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13.帳簿は語る

 宰相府の資料室は、夜になると別の顔を見せる。

 燭台の灯りが書架の背表紙を照らし、古い紙とインクの匂いが静かに満ちていた。


「これが過去五年分の王室直轄領の収支報告書です」


 クラウスが革装丁の帳簿を三冊、テーブルに積み上げた。どれも分厚い。


「宰相府の権限で閲覧許可を取りました。通常、外部の者が目にすることはできない資料です」


「……ありがとうございます」


 エレノーラは手袋を外し、最初の一冊を開いた。


(これだ。前の人生では、絶対に届かなかった場所)


 一人では、公爵家の資料室に忍び込んで帳簿の写しを取るのが精一杯だった。王室直轄領の収支など、夢のまた夢。


 クラウスと組んだからこそ、ここにいる。


「では、始めましょう」


 クラウスが向かいの椅子に座り、自分の帳簿を開いた。


 二人の間に沈黙が降りる。ページをめくる音と、羽根ペンが紙を走る音だけが、資料室に響いた。



      *



 一時間が過ぎた。


「クラウス様、こちらを」


 エレノーラが帳簿の一ページを指差した。


「三年前の北部領の修繕費。計上額が実際の工事記録と合いません。わたくしが以前写した帳簿では、ここに差額がありました」


「見せてください」


 クラウスが身を乗り出した。

 二人の顔が近づく。燭台の灯りの中、銀灰色の髪がエレノーラの視界をかすめた。


(——近い)


「なるほど。差額は約二千金貨。修繕費として計上されているが、実際の工事費はその半額以下」


 クラウスの指が数字をなぞる。長い指だった。


「差額の行き先を追えば、横領の流れが見える」


「ええ。これを三年分積み上げれば、偶然では説明できない金額になりますわ」


 クラウスが顔を上げた。至近距離で目が合う。

 エレノーラは反射的に身を引いた。


「……失礼」


「いえ」


(顔が熱い。集中しなさい、エレノーラ)


 二時間目。三冊目の帳簿に入った。

 クラウスが新しい紅茶を淹れた。資料室の片隅に、小さな湯沸かしが置いてある。


「ここにも常備してらっしゃるのですね」


「夜の作業が多いので」


 温かいカップを受け取る。指先の疲れが少し和らいだ。


 向かい合って紅茶を飲む。資料室の燭台が揺れて、二人の影が壁に伸びた。



      *



「エレノーラ嬢」


「はい」


「あなたは一人で全てを抱え込む癖がある」


 唐突だった。

 エレノーラはカップを持ったまま、固まった。


「そうでしょうか」


「そうです。見ていればわかります」


 クラウスは紅茶を一口飲み、続けた。


「大茶会の準備も、証拠集めも、侍女の懐柔も。すべて自分一人で計画し、実行している。今こうして二人で作業していても、先に全体像を把握しようとするのはいつもあなたの方だ」


「……それは、効率の問題ですわ」


「違う。信頼の問題です」


 エレノーラは言葉に詰まった。


「前世で一人だったから、人に頼ることを知らない。違いますか」


 図星だった。


 この男は時々、こうして容赦なく核心を突いてくる。


「……否定はしませんわ」


「今は二人です。使えるものは使ってください。私を」


 淡々とした口調だった。感情の起伏がほとんどない。


 なのに——その言葉が、どれほど重いか。


「……肝に銘じますわ」


 エレノーラは小さく微笑んで、帳簿に視線を戻した。


 目の奥が少しだけ熱かったが、今度は泣かなかった。



      *



 三時間目。

 最後の帳簿の終盤に差しかかった時、エレノーラの指が止まった。


「クラウス様」


「何か見つけましたか」


「これを」


 エレノーラが指差したのは、帳簿の末尾近くに記された一連の支出だった。


「聖都教会への寄進金。年に四回、定期的に支払われています」


「教会への寄進は珍しくない」


「ええ。ですが、金額をご覧ください」


 クラウスが帳簿を覗き込んだ。


 眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。


「——多すぎる」


「通常の寄進金の八倍です。しかも、支出の名目が毎回異なります。『修繕費』『慈善基金』『祭事準備金』——」


「名目を分散させて、一件あたりの金額を目立たなくしている」


 エレノーラは頷いた。


「そして、この支出が始まった時期——」


「二年前。聖女がこの国に現れた時期と一致する」


 沈黙が落ちた。


 エレノーラの頭の中で、歯車が噛み合う音がした。


 前の人生では知らなかった。知りようがなかった。一人では、こんな場所の帳簿を見ることすらできなかったのだから。


「聖女への不明な資金の流れ、ですか」


 クラウスが呟いた。紅茶のカップをゆっくりと置く。


「横領だけではない。第二王子は聖女に——あるいは聖女を通じて、どこかに金を流している」


「なぜ教会を経由するのでしょう」


「それを突き止める必要がある」


 クラウスが羽根ペンを取り、白紙に数字を書き写し始めた。その横顔は、先ほどまでの穏やかさが消え、鋭い刃のようだった。


「エレノーラ嬢、これは横領より大きな話になるかもしれない」


「ええ、存じておりますわ」


 時計が深夜零時を打った。

 燭台の蝋燭が短くなり、二人の影が揺れている。


 エレノーラは書き写した数字の列を見つめた。

 横領の証拠は揃いつつある。けれど、その奥に——もう一つ、暗い扉が見えていた。


 聖女セレスティアに流れる不明な資金。

 その金は、一体どこへ消えているのか。

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