第8話「パパ、本気を出す」
その日から、村の“夜”が変わった。
グレイウッドは辺境だ。夜になれば真っ暗で、灯りは家々の窓に小さく揺れるだけ。森からは虫の声がして、川の音が遠くで続く。いつもなら、それだけだ。
なのに――夜の静けさの底に、別の静けさが混じるようになった。
音が“吸われる”感じ。
影が“重い”感じ。
村人の誰かが、井戸へ向かった足を引き返す。
家畜が理由もなく小屋の隅で震える。
犬が吠えようとして、喉を鳴らすだけで黙り込む。
カイルは気づいていた。
自分が薪を割っている間に、空気が一瞬だけ冷える。
リリスが笑っている横で、影が僅かに揺れる。
目を凝らすと消える程度の変化だが、戦場の感覚は些細な歪みを見逃さない。
(来ている)
四天王が言った「準備」。
それは、村を直接襲う形ではなかった。
村の外れの小道に、見知らぬ旅人が倒れていた。
助け起こそうとした若者は、その目が虚ろであることに気づき、手を引っ込めた。
旅人は翌朝には消えた。足跡も、血痕も残さず。
森の中腹の岩場で、魔物の死骸が見つかった。
だが剣傷も爪痕もない。内側だけが空っぽになったような死に方だった。
村人は言う。
「森が機嫌悪いんだよ」
「冬が早いんじゃないか」
どれも間違いではない。
だが核心から遠い。
核心は、もっと単純だった。
リリスがいる。
そして彼女を狙う者がいる。
その夜、カイルはいつもより早く戸締まりをした。
窓の閂を確認し、扉の隙間を塞ぎ、薪を多めにくべる。火の揺れが壁に踊り、部屋が暖かくなる。
リリスは椅子の上で足をぶらぶらさせ、プリンの器を前にして待っていた。
「パパ、まだ?」
「……もう少し」
カイルがプリンを盛り付け、クリームをのせる。最後にベリーをひとつ。彼の手つきは丁寧だ。戦いの時の正確さと同じ質が、甘味のために使われている。
「……できた」
「わあ!」
リリスの目が輝く。手を合わせる。
「いただきます!」
「……いただきます」
一口。二口。リリスは頬を押さえた。
「おいしい……!」
その言葉だけで、カイルは少しだけ肩の力が抜ける。
今夜も守れた。たったそれだけの事実が、彼の生きる理由だった。
だが、甘い匂いの向こうから――不快な匂いが入り込んできた。
外。
森の縁が、鳴った。
音ではない。空気が裂ける感覚だ。
次いで、家の周りの影が一斉に濃くなった。火の光が、少しだけ弱く見える。
リリスがスプーンを止める。
(来た)
カイルは立ち上がり、何も言わずに窓へ向かった。
外を見る。闇。だが闇の中に、“立っているもの”が四つある。
姿を現すだけで、森の生き物が沈黙する。
カイルは低く言った。
「……リリス。奥へ」
リリスは頷き、椅子から降りた。だがその動きが、いつもより遅い。逃げるのではなく、身構える速度だ。
「パパ」
「……言うな」
カイルはリリスの肩に手を置き、軽く押す。奥の寝室へ。そこに隠れていろ、という意味。
リリスは唇を噛み、素直に下がった。
パパの声が低い時は、絶対に逆らわない。
カイルが扉を開け、外へ出る。
冷たい夜気が肌を刺した。
月は雲に隠れ、森は墨を流したように暗い。
小屋の前に、四天王が揃っていた。
杖の男ヴァルガが、いつもの薄い笑みで一礼する。
「こんばんは、天災」
鎧の巨体ガルドが斧を鳴らす。
「姫様を返せ」
影織りのセレスが、火の揺れを眺めるように微笑む。
「この灯り、可愛いですね。壊すのは惜しい」
少年のノアが手を叩く。
「ねえねえ、今日は何味のプリン? 姫様のために作ったんでしょ? 優しいねえ」
カイルは返事をしない。
代わりに一歩踏み出す。
地面が沈んだ。
闘気の圧で、草が伏せる。
「……用件」
ヴァルガが肩をすくめる。
「姫様が戻らないなら、環境を整えると言ったでしょう。人間社会を、姫様にとって“居心地悪く”する」
カイルの目が細くなる。
「……村に手を出したら、殺す」
ガルドが嗤う。
「殺せるなら、やってみろ」
セレスがくすりと笑った。
「今夜は、直接は壊しません。姫様が“見ている”から」
ノアが指を立てる。
「でも、ちょっとだけ。姫様に『人間って最低だね』って思ってもらうくらいは、していいよね?」
カイルは剣に手をかけた。
その瞬間、ヴァルガが杖を軽く地面に叩いた。
――影が走る。
小屋の裏手。村へ続く小道の方角へ、黒い線が伸びた。
それは影というより、命令の線だ。何かが動き出した合図。
カイルの眉が僅かに動いた。
「……何をした」
ヴァルガは淡々と告げる。
「村の井戸。水に“疑い”を混ぜた。明日から村人は互いを疑い始める。誰が姫様を隠しているのか。誰が魔族に通じているのか。……そして結局、姫様に向けて石を投げる」
ガルドが唸るように笑う。
「人間はそういう生き物だ。弱い者を叩く」
カイルの闘気が、さらに濃くなる。
リリスのいる家へ、そんなものを近づけた。
それだけで、許されない。
だが、カイルが動くより先に――
寝室の扉が、開いた。
「やめて」
小さな声。
リリスが出てきてしまった。
カイルの心臓が一拍遅れる。
怒りより先に、危機感が胸を噛んだ。
「……戻れ」
「だめ」
リリスはカイルの横へ並ぶ。
小さな体なのに、姿勢が妙に“王”だ。
四天王が揃って膝をつく。
「姫様」
ヴァルガの声が甘くなる。
「姫様。見てください。人間はあなたを守れない。あなたを隠すために、村を壊すか? それとも村にあなたを差し出させるか? どちらにしても――あなたは傷つく」
ノアが無邪気に言う。
「姫様、もう分かったでしょ? 帰ろうよ。プリンより、もっと甘いもの、作ってあげる」
リリスの瞳が細くなる。
「プリンより甘いものは、ない」
ガルドが苛立ちを露わにした。
「くだらん! ならば力で――」
セレスがすっと手を上げる。
「ガルド。姫様の前では、粗野は控えて。……手は汚さずに済むのが一番です」
彼女の指先が、ゆらりと動く。
次の瞬間。
リリスの足元の影が、跳ねた。
影が槍の形になり、リリスの足首へ伸びる。
カイルが反射でリリスを抱き寄せた。
だが影は速い。抱いた腕の隙間を縫うように絡み、リリスの皮膚を掠った。
ほんの一筋。
血が、出た。
赤い一滴が、地面に落ちる。
それだけで、世界が止まった。
リリスが目を見開く。
驚きと痛みと――何より、パパの表情を見上げる怖さ。
カイルの目が、ゆっくりと動いた。
セレスを見る。
四天王を見る。
そして、地面の血を見る。
次に起きたことを、村人の誰も説明できない。
空気が、爆ぜた。
闘気が噴き上がる。
目に見えないはずの力が、熱となって夜を焦がす。小屋の前の草が一斉に伏せ、地面がひび割れる。
四天王が表情を変えた。
「……ほう」
ヴァルガが息を吐く。
「これが、天災の本気……」
ガルドが口角を上げる。
「いい。やっと、殴り合える」
ノアが目を輝かせる。
「やば。姫様、今の見た? すごいよ、すごいよ」
セレスだけが、ほんの僅かに目を細めた。
(しまった)
その目。
狙いが外れた時の目。
彼女はリリスを“連れ戻す”ために、小さな傷をつけた。
姫様がパパから離れる材料にするために。
だが逆だった。
傷ついたのは姫様ではなく――天災の理性だ。
カイルの声が、落ちた。
「……俺の娘に」
短い。低い。
それが恐ろしく重い。
「……変な教育をしようとするな」
次の言葉は、刃だった。
「消えろ」
カイルが踏み出す。
地面が鳴る。距離が消える。
剣を抜くより速く、拳がガルドの鎧へ叩き込まれた。
ゴン、という音ではない。
山が崩れる音だ。
ガルドの巨体が吹き飛び、木々を薙ぎ倒して森の奥へ突き刺さる。
ノアが笑いながら、影の中へ跳ぶ。
「うわ、痛そう! でも遊ぼう、天災さん!」
カイルは振り向きもせず、剣を抜いた。
一閃。
切られたのはノアではない。
ノアの“逃げ道”――影の通路そのものが断ち切られた。
影が裂け、ノアが転がり出る。
「え? え? それ切れるの? 影だよ?」
カイルは答えない。
剣を振るたび、影が逃げる場所を失う。ノアの顔から笑みが消えた。
ヴァルガが杖を掲げる。
「セレス、下がれ。姫様がいる。結界を――」
セレスは小さく舌打ちし、指先を絡めた影を戻す。
だがカイルはもう止まらない。
次に狙うのは、リリスを傷つけた“原因”。
セレスの影が、身を守るように壁を作る。
カイルはそれを、斬った。
闘気を纏った刃が、影の布を裂き、セレスの頬を掠める。
銀髪の女の表情が初めて崩れた。
「……っ、乱暴ですね」
言いながらも、後退する。
彼女は理解した。真正面からやり合う相手ではない。
ヴァルガが低く詠唱する。
空気が歪み、魔法陣が浮かぶ。
村を巻き込む大規模術式。
天災の足を止めるための策。
だが――その瞬間、リリスが小さく息を吸った。
(だめ)
パパが村を壊す。
本気になったパパは、世界を壊す。
それは困る。
だから、私が掃除する。
リリスの足元の影が、静かに口を開く。
ヴァルガの術式の“核”だけが、すっと消えた。
魔力が抜け落ち、魔法陣が砂みたいに崩れる。
ヴァルガの目が僅かに見開く。
「姫様……!」
リリスはにこっと笑う。
パパに見えない角度で。パパには、ただ震える子どもに見えるように。
「パパ、だめ……こわい」
その一言が、カイルの動きを一瞬止めた。
止めてほしかった。
村が壊れる前に。
そして――敵を逃がさないために。
止まった一拍で、リリスは影を伸ばす。
ノアの足元。
ガルドの背後。
セレスの逃げ道。
ヴァルガの杖。
四天王の“撤退の線”が、闇の中で次々と喰われていく。
彼らは気づく。
逃げられない。逃げようとすると、影がない。
ガルドが瓦礫を押しのけて立ち上がり、吠えた。
「姫様! なぜ人間を庇う!」
リリスは答えない。
答える必要がない。
カイルがガルドへ向き直る。
今度は剣の柄を握り、短く告げた。
「……二度と来るな」
ガルドが笑う。
「来るさ。姫様が戻るまで――」
最後まで言えなかった。
カイルの剣が、ガルドの斧を真っ二つに断ち割ったからだ。
金属が泣き、刃が折れ、ガルドの腕が震える。
その“驚き”の隙に、リリスの影がガルドの影を一口だけ奪った。
ぱくり。
ガルドの目が大きく開き、膝が落ちる。
恐怖ではない。理解不能な欠落。自分の中の“戦う核”が欠けた感覚。
「……っ、何を……」
セレスが歯を噛む。
「姫様、やめてください。あなたは王です。人間の子では――」
カイルの視線がセレスに移る。
それだけで、セレスは背筋が凍った。
ヴァルガが一歩前へ出る。
「天災。取引をしよう。姫様は渡さないのだろう? ならば、こちらも引く。ただし――」
カイルは、短く遮った。
「……要らない」
取引も、理屈も。
必要なのは、二度と娘に触れさせないこと。
ヴァルガは苦く笑う。
「……本当に、人間らしくない男だ」
そして、リリスへ向けて静かに言う。
「姫様。我らは退く。だが忘れないでください。人間世界はあなたを受け入れない。いずれ、もっと大きな手が――」
その言葉の途中で、ヴァルガの影が“薄く”なった。
リリスが、ほんの少しだけ食べたのだ。
全部は食べない。全部食べたら、パパが気づく。
でも、次に繋がる脅しを言える口は、残さない。
ヴァルガは息を止めた。
背筋が冷える。彼ほどの魔族が、幼い姫の“気配”に恐怖を覚える。
(……姫様は、完全に覚醒しかけている)
ヴァルガは判断した。
今夜は引くべきだ。これ以上は、姫様自身を追い詰める。
「撤退だ」
ヴァルガが言う。
四天王が散る――はずだった。
だが影が足りない。
ノアが叫ぶ。
「帰れない! 帰れないよ! 影、ない!」
リリスが小さく首を傾げる。
(帰したら、また来る)
だから、帰さない。
でも殺さない。パパが“殺した匂い”を嗅いだら、何かに気づくかもしれない。
リリスは、最も簡単な方法を選んだ。
四天王の影の“出口”だけを、丁寧にいただく。
逃げ道を食べて、ここから遠ざける。
影は、繋がっている。
出口を喰えば、彼らはしばらく“影の渡り”ができない。
セレスが気づき、叫ぶ。
「姫様! それは――」
リリスは笑う。
「ごちそうさま」
次の瞬間、四天王の周囲の闇が“ほどけた”。
影が消えたのではない。
影が繋がらなくなった。
四天王はその場に残り、撤退術式を失って立ち尽くす。
そして、カイルの闘気を正面から受ける形になった。
ヴァルガは、初めて焦った。
「……姫様、なぜ……!」
リリスはカイルの背中を見た。
パパが震えている。怒りで。恐怖で。娘を失う恐怖で。
(ここで終わらせなきゃ)
リリスは小さく一歩下がり、カイルにだけ聞こえる声で言った。
「パパ……リリス、けが、いや」
それだけで十分だった。
カイルの闘気が、一段階上がる。
「……分かった」
彼は、四天王を見た。
もう交渉しない目だ。
次の瞬間。
カイルは剣を振るわなかった。
鞘に収めたまま、地面を一度だけ踏んだ。
ドン。
衝撃が走る。
闘気が地面を伝い、四天王の足元を叩き潰す。
影ではなく、肉体を直接震わせる技。
四天王の膝が揃って落ちた。
身体が言うことをきかない。魔力が霧散する。立てない。
カイルは淡々と歩き、ヴァルガの目の前で止まった。
「……次はない」
ヴァルガは笑おうとして、笑えなかった。
この男は本気で“次”を消す。
「理解した」
短く答えるしかない。
カイルはセレスへ視線を向けた。
彼女は頬の傷を押さえ、唇を噛んだ。
「姫様に傷を……」
彼女が言いかけた言葉を、カイルが切る。
「……謝る相手が違う」
その一言で、セレスの瞳が揺れた。
謝る相手。つまり――リリスだ。
セレスは屈辱で歯を鳴らしながらも、かろうじて頭を下げた。
「……姫様。無礼を」
リリスはにこっと笑う。
天使の笑顔で。
「うん。いいよ。もう来ないでね」
それが“許し”であり、“宣告”でもあった。
ノアは泣きそうな顔で呟く。
「姫様、怖い……」
ガルドは悔しそうに唸った。
ヴァルガは最後に、カイルを見上げた。
「天災。姫様を守れ。……守り方を間違えれば、姫様自身が世界になる」
カイルは答えない。
答えの代わりに、リリスを抱き上げた。
傷のついた足首をそっと手で覆い、布で巻く。
血はもう止まっている。傷は浅い。
それでもカイルの手は震えた。
「……痛むか」
リリスは首を振る。
「もうだいじょうぶ」
カイルは短く頷き、リリスの額に自分の額を軽く当てた。
言葉の代わりの謝罪。
「……すまない」
「パパがあやまることじゃないよ」
リリスは笑う。
笑って、パパの胸を撫で下ろさせる。
その背後で、四天王は立ち上がれないまま、ただ見送るしかなかった。
影が戻るまで、彼らはここから動けない。
カイルは小屋へ戻り、扉を閉め、鍵をかけ、リリスを寝室へ連れていった。
布団に寝かせ、背中をとんとん叩く。
「……寝ろ」
「うん……パパ、そばにいて」
「……いる」
リリスの瞼が落ちる。
それでも小さな手が、カイルの指を掴んで離さない。
五年前と同じ握力。
カイルはその指を握り返し、静かに息を吐いた。
――その夜、森の中で。
動けない四天王の影に、さらに深い影が覆いかぶさった。
リリスの“食べた出口”が、完全に戻るまでには時間がかかる。
その間、四天王は学ぶ。
姫様はもう、ただの姫ではない。
天災の娘として、“別の王”になりつつある。
そして、リリスの足首の小さな傷は、すでに塞がりかけていた。
治りが早すぎる。
食べた魔力が、体の奥で静かに巡り、骨を少しだけ押し広げるような感覚がある。
(……だめ。大きくなっちゃう)
眠りに落ちる直前、リリスは心の中で必死に願った。
(まだ、抱っこしてほしい)
でも進化は止まらない。
甘いプリンの匂いの下で、世界の歯車が一枚、確実に回っていた。




