11.嵐の前の紅茶
大茶会から三日。
エレノーラ・フォン・ハーゼンベルクの名は、社交界の隅々にまで響き渡っていた。
「ハーゼンベルク公爵令嬢が聖女の嘘を暴いたそうよ」
「証人まで揃えていたんですって。見事な手際だわ」
「王妃殿下が直々に調査を命じたとか——」
廊下を歩くだけで、囁きが追いかけてくる。
令嬢たちが微笑みながら道を空け、以前は素通りしていた夫人たちが会釈を送ってきた。
(——気持ち悪い)
三年前、前の人生でも同じ顔ぶれだった。手のひらを返すのが早い人々。この人たちは風向き次第でいくらでも変わる。
エレノーラは完璧な微笑みを崩さないまま、宰相府の廊下を進んだ。
目指すのは、奥まった一室。
控えめなノックに、低い声が応えた。
「どうぞ」
扉を開けると、紅茶の香りが漂ってきた。
ダージリンのセカンドフラッシュ。甘く華やかな、夏摘みの香り。
クラウスは窓際の執務机から立ち上がり、眼鏡の奥の紺色の瞳でエレノーラを見た。
「時間通りですね」
「ええ。遅刻する理由がありませんもの」
執務室は簡素だった。書棚と机、応接用の小さなテーブル。余計な装飾は一切ない。この男らしい、とエレノーラは思う。
クラウスはすでに湯を沸かしていた。
手慣れた所作でティーポットを温め、茶葉を量り、静かに湯を注ぐ。その一連の動きに無駄がない。
(宰相補佐官が自分で紅茶を淹れるなんて、他の貴族が見たら目を剥くでしょうね)
「砂糖は」
「入れませんわ」
「覚えました」
差し出されたカップを受け取る。
指先がかすかに触れた。クラウスは気にした様子もなく、自分のカップを手に取って向かいの椅子に腰を下ろした。
一口。
完璧な温度、完璧な濃さ。
「——美味しいですわ」
「それは良かった」
素っ気ない返事。だが、カップを傾ける横顔がわずかに和らいだのを、エレノーラは見逃さなかった。
(……この人、褒められると表情が柔らかくなる。自覚はないんでしょうけど)
*
「さて」
クラウスがカップを置いた。
紺色の瞳が、鋭さを取り戻す。
「大茶会の成果は上々です。王妃殿下の調査命令により、聖女の行動は当面制限される。しかし——」
「それだけでは足りませんわ」
エレノーラは紅茶に視線を落とした。琥珀色の水面に、自分の顔が映る。
「聖女を抑えただけでは何も変わりません。本丸は第二王子です」
「同意します。次は何を?」
エレノーラは顔を上げた。
「第二王子の横領を、国王陛下の目に届ける方法を考えましょう」
クラウスの眉がわずかに上がった。
眼鏡の奥に、見慣れた光が灯る。興味を引いた時の、あの光。
「面白い。具体案は?」
「ありますわ。三つほど」
エレノーラはカップを置き、指を一本立てた。
「一つ目。財務監査院への匿名告発。証拠は以前わたくしが写した帳簿の写しを添えます。ですが、これは下策です。匿名では握り潰される可能性が高い」
二本目の指。
「二つ目。国王陛下に直接上奏できる立場の方——たとえば宰相閣下を経由して報告する。ですがこれも、宰相閣下を巻き込むリスクがあります」
三本目。
「三つ目。横領の証拠を、国王陛下が自ら発見する状況を作る」
クラウスが薄く笑った。
それは感心とも皮肉ともつかない、彼特有の笑みだった。
「三つ目ですね」
「ええ、存じておりますわ。あなたもそう考えると思っておりました」
「国王陛下は来月、年次の財務報告を受ける。その席で『偶然』不自然な数字が目に留まるように仕込む——」
「宰相府の権限があれば、報告書の並び順を調整することは可能ですわね」
クラウスが眼鏡を押し上げた。
「興味深い」
出た。この人の最上級の褒め言葉。
(……悔しいけど、嬉しい)
二人の間で、紅茶の湯気が静かに立ち昇っていた。
窓から差す午後の陽光が、クラウスの銀灰色の髪を柔らかく照らしている。
「スケジュールを逆算しましょう」
クラウスが羽根ペンを取り、白紙を引き寄せた。
「年次財務報告は五週間後。報告書の原案が上がるのが三週間後。つまり、それまでに——」
「横領の証拠を、監査院が『自主的に』発見した形に整える必要がありますわ」
「そのためには、監査院の中に協力者が要る」
「心当たりは?」
「一人。清廉で知られる副監査官がいます。彼は第二王子派ではない」
エレノーラは頷いた。駒が揃い始めている。
「わたくしは貴族社交界の側面から動きます。横領で損をしている領地の貴族たちに、それとなく不満の種を蒔きましょう」
「世論の地ならし、ですか」
「ええ。証拠が出た時に『やはり』と思わせる空気を作っておくのです」
クラウスがペンを止め、エレノーラを見た。
「あなたと組むと、仕事が早い」
不意打ちだった。
この男は時々、何でもない顔でこういうことを言う。
「……お褒めに預かり光栄ですわ」
(心臓がうるさい。やめてほしい)
カップに残った紅茶を飲み干す。もう冷めているはずなのに、喉が熱かった。
「もう一杯いかがですか」
「……いただきますわ」
クラウスが立ち上がり、再び湯を沸かし始めた。
その背中を見ながら、エレノーラはふと思った。
こうして誰かと計画を練ることが、こんなに心地よいとは知らなかった。
前の人生では、いつも一人だった。一人で考え、一人で怯え、一人で死んだ。
今は——。
「ただし」
クラウスが振り返った。
その目が、いつもと違う色を帯びていた。
「一つだけ想定外の変数があります」
「変数?」
「あなたの行動が、すでに未来を変え始めている可能性です」
エレノーラの手が止まった。
「大茶会での公開暴露。あれは前世でも起きたことですか?」
「——いいえ」
「では、相手の行動も変わる。前世の記憶が地図だとすれば、もう道が書き換わり始めている」
静かな声だった。
けれどその一言が、エレノーラの胸の奥に冷たい風を吹き込んだ。
未来が変わる。それは望んだことのはずなのに——地図のない荒野に放り出されたような心細さが、指先から忍び寄ってきた。




