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14.派閥の罅

 午後の王宮庭園で、エレノーラは三通の招待状を手にしていた。


 差出人はすべて異なる。宛先もすべて異なる。だが仕掛けたのは、すべてエレノーラ・フォン・ハーゼンベルクただ一人。


「マリア、紅茶の準備をお願い。お客様が三人——いえ、別々にいらっしゃいますわ」


「かしこまりました。……お嬢様、その笑顔、少し怖いです」


「あら、褒め言葉として受け取っておきますわ」


 今朝、クラウスから届いた封書には、第二王子派の貴族たちの最新の資金の流れが簡潔にまとめられていた。余白に一言——「必要な駒はこちらで押さえました」。


(さすが、仕事が早い。あとはわたしの仕事ね)


 帳簿の分析はクラウスが。社交界の切り崩しはエレノーラが。役割は最初から決まっていた。


 深夜の資料室で見つけた聖女への不明な資金の流れ——あの発見が、二人の作戦を加速させている。



      *



 最初の客は、ベルクハルト伯爵だった。


 五十代半ば、太い首に汗を浮かべた男が、庭園の東屋に姿を見せた。第二王子アレクシスの派閥で資金の取りまとめを担う人物。


「お忙しい中、お越しいただきありがとうございます。伯爵閣下」


 エレノーラは穏やかに微笑み、椅子を勧めた。


(この男は前世で、二年後に不正融資が発覚して爵位を剥奪される。今はまだ誰も知らない——わたし以外は)


「ハーゼンベルク公爵令嬢から直々にお招きとは、光栄ですな。して、ご用件は?」


「率直に申しますわ」


 エレノーラは紅茶のカップを置いた。音が庭園の静寂に小さく響く。


「伯爵閣下。北部ブレーメン領への融資事業について、いくつか気になる数字がございまして」


 ベルクハルト伯爵の手が止まった。


「……何のことかな」


「第二王子殿下の名目で行われた融資のうち、約三割が領地に届いていないようですの。差額はどこへ消えたのでしょう?」


 伯爵の額に、新しい汗が浮いた。


「それは……何かの間違いでは」


「ええ、間違いだといいのですけれど」


 エレノーラは微笑んだまま続けた。声は花を愛でるように穏やかだった。


「横領が露見したら、連座しますわよ? 伯爵閣下ほどの方が、そのような末路を辿るのはあまりに惜しいと存じまして」


 沈黙。


 蜂が花壇の薔薇の上を飛んでいる。どこまでも平和な午後の庭園。


「……何が望みだ、公爵令嬢」


「望み? わたくしは何も。ただ、賢い方には賢い選択をしていただきたいだけですわ」


 ベルクハルト伯爵は紅茶を飲み干し、無言で席を立った。


 その背中が東屋を離れるのを見届けて、エレノーラは小さく息を吐いた。


(一人目。反応は上々。三日以内に動く——前世でもこの人は保身が早かった)


 マリアが素早くカップを下げ、新しい茶葉を用意する。エレノーラは水差しの水で喉を潤し、次の仮面を選んだ。



      *



 二人目は午後三時。


 レーヴェンシュタイン子爵。三十代の痩せた男で、アレクシス派の中では情報を扱う役回りだった。


(この男は用心深い。直接的な脅しは逆効果。別の手でいく)


「子爵閣下、先日の大茶会では大変でしたわね。聖女様の件、驚かれたのではございませんこと?」


 世間話から入った。季節の花の話、社交界の噂話。子爵は警戒しながらも、少しずつ口が軽くなっていく。


「実は——」


 エレノーラは声を落とした。内緒話をするように、少しだけ身を乗り出す。


「宰相府が来月の年次財務報告に向けて、いくつかの勘定を精査しているという話がございまして」


 子爵の目が泳いだ。


「王室直轄領の支出にいくつか不審な点があるとか。もし——仮にですけれど——第二王子殿下の周辺から不正が見つかった場合、派閥の方々にも調査が及ぶでしょう」


「……それは、確かな情報か」


「さあ。わたくしはただの公爵令嬢ですもの、宰相府の内部事情など存じませんわ」


(嘘。クラウスから聞いた。でもこの男には出所を悟らせない)


 レーヴェンシュタイン子爵の顔色が、目に見えて悪くなった。


「子爵閣下。わたくし、あなたのような聡明な方には害が及ばないことを心から願っておりますの」


 最後に添えた微笑みが決定打だった。子爵は曖昧に頷いて席を辞した。


(二人目。この人は今夜中に第二王子との距離を測り直すはず。前世では、追い詰められた時に真っ先に逃げたのもこの人だった)



      *



 三人目はヘルマン男爵。


 大柄で声の大きい武官上がりの貴族で、アレクシス派では武力を背景にした実行部隊のような存在だった。


 この男には、知略ではなく情で攻めた。


「男爵閣下のご息女、今年の社交界デビューでしたわね。とても素敵なお嬢様でしたわ」


「おお、見てくれたか。あれは自慢の娘でな」


(前世では、この娘が父親の連座で社交界を追放される。十六歳の少女が、父の罪で全てを失う)


 胸が痛んだ。前世の記憶は、時に刃のように切りつけてくる。


「男爵閣下。お嬢様の将来のために——今のうちに、ご自身の立場を見直されてはいかがでしょう」


 直截的な言葉に、ヘルマン男爵の表情が変わった。


「どういう意味だ」


「第二王子殿下の周辺で、近いうちに大きな動きがあるかもしれません。巻き込まれれば、ご一家すべてに影響が及びます」


 男爵は黙り込んだ。

 エレノーラはその沈黙に、もう一言だけ添えた。


「わたくしは、罪のない方が傷つくのを見たくないだけですの」


(これは本心。前世で、何も知らずに巻き込まれた人たちを覚えている。あの少女の泣き顔を、わたしはまだ忘れていない)


 ヘルマン男爵は深く頭を下げて去った。その足取りは来た時より重かった。けれど、迷いの中に希望のようなものが見えた。この人は間に合う。間に合わせたい。



      *



 夕暮れ。


 三人との面会を終えたエレノーラは、マリアが片付ける食器の音を聞きながら、東屋の柱に背を預けた。


(——疲れた)


 微笑みを貼り続けた頬が強張っている。人の弱みを突くのは、思った以上に消耗する。たとえそれが必要なことだとわかっていても。


 手袋を外すと、爪が掌に食い込んだ痕が残っていた。笑顔の裏で、ずっと拳を握りしめていたらしい。


「お嬢様、お手紙です」


 マリアが差し出した封書を開くと、クラウスの几帳面な筆跡が並んでいた。


「『ベルクハルト伯爵が今夕、第二王子との定例会合を欠席。レーヴェンシュタイン子爵は王都の別邸に戻った模様。情報は引き続き追います。——K』」


 もう動き始めている。


 エレノーラは手紙を胸に当て、小さく笑った。


(予定通りです)


 そう心の中で呟いた時、ほんの少しだけ——あの几帳面な筆跡が、温かく感じられた。

 手紙の最後に、小さな追伸があった。


「『追記。本日の夜、資料室を使います。帳簿の続きを』」


 エレノーラは手紙を丁寧に折り畳み、ドレスの内ポケットにしまった。


(……今夜も、二人で)


 その思いが浮かんだことに、自分で少し驚いた。



      *



 同じ夕暮れ。


 王宮の東翼にある第二王子の私室では、空気が張り詰めていた。


「ベルクハルトが来ない? どういうことだ」


 アレクシス・ロイ・グランディアが椅子の肘掛けを叩いた。金の髪が乱れ、碧い目に苛立ちが渦巻いている。


「レーヴェンシュタインも急用で欠席だと? 昨日まで何の問題もなかっただろう!」


 傍に控えた側近が、おそるおそる口を開いた。


「殿下、ヘルマン男爵も……本日の訓練視察を辞退されました」


「何だと——」


 アレクシスは立ち上がった。


 三人。同じ日に三人が、それぞれ別の理由で姿を消した。偶然にしては——。


「……裏切り者がいる」


 低い声だった。怒りではない。それよりもっと冷たい、疑心の声。


「誰かが俺の派閥を切り崩している。だが、誰だ——」


 夕陽が窓から差し込み、第二王子の影を長く伸ばしていた。


 その影が、わずかに震えているように見えたのは——きっと、光のせいだけではなかった。

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