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15.月夜の共犯者

 深夜の宰相府。時計が午前一時を告げた。


 エレノーラは羽根ペンを置き、目頭を押さえた。数字の列がぼやけて、もう焦点が合わない。


「——少し休みましょう」


 クラウスの声に顔を上げると、彼はすでに椅子から立ち上がっていた。書き写した紙が何枚も机の上に広がっている。


「夜風に当たりませんか。この先の廊下にバルコニーがあります」


「……ええ、そうさせていただきますわ」


 燭台の灯りに目が慣れすぎて、廊下に出た瞬間、暗闇にたじろいだ。


 クラウスが先を歩く。足音がほとんどしない。長身の背中が闇の中を滑るように進んでいく。


 バルコニーに出ると、息を呑んだ。


 月が、出ていた。


 満月に近い白銀の光が、王宮の庭園を青白く染め上げている。噴水の水面が月光を受けて細かく光り、刈り込まれた植え込みが濃い影を落としていた。昼間の華やかさとはまるで違う、静謐な別世界。


「——綺麗」


 思わず令嬢言葉を忘れた。


 クラウスはバルコニーの手すりに腕を預け、庭園を見下ろしている。月光が銀灰色の髪を白く染めて、まるで最初からこの夜景の一部であるかのようだった。


「ここは人が来ません。宰相府の人間も、この時間にバルコニーに出る物好きはいない」


「物好きが二人もいますわね、今夜は」


「そうですね」


 小さく息を吐くような、ほとんど笑みとは呼べない気配。


 けれどエレノーラには、それがクラウスの笑い方だとわかるようになっていた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 夜風がドレスの裾を揺らし、庭園の木々がかすかにざわめく。遠くで夜鳥の声がした。


 月明かりの中に立つクラウスの横顔を、エレノーラはちらりと盗み見た。眼鏡のレンズに月が映っている。いつもの鋭い目元が、今夜は少しだけ柔らかく見えた。


(この人のこと、わたしはどれだけ知っているのだろう)


 前世では、クラウス・フォン・ジークムントは遠い存在だった。宰相の息子で、有能な補佐官で、社交界では近寄りがたい人物。エレノーラが毒で死んだ時、彼が何をしていたかも知らない。


 今世では——共犯者。秘密を共有し、計画を練り、深夜に二人で帳簿を睨む。それでも。


(わたしはこの人の、何を知っている?)


 気づけば、口が動いていた。


「クラウス様」


「何ですか」


「あなたはなぜ、わたくしを助けるのですか」


 風が止んだ。

 あるいは、そう感じただけかもしれない。


 クラウスはバルコニーの手すりに目を落としたまま、動かなかった。


「理由が必要ですか」


「あなたは合理的な方です。理由のない行動はしないはず」


 月明かりの下で、クラウスの表情は読みにくかった。いつも通りの無表情。いつも通りの、感情を見せない横顔。


「わたくしに協力することで、宰相府に利がある——それは理解しておりますわ。第二王子の横領を暴けば、宰相閣下のお立場も強くなる。けれど」


 エレノーラは少しだけ声を落とした。


「それだけでは説明がつかないこともありますわ。深夜まで帳簿に付き合うことも、わたくしが泣いた時に手を握ってくださったことも」


 言ってから、顔が熱くなった。なぜ今それを言ったのか、自分でもわからなかった。




 沈黙が降りた。




 長い沈黙だった。




 月が雲の端にかかり、バルコニーの明るさが少しだけ翳る。噴水の水音だけが、夜の底に細く響いていた。


 クラウスが口を開いたのは、エレノーラが諦めかけた頃だった。


「……あなたが『予定通りです』と微笑むたびに」


 声が低かった。いつもの淡々とした口調ではなく、もっと深い場所から搾り出すような。


「その目が泣いているからです」


 世界が、止まった。


 少なくともエレノーラにはそう感じられた。月も風も水音も、すべてが遠のいて、クラウスの言葉だけが鼓膜に残っている。


 クラウスは手すりに視線を落としたまま、静かに続けた。


「完璧に微笑んで、完璧に計画を立てて、完璧に実行する。その裏で——一人で全部を飲み込んでいる。前世の痛みも、未来への恐怖も、誰にも見せずに」


 眼鏡の奥の紺色の瞳が、初めてまっすぐにエレノーラを見た。


「あれを見て、放っておける人間がいるなら——そいつは目が節穴です」


 それだけ言って、クラウスは再び庭園に視線を戻した。


 表情はほとんど変わっていない。けれど耳の先が、月明かりの下でもわかるほどわずかに赤かった。


 エレノーラは——言葉が出なかった。


 何か返さなければと思った。令嬢らしい受け答えを。軽妙な切り返しを。「まあ、お上手ですこと」とでも笑えばいい。いつものように仮面を被って、微笑んでやり過ごせばいい。


 できなかった。


 喉の奥が詰まって、唇が震えて、目の奥が熱くて——何も、出てこない。


 初めてだった。

 エレノーラ・フォン・ハーゼンベルクが、言葉を失ったのは。


 前世で毒に倒れた時でさえ、最後まで思考は止まらなかった。大茶会で聖女を追い詰めた時も、アレクシスに蔑まれた時も、頭の中では常に次の手を考えていた。


 なのに今、この男のたった一言で、すべてが白紙になっている。


「……っ」


 声にならない音が漏れた。


 エレノーラは手すりを握りしめた。冷たい石の感触が、かろうじて体を支えている。


 見抜かれていた。

 全部。最初から。


 『予定通りです』と笑うたびに、その裏にある慟哭を——この人は、ずっと見ていた。


「エレノーラ嬢」


 クラウスの声が、静かに降ってきた。


「無理に返事をしなくていい」


 それだけだった。追い打ちも、期待も、何もない。ただ月明かりの中に、二人分の沈黙が静かに横たわっていた。


 どれほどの時間が過ぎたのか。

 月が雲から抜けて、バルコニーに再び白銀の光が満ちた。


「……ずるい方」


 ようやく絞り出した声は、令嬢のものではなかった。仮面の下の、ただの十七歳の声だった。


「また同じことを」


「だって、ずるいですもの」


 こんな——こんな不意打ちを仕掛けておいて、何食わぬ顔で月を見ている。この人はいつもそうだ。淡々と、無感情に、けれどどうしようもなく正確に、エレノーラの核心を射抜いてくる。


「……戻りましょうか。帳簿の続きがあります」


 クラウスが身を翻した。その横顔は、もう普段通りの無表情に戻っていた。まるで今の言葉など存在しなかったかのように。


「ええ……ええ、そうですわね」


 エレノーラは手すりから手を離した。指先が冷えている。なのに胸の奥だけが、どうしようもなく熱かった。


 クラウスの背中を追って廊下に戻る。


 その背中が資料室の灯りに照らされた瞬間——エレノーラは立ち止まった。


(待って)


 胸の奥で、何かが跳ねた。心臓とは違う。もっと深い場所。もっと柔らかい場所。


(……この感情は、計画にない)


 三年前に戻って、すべてを計算し尽くしたはずだった。復讐の手順。聖女の排除。第二王子の失脚。クラウスとの協力関係。すべて予定通り——のはずだった。


 なのに今、胸の中にあるこの名前のつけられない熱は、どの計画書にも書いていない。


 クラウスが振り返った。


「どうしました」


「——いえ。何でもありませんわ」


 微笑んだ。いつもの完璧な令嬢の微笑み。


 けれど今夜、その微笑みの下にあるものが——少しだけ、変わってしまったことを。


 エレノーラは、もう否定できなかった。

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― 新着の感想 ―
二人の関係が、月明かりの中で少しずつ進んでいく様子が表現されていてとても素敵でした。 満月にほど近い月は夜中ですとちょうど真上のほうに、リアル地球日本では、あるのですが、情景が浮かんでくる場面でした。
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