【証拠はいらない】親に愛された記憶がない
相談者は、三十代の女性だった。
椅子に座ってからも、ずっと膝の上で指を組んでいる。
怒っているわけでも、
泣いているわけでもない。
ただ、どこか困ったような顔をしていた。
「……親に、愛された記憶がないんです」
それが最初の言葉だった。
俺は何も言わず、続きを待つ。
「母は……ほとんど家にいなくて」
「家にいても、寝てるか、イライラしてるかで」
「父は出張ばかりで」
「家にいなかった」
少し間が空く。
「ご飯、ない日もありました」
「小学生のとき、自分でコンビニ行って」
「でも」
女性は、言葉を選ぶように続けた。
「虐待ってほどじゃないと思うんです」
「殴られたわけでもないし」
「服も買ってもらってたし」
「でも……」
そこで初めて、声が揺れた。
「私、愛された記憶がないんです」
事務所が静かになる。
相棒が口を開きかけるが、黙った。
「聞くぞ」
俺は静かに言う。
女性が、小さくうなずく。
「親は、自分たちが」
『愛していた』と言ってるか?」
「……はい」
苦笑いに近い顔をする。
「お金も出したし」
「学校にも行かせたし」
「ちゃんと育てたって」
「でも」
彼女は、視線を落とす。
「私は……」
「愛されてたと思えなくて」
少し間を置く。
「私が、間違ってるんでしょうか」
俺は首を横に振った。
「違う」
女性が顔を上げる。
「愛情ってのはな」
ゆっくり言う。
「与えた側じゃなく」
「受け取った側が決める」
「……え?」
「どれだけ世話しても」
「どれだけ金を出しても」
「子どもが」
『愛された』と感じなければ」
「それは、愛情として届いてない」
女性は、言葉を失ったように黙る。
「親の主観は関係ない」
続ける。
「子どもが」
『自分は大事にされた』と感じたかどうか」
「それだけだ」
彼女の肩が、ゆっくり下がる。
「……じゃあ」
「私は、間違ってない?」
「ああ」
「寂しかったって感じたなら」
「それが事実だ」
長い沈黙。
女性の目に、少しだけ涙が浮かぶ。
「でも……」
声が震える。
「今さら、どうにもならないですよね」
「ならないな」
即答だった。
少し驚いた顔をする。
「過去は変えられない」
一拍置く。
「だが」
「これから関わる人は選べる」
女性は黙って聞いている。
「親に愛されなかった人間が」
「一生、愛されないわけじゃない」
「ただ」
「最初の場所に、それがなかっただけだ」
女性は、何度も小さくうなずく。
「……証拠、いりませんでした」
「ああ」
「私が寂しかったって」
「それでよかったんですね」
椅子から立ち上がるとき、
彼女の表情は少し軽くなっていた。
ドアが閉まる。
相棒がぽつりと言う。
「これから、他の人からもらえるよね」
「ああ」
俺は窓の外を見る。
愛された証拠なんて、
どこにも残らない。
覚えているのは、
そのときの気持ちだけだ。
だから――
自分が寂しかったと思うなら、
それが答えでいい。
これから先、
誰かから受け取るものだってある。
それが分かっているなら、
もう、証拠はいらない。




