10.茶会の断罪
王妃主催の大茶会。それは社交季の頂点に位置する催しだった。
大広間には百を超える貴族が集い、銀の燭台が天井から幾重もの光を落としている。薔薇と白百合が飾られた長卓に、最上級の茶器が並ぶ。
エレノーラは入口に立ち、深く息を吸った。
(今日で、第一幕を終わらせる)
淡い藤色のドレスに身を包んだエレノーラが会場に入ると、いくつかの視線が集まった。花瓶事件、ドレス事件——この二ヶ月で、エレノーラ・フォン・ハーゼンベルクの名は以前とは全く異なる意味を持ち始めていた。
*
茶会が始まって一時間ほど経った頃だった。
「王妃様、どうかお聞きください……!」
その声は会場の中央から響いた。セレスティアだった。
白い聖女の正装に身を包んだ彼女が、王妃の前に跪いている。大粒の涙が頬を伝い、細い肩が震えていた。完璧な、あまりにも完璧な被害者の姿。
「エレノーラ様に……脅されているのです。証拠を捏造すると。私の名誉を潰すと。怖くて、怖くて誰にも言えなくて……」
会場がざわめいた。
エレノーラの背筋に冷たいものが走った。
(——来た)
前世と同じだ。公開の場での告発。聖女の涙。そして——
「やはりそうか!」
アレクシス第二王子が席を立った。金の髪が揺れ、整った顔が怒りに歪んでいる。
「以前から聖女殿に嫌がらせをしていたと聞いている。エレノーラ、弁明があるなら申してみよ!」
貴族たちの視線が一斉にエレノーラに集中した。
ささやき声が波のように広がる。「まさか公爵令嬢が」「でも聖女様があそこまで」「涙が止まらないわ、お可哀想に」——。
前世ではここで全てが崩れた。弁明の機会すら与えられず、聖女の涙の前にエレノーラの言葉は全て虚しく消えた。
だが今世のエレノーラは、微笑んでいた。
*
ゆっくりと椅子から立ち上がる。ドレスの裾が石の床に柔らかく広がった。
「王妃様。お騒がせして申し訳ございません」
エレノーラの声は穏やかだった。震えも怒りもない。ただ凪いだ水面のように静かな声。
「セレスティア様のお訴えは大変深刻なもの。だからこそ——事実に基づいてお話しさせていただきたく存じます」
王妃が僅かに頷いた。銀髪の女性は感情を表に出さず、ただ「続けなさい」とだけ言った。
エレノーラは懐から一通の書類を取り出した。
「まず一つ目。一ヶ月前の花瓶事件についてです」
会場が静まる。
「セレスティア様は『エレノーラが花瓶を割った』とお訴えになりました。しかし」
書類を広げる。
「その時間、私は隣室で三名の令嬢と共におりました。こちらがその証言の記録です。署名もございます」
ざわめき。セレスティアの涙が、一瞬だけ止まった。
「続いて二つ目」
エレノーラは次の書類を取り出した。
「先日の茶会にて、セレスティア様付きの侍女が染料の入った小瓶を所持し、私のドレスに振りかけようとした件です」
会場がさらに静まる。
「その場にいた二名の証人の証言がございます。侍女は現行犯で取り押さえられ、城の衛兵に事情を聴かれております」
アレクシスの顔に動揺が走った。
「そ、それは侍女が独断で——」
「殿下」
エレノーラは静かに、しかし確かな声で遮った。
「三つ目がございます」
最後の書類。マリアが命がけで手に入れたもの。
「こちらは、セレスティア様が侍女に宛てた指示書の写しです」
会場の空気が凍った。
「花瓶事件の前日に『エレノーラの通る時刻に花瓶を割り、彼女の仕業に見せかけること』——染料事件の前夜に『白い液体を用意し、茶会で実行すること』。いずれもセレスティア様の直筆です」
沈黙が、大広間を満たした。
百人を超える貴族が、息を呑んでいた。
セレスティアの顔から血の気が引いていくのが見えた。涙はとうに乾き、唇が微かに震えている。
「う、嘘です……」
その声には、もう力がなかった。
「そんなもの、捏造に決まっています! 私は何も——」
「セレスティア様」
エレノーラは一歩前に出た。穏やかに。静かに。だがその瞳には、前世の全ての痛みが宿っていた。
「嘘は、積み重ねるほど重くなりますのよ」
会場のどこかで、小さく息を呑む音がした。
*
アレクシスが叫んだ。
「何かの間違いだ! 聖女がそんなことをするはずがない! この書類こそ偽造ではないのか!」
だが、誰も王子に賛同しなかった。
花瓶事件の証人たちが、静かに頷いている。茶会で侍女の小瓶を目撃した令嬢たちも。証拠は一つではない。点と点が繋がり、線になっている。一つを偽造だと叫んでも、三つ全てを否定することはできない。
アレクシスは周囲を見回した。味方を探すように。だが目が合った貴族たちは、一人また一人と視線を逸らした。
「殿下」
王妃の声が、静かに響いた。
「お座りなさい」
アレクシスの肩が震えた。母である王妃の声に逆らうことはできない。唇を噛みしめ、ゆっくりと席に戻った。
王妃は書類に目を通し、長い沈黙の後、口を開いた。
「……調査が必要ですね」
冷たく、平坦な声だった。だがその一言に含まれる重みを、この場にいる全員が理解していた。
王妃主催の調査。それは社交界において、事実上の有罪宣告に等しい。
セレスティアの顔が蒼白を通り越して、紙のように白くなった。
*
茶会は形式的に続いていた。だが空気は完全に変わっていた。
聖女の周囲から人が消えている。先ほどまで彼女の近くにいた令嬢たちが、さりげなく距離を取っていた。代わりにエレノーラの元には、一人、また一人と貴族が挨拶に訪れる。
エレノーラは一人一人に穏やかに応じながら、会場の隅に視線を向けた。
クラウス・フォン・ジークムントが、壁際の椅子に座っていた。
銀灰色の髪。端正な横顔。手にした磁器のカップから、紅茶の湯気が細く立ち上っている。
まるでこの騒動など知らぬかのように、静かに紅茶を飲んでいる——ように見える。だがエレノーラと目が合った瞬間、クラウスは小さく頷いた。
ほんの僅かな動き。他の誰にも気づかれないほどの。
(よくやった、という目だ)
エレノーラの胸の奥で、何かが温かくなった。
前世では、この大茶会が転落の始まりだった。聖女の涙の前に全てを奪われ、孤立し、そして——死んだ。
今、同じ場所に立っている。同じ大広間で、同じ貴族たちに囲まれて。
だが全てが違う。
エレノーラは窓の外に目を向けた。夕暮れの空が紫と橙に染まっている。前世の自分が見ることのできなかった景色だ。
(これで、ひとまずは——)
藤色のドレスの裾を整え、最後の紅茶に口をつける。温かかった。
会場を辞す間際、エレノーラは一度だけ振り返った。蒼白のまま席に座り続けるセレスティアの姿が見えた。聖女の手は膝の上で固く握りしめられている。
あの目。あれは怯えではない。
あれは——怒りだ。
(第一幕、終了です。——でも本当の戦いは、ここからですわ)
大広間の扉が静かに閉まった。その向こうで、新しい夜が始まろうとしていた。
第一章 了




