1.死んだ日のことを覚えている
喉が、焼けている。
内臓を掻きむしるような痛みが、波のように押し寄せては引いていく。視界がぼやけて、天井の紋様がゆっくりと滲んだ。
——ああ、毒か。
わかっていた。今朝の紅茶の味が、ほんの少しだけ苦かったこと。それでも飲んだのは、もう抗う気力が残っていなかったからだ。
「エレノーラ様、お加減は——」
侍女の声が、ひどく遠い。
マリア。私の紅茶を淹れてくれた、信頼していた侍女。その目が泳いでいるのが見える。涙を堪えているのか、罪悪感なのか。どちらでもいい。もう、どうでもいい。
薄れていく意識の中で、最後に浮かんだのは婚約者——いいえ、元婚約者の顔だった。
第二王子アレクシス・ロイ・グランディア。
あの日、大広間の真ん中で、彼は笑いながら言った。
『エレノーラ・フォン・ハーゼンベルク。貴様との婚約を破棄する。聖女セレスティアへの度重なる嫌がらせ、もはや看過できぬ』
身に覚えのない罪。
弁明の機会すらなかった。周囲は嘲笑し、聖女は涙を流し、誰一人、私の言葉に耳を傾けなかった。
父は頭を下げることしかできず、私は爵位も立場も失い、王宮の片隅に押し込められた。そして今日——毒。
——本当は、全部わかっていた。
いずれこうなる運命だと理解していた。
でも、袋の中のネズミには、どうすることもできなくて。
二十年の人生だった。
何一つ、自分の意志で選べなかった人生だった。
——意識が、落ちる。
*
鳥の声がした。
それが最初に認識したものだった。窓の外の鳥の声。朝の光。柔らかい寝台の感触。
痛みが、ない。
「……え?」
跳ね起きた。
両手を見る。細い指。傷のない肌。毒で黒ずんだ爪の痕もない。
鏡。
部屋の隅に立てかけられた姿見に駆け寄る。映っているのは——十七歳の私。三年前の、まだ何も失っていない頃の私。
「……戻った」
声が震えた。
膝から力が抜けて、鏡の前に崩れ落ちる。両手で顔を覆った。涙が一筋、指の隙間を伝う。
喉が焼ける感覚を覚えている。
冷たい床の感触を覚えている。
誰にも助けてもらえなかった絶望を、覚えている。
「お嬢様? お目覚めですか?」
扉の向こうから、マリアの声。
——マリア。
私に毒を盛った女。でもまだこの時間軸では、何もしていない。聖女に買収されるのは一年半後。弟の治療費と引き換えに。
涙を拭った。
立ち上がった。
鏡の中の十七歳の少女が、まっすぐにこちらを見ている。三年前の私にはなかった目をしている。
「——泣くのは、これで最後」
そう呟いて、唇の端を持ち上げた。
「マリア、入っていいですよ」
「はい。お嬢様、本日のご予定ですが——」
「ええ、聞いているわ」
マリアが差し出した予定表に、見覚えのある文字列があった。
『王宮夜会への招待状』
心臓が跳ねた。
これは——あの夜会だ。
聖女セレスティアが王宮に初めて姿を現す、春の夜会。あの夜、彼女はバルコニーで「偶然」アレクシスと出会い、運命的な恋が始まった——というのが公式の筋書き。
でも私は知っている。
あれは偶然ではなかった。聖女が事前に王子の動線を調べ、計算しつくした「邂逅」だった。前世の三年間で、侍女たちの噂からようやく辿り着いた真実。
あの時は遅すぎた。でも今なら——。
「マリア」
「はい、お嬢様」
「この夜会のドレス、少し華やかなものに変えてちょうだい」
「え? お嬢様がそんなことをおっしゃるなんて……いつもは地味な方がいいと」
「気分を変えたいの」
驚いた顔のマリアに微笑んでみせる。
前の人生で、私はあの夜会を壁際で過ごした。誰とも話さず、婚約者がバルコニーで聖女と密会しているとも知らずに。
今度は違う。
今度は私が、あの夜会の脚本を書き換える。
予定表を握る指に、力を込めた。
震えはもう、ない。
*
窓の外に目をやる。
見慣れた王都の風景。石畳の街路、遠くに見える王宮の尖塔。まだ何も壊れていない世界。
頭の中で、三年分の記憶を整理する。
聖女の嘘。王子の横領。貴族派閥の暗躍。そして——私を殺した毒の出所。
全部、覚えている。
(でも、知らないこともある)
前世で私は宮廷の隅に追いやられていた。自分に直接関わる出来事しか知らない。知らない場所で何が起きていたか、誰が何を企んでいたか——穴だらけの地図。
それでも。
三年後に自分が殺されることを知っている。それだけで、十分な武器になる。
「お嬢様、ドレスをお持ちしました」
「ありがとう、マリア」
鏡の前で、琥珀色のドレスに袖を通す。前世では一度も着なかった色。
鏡の中の少女が、静かに笑った。
(さあ——始めましょう)
今度は、泣かない。
今度は、負けない。
今度は——全員を、詰ませる。




