表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/36

12.想定外の変数

 それは、五日後に起きた。


 午前の社交サロンから戻ったマリアが、息を切らせて駆け込んできた。

 その顔を見た瞬間、エレノーラの背筋が凍った。


「お嬢様——聖女が動きました」


「……話して」


「セレスティア様が第二王子殿下に泣きついたそうです。『エレノーラ様に陥れられた』と。殿下は激怒され——」


 マリアが唇を噛んだ。


「——エレノーラ様の社交界追放を、王宮に進言なさるおつもりだと」


 空気が、変わった。


(早い——早すぎる)


 エレノーラは窓辺に立ったまま動けなかった。


 前の人生の記憶を、必死で辿る。聖女がアレクシスに泣きつくのは、もっと後だったはずだ。大茶会の三ヶ月後、秋の舞踏会の直前——。


 それが、五日で起きた。


「お嬢様?」


 マリアの声が遠い。

 エレノーラは自分の手を見下ろした。震えている。


(未来が変わった。クラウスが言った通り——道が書き換わっている)


 前世の記憶はもう、信じられない。


 三年分の「答え」を握っていたはずの手が、何も持っていないことに気づいた瞬間——恐怖が、喉元まで迫り上がってきた。


「マリア、少し一人にして」


「ですが——」


「お願い」


 マリアが静かに下がった。

 扉が閉まる音を聞いてから、エレノーラは椅子に崩れ落ちた。



      *



 窓の外では、庭師が薔薇の手入れをしている。


 平和な午後の光景。何も変わらない日常。


 なのに、エレノーラの体は震えが止まらなかった。


(——怖い)


 認めたくなかった。でも、怖い。


 未来を知っていることだけが、武器だった。知略も度胸も、すべて「結末を知っている」という確信の上に成り立っていた。


 その土台が、崩れた。


 不意に——記憶が蘇る。


 冷たい床。

 体中に回る毒の、焼けるような感覚。指先から感覚が消えていく。誰も来ない。誰も助けに来ない。天井の染みを数えながら、ああ、こうやって死ぬのか、と思った。


 あの孤独。あの絶望。


「——っ」


 エレノーラは自分の腕を抱いた。


 爪が肌に食い込む。現実に繋ぎ止めるために。ここは三年前だ。まだ死んでいない。まだ、生きている。


 でも——次に何が起きるか、もうわからない。


「失礼します」


 ノックもなく、扉が開いた。

 エレノーラは反射的に顔を上げ、微笑みを貼りつけようとした。令嬢の仮面を——。


 クラウスだった。


 銀灰色の髪。眼鏡の奥の紺色の瞳。その目が、一瞬でエレノーラの状態を読み取った。


「マリアから聞きました。聖女の動きが想定より——」


「大丈夫です」


 声が裏返った。

 自分でもわかるほど、酷い嘘だった。


 クラウスは何も言わなかった。

 扉を閉め、静かに近づいてきた。エレノーラの前に膝をつき——。


 手を、握った。


 冷たいエレノーラの指を、温かい手が包み込む。

 力強くはない。ただ、確かに、そこにある温もり。


「……大丈夫です、と申しましたのに」


「大丈夫ではない顔をしている」


 静かな声だった。責めるのでもなく、憐れむのでもなく。ただ事実を述べるように。


 エレノーラの目から、涙がこぼれた。


 止められなかった。前の人生で死んだ時も泣かなかったのに。大茶会で聖女の嘘を暴いた時も、アレクシスに蔑まれた時も、平気な顔をしていたのに。


 この手の温かさが——堰を壊した。


「……怖いのです」


 絞り出した声は、令嬢のものではなかった。仮面の下の、十七歳の少女の声だった。


「未来が変わり始めています。わたくしの知識は、もう地図にならない。次に何が起きるかわからない——」


 言葉が途切れた。

 クラウスの手が、少しだけ強くなった。


「エレノーラ嬢」


「……はい」


「あなたは前世で、一人で戦った」


「……ええ」


「今は違う」


 エレノーラは顔を上げた。

 涙で滲んだ視界の中、クラウスの瞳がまっすぐこちらを見ていた。


「地図がなくなったのなら、二人で道を作ればいい。それだけのことです」


 合理的な言葉だった。

 感情を込めた励ましでも、甘い慰めでもない。ただ、論理的に正しいことを述べただけ。


 それなのに——胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。


「……ずるい方ですわね」


「何がですか」


「なんでもありません」


 エレノーラは空いた手で涙を拭った。

 握られた手は、離さなかった。離したくなかった。


「……社交界追放の件、対策を考えなければなりませんわね」


 声がまだ少し震えていた。けれど、背筋を伸ばした。


「すでに三つほど手は打てます」


 クラウスが立ち上がり、懐から折り畳んだ紙を取り出した。


「一つ目は私が。宰相府には王族の進言を差し戻す権限がある」


「……来る前にもう考えていたのですね」


「当然です。報告を聞いた時点で、あなたがここで震えていることは想定していました」


(この人は——本当に、ずるい)


 エレノーラはようやく、小さく笑った。

 泣いた直後の、不格好な笑顔だった。


 クラウスの手が離れた。

 指先に残る温もりを、エレノーラはそっと握り込んだ。


 未来が変わり始めている。

 もう「台本通り」ではない——けれど、隣に誰かがいるという事実が、思っていたよりもずっと、心強かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ