礼をした。
何が起きたのか、わからなかった。あの報告書は何だ。なぜ国王は判断を保留したのか。
ただ一つだけ確かなのは——助かった、ということだった。
*
小謁見室を出たエレノーラの足は、無意識に宰相府へ向かっていた。
心臓がまだ速い。指先がまだ冷たい。
宰相府の廊下で、マリアが待っていた。
「お嬢様! お顔が真っ青です。何が——」
「クラウス様はどちらに」
「執務室に……お嬢様?」
聞き終える前に、エレノーラは歩き出していた。
執務室の扉を開ける。ノックを忘れたことに、後から気づいた。
クラウスは机に向かっていた。書類から顔を上げ、エレノーラを見る。
その表情に、驚きはなかった。
「お帰りなさい」
まるで、待っていたかのような口調だった。
「……クラウス様」
「座ってください。紅茶を淹れます」
「紅茶はいりません」
エレノーラの声が、自分でも意外なほど鋭くなった。
「あの報告書。宰相閣下が国王陛下に提出した報告書——あなたが準備したものですわね」
クラウスの手が、ティーポットの上で止まった。
一瞬の沈黙。
それから、静かに頷いた。
「ええ」
「いつから」
「一週間前です。聖女が国王に直訴する可能性を想定し、対策を講じました。報告書には、聖女の訴えと矛盾する事実が記されています」
「わたくしには、一言も——」
「急を要しました」
クラウスの目が、まっすぐエレノーラを見た。
「あなたに相談する時間はなかった」
その言葉が——エレノーラの胸の奥で、小さな火花を散らした。
(勝手に——勝手に動いた? わたくしに相談もなく?)
怒りなのか、安堵なのか、それとも——わからない。わからないまま、感情だけが喉元まで込み上げてきた。
「……続きは明日、お話しいただけますか」
「エレノーラ嬢」
「今日は少し——整理する時間が必要ですの」
声が震えそうになるのを、必死で抑えた。
クラウスは何かを言いかけ——やめた。
「わかりました」
エレノーラは踵を返した。
扉を閉める直前、一度だけ振り返る。クラウスが、珍しく険しい顔をしていた。何かを堪えるような、あるいは——迷うような。
扉が閉まった。
廊下で壁に背をつけ、エレノーラは目を閉じた。
(あの人が、独断で、わたくしを守った)
怒りと感謝と、名前のつけられない感情が渦を巻いている。
(この感情は計画にない。こんなもの——予定に——)
「お嬢様、お顔が——」
マリアの声。エレノーラは目を開け、微笑んだ。
「大丈夫よ、マリア。予定通りですわ」
嘘だった。何一つ、予定通りではなかった。




