第9話「世界で一番幸せな親子」
翌朝、グレイウッドは驚くほど“普通”だった。
井戸の水は澄んでいた。村人同士が疑い合う気配もない。家畜はいつも通り鳴き、子どもたちはいつも通り走り回る。
四天王が仕掛けたはずの“疑い”は、どこにも芽吹かなかった。
もちろん、それは偶然ではない。
夜のうちに、リリスが井戸の影をほんの少しだけいただいたのだ。
混ぜられたものだけを、丁寧に、誰にも気づかれないように。
水そのものは触らない。村人が困るから。
(いい子)
リリスは朝の布団の中で、こっそり自分を褒めた。
隣にはカイルがいる。椅子に座ったまま眠っていたらしい。腕を組み、壁にもたれ、眉間に僅かな皺。寝顔まで無愛想だ。
でも、目の下の影は少し濃い。
一晩中、見張っていたのだろう。
リリスはそっと、カイルの指に触れた。
ぎゅ。
五年前と同じように、指を握る。
その反応でカイルは目を開けた。
「……起きたか」
寝起きの声は低い。
リリスは笑う。
「おはよ、パパ」
カイルは目を細め、リリスの足首を見る。
包帯は巻かれたまま。だが血は滲んでいない。腫れもない。
カイルの喉が小さく鳴った。
「……痛むか」
「いたくない!」
即答。
リリスは勢いよく足を動かし、元気をアピールする。
カイルはその足を両手で包み、包帯をほどく。
傷はほとんど消えていた。薄い線が残っているだけだ。
カイルの眉が僅かに動く。
(治りが早い)
不自然だ。
だが、ここで問えばリリスはまた怯える。泣く顔は見たくない。
カイルは線を見ないふりをして、包帯を畳んだ。
「……今日は、無理をするな」
「うん!」
リリスは素直に頷き、布団から抜け出した。
だが足元が少しだけふわりと軽い。
(……あれ?)
立った時、視界の高さが微妙に違う気がする。
リリスは首を傾げた。
(気のせい……?)
気のせいじゃない。
でも、確認するのが怖い。
大きくなったら、抱っこが減る。
それは世界の終わりだ。
リリスは考えるのをやめ、笑顔で言った。
「パパ! あさごはん!」
カイルは頷いた。
「……作る」
◇◇◇
台所は、いつも通り忙しい。
火を起こし、フライパンを温め、卵を割る。パンを切る。牛乳を混ぜる。砂糖を少し。香りづけの粉をほんの僅か。
リリスが椅子の上で足をぶらぶらさせながら、目を輝かせた。
「パパ、なに作ってるの?」
カイルは手を止めずに答える。
「……フレンチトースト」
リリスの目がぱっと開いた。
「ほんと!? きょう?」
「……昨日、言った」
「わあぁ……!」
リリスは手を握りしめ、胸の前で小さくぴょんと跳ねた。
それだけで、カイルの口元がほんの少しだけ緩む。
焼けたパンから甘い匂いが立ち上がる。
表面はこんがり、中はふわり。バターが溶け、蜂蜜がとろりと垂れる。
「……できた」
皿が並ぶ。
スープも添えられる。果物も少し。
リリスは背筋を伸ばして手を合わせた。
「いただきます!」
「……いただきます」
一口食べた瞬間、リリスは頬を押さえた。
「おいしい……! しあわせ……!」
カイルは頷くだけだ。
言葉は少ない。だが、目が少し柔らかい。
食卓の空気があまりに平和で、昨夜のことが嘘みたいだった。
リリスは蜂蜜のついた指を舐め、ふと小声で言った。
「ねえ、パパ」
「……ん」
「きのう、こわかったね」
カイルの目が僅かに鋭くなる。
だが、すぐに戻る。
「……すまない」
「パパがあやまらないで」
リリスは笑って、もう一口食べる。
それから、勇気を出したように続けた。
「でもね、パパが……わたしのこと、守ってくれたの、うれしかった」
カイルの手が一瞬止まる。
何も言わない。
その代わり、リリスの頭を撫でた。
撫で方はいつも通り優しい。
それが答えだ。
リリスは目を細め、さらに甘えた声を出す。
「パパ、だいすき」
カイルの喉が小さく鳴る。
「……俺もだ」
言ってしまった。
いつもより一言多い。
リリスは固まって、次の瞬間、破裂しそうな笑顔になった。
「えへへへへ……!」
幸せが溢れる。
世界の中心にいる気分。
カイルは目を逸らし、皿を片付け始めた。
照れているのではない。照れるという感情を知らないだけで、結果としてそう見える。
リリスはその背中を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ずっと、このままがいい)
ずっとプリン味で、フレンチトースト味で。
パパがいて、私がいて。
それだけでいい。
だが、背中の熱は別の種類でもあった。
食べた魔力が、確かに残っている。
四天王の影。井戸の呪い。森の王の魔力。
少しずつ、少しずつ、体の中に溜まっている。
(だめ……)
リリスは膝の上で手を握る。
食べなきゃ守れない。でも食べると変わる。
葛藤は続く。
◇◇◇
朝食後、カイルは村へ出た。
昨夜の異変を確かめるためだ。村人たちの様子を見る。井戸を見る。森の縁を見る。
リリスは家で留守番――のはずだったが、結局手を握ってついてきた。
「パパといっしょ」
「……離れるな」
「うん!」
村の広場では、ミラ婆さんが桶で洗濯をしていた。
「あら、リリスちゃん。足は大丈夫かい?」
「だいじょうぶ!」
リリスは元気に答える。
ミラ婆さんは目を細めた。
「……なんか、背、伸びた?」
その一言で、リリスの心臓が跳ねた。
(やだ)
カイルがリリスを見た。
目線が足元から頭まで、ゆっくり動く。
「……」
何も言わない。
だが、見ている。
リリスは慌てて笑う。
「き、気のせいだよ! ミラおばちゃん!」
「そうかい?」
ミラ婆さんは首を傾げる。
だが深追いしない。村の大人は皆、リリスに甘い。
カイルはリリスの頭に手を置いた。
いつもの撫で方。
けれどその手が、ほんの少しだけ“測る”ように止まる。
(……軽い)
カイルは気づいた。
娘の体が、少し変わっている。
治りが早いことも。
時々、匂いが違うことも。
けれど、問いは飲み込む。
今は、平和を壊したくない。
カイルは村長の家へ向かい、短く話した。
「……最近、変なのが出たら、すぐ言え」
村長は真剣に頷く。
「分かりました。カイルさんも……無理はなさらず」
無理をするなと言われても、この男は無理を自覚しない。
帰り道、リリスがカイルの外套の裾を引いた。
「パパ」
「……ん」
「わたし、ずっといい子でいるね」
カイルが足を止める。
「……急にどうした」
リリスは笑う。
いつもの天使の笑顔。
でも目の奥が少しだけ揺れている。
「だって、パパ、いい子が好きでしょ?」
カイルは答えなかった。
答えの代わりに、リリスを抱き上げた。
軽い。
以前より、ほんの少しだけ。
抱き心地が変わったのが分かる。
それが、なぜか胸を締め付けた。
「……好きだ」
短く言う。
リリスはカイルの首に腕を回し、頬を寄せた。
「えへへ……」
幸せ。
でも怖い。
大きくなっていくのが怖い。
小屋に戻ると、リリスは台所へ向かい、背伸びをして棚の上を見上げた。
プリンの材料が入った瓶。
(まだ、食べたい)
でも食べすぎたら、また変わる。
リリスは唇を噛み、ぱっと振り返って宣言した。
「パパ! あしたのあさごはんも、フレンチトーストがいい!」
カイルは少しだけ目を細めた。
「……毎日か」
「うん!」
「……飽きる」
「飽きない!」
カイルは小さく息を吐き、諦めたように頷いた。
「……分かった。世界一うまいのを作る」
リリスの胸が、きゅっとなる。
「ほんと!?」
「ああ」
その短い肯定が、世界より大きい。
夕方、リリスは庭で遊んだ。
石を並べ、花を摘み、土をいじる。
その途中で、ふと自分の手を見る。
指が少し長い気がする。
爪が少しだけ硬い気がする。
(……やだ)
リリスは慌てて手を握り、背中に隠した。
(大きくならない。ならない。ならない)
願っても、体の奥の熱は消えない。
食べた魔力が、静かに成長を促している。
夜。
カイルが寝かしつけに来る。
背中をとんとん叩く。
「……寝ろ」
「うん……パパ」
「……ん」
「ずっと、いっしょ」
カイルは答えない。
答えの代わりに、リリスの額に手を置き、熱がないことを確かめる。
それが“約束”の形だった。
リリスは目を閉じ、眠りに落ちる直前、心の中でそっと呟いた。
(食べた魔力が、いっぱいになったら……どうなるんだろう)
先代魔王の記憶が、奥で笑う。
(進化する。王になる。世界を喰える器になる)
リリスはその声を押し込めた。
(だめ。わたしは、パパの娘)
でも――その夜。
リリスの髪の根元で、ほんの小さな硬い感触が生まれた。
角の芽のようなもの。
本人は眠っていて気づかない。
カイルも気づかない。
火の揺れが壁に踊り、甘い匂いが小屋に残る。
世界で一番幸せな親子の眠りの中で、次の物語の予兆だけが、静かに育っていた。




