第7話「現れた『忠誠を誓う者』」
それは、村の空気が“重くなる”ところから始まった。
朝。いつものようにカイルが薪を割る。
いつものようにリリスが「おはよ」と走ってくる。
いつものようにスープの匂いが小屋から漂う。
――なのに、鳥が鳴かない。
森の梢がざわめいているのに、風の音がしない。葉だけが震えている。まるで、見えない何かが触れているみたいに。
カイルは斧を止めた。
目線が、森の奥へ向く。
闘気が、皮膚の内側で薄く立ち上がる。
敵意。殺意。威圧。そういうものを、久しぶりに感じた。
「……家に入れ」
短い声。
リリスがぱちりと目を瞬かせる。
「え? でも――」
「……入れ」
リリスは反射で頷き、扉へ向かう。だが途中で振り返り、心配そうに言った。
「パパ、だいじょうぶ?」
カイルは答えない。答える代わりに、娘の頭を一度だけ撫でた。
行動で示す“心配するな”だ。
リリスが小屋に入る。
鍵が掛かる。
その瞬間、森が割れた。
木々の間から、黒い影が四つ、滑るように現れる。
人型。だが人ではない。角、尾、赤い目。古い魔王軍の紋章を纏い、空気そのものを支配する威圧をまとっていた。
四天王。
かつて魔王の玉座を支え、人類国家を震え上がらせた怪物たちだ。
先頭の男は、長身で、黒い外套を引きずっていた。顔は整い、口元に薄い笑み。手には杖。
その隣に、鎧の巨体。斧を肩に担ぎ、唸るように息を吐く獣人。
三人目は、女性の姿。銀の髪、細い指、耳元で鈴のような音が鳴る。周囲の影が彼女に従って揺れる。
四人目は、子どもみたいな見た目の少年。だが目が古い。笑い方が冷たい。
彼らはカイルを見て、同時に息を吐いた。
「……やはり、ここか」
杖の男が言う。
「生ける天災。魔王様を討った人間。まだ生きていたとは」
鎧の巨体が鼻を鳴らす。
「殺す。今度こそ、確実に」
その瞬間、杖の男が手を上げた。
「待て。目的は“姫”だ。……まず、確認する」
彼は視線を小屋へ向け、声を張る。
「姫様。お戻りください」
小屋の中が静まる。
カイルは一歩前へ出た。
「……誰だ」
杖の男が笑う。
「名乗る必要があるか? だがまあ、人間の礼儀に合わせよう。私はヴァルガ。魔王軍、四天王の一。『宰相』と呼ばれた者」
鎧の巨体が斧を鳴らす。
「ガルド。『戦鬼』」
銀髪の女が微笑む。
「セレス。『影織り』」
少年が小さく手を振る。
「ノア。『災芽』」
名を聞いた瞬間、カイルの背筋が僅かに固まった。
覚えている。討ったはずだ。魔王城で、血の海の中で。
(……生き残り)
それだけで、状況は最悪に近い。
ヴァルガは優雅に一礼し、続けた。
「我らは姫様を迎えに来た。魔王様の血脈は絶えたと思われたが、残っていた。……それがここにいる。五年前、貴様が拾った赤子だ」
カイルの闘気が濃くなる。
周囲の草が伏せ、空気が重くなる。
「……リリスに、触れるな」
言葉は短い。
それだけで、場の温度が下がった。
ヴァルガは肩をすくめる。
「触れない。姫様が望まぬ限りは。……姫様は賢い。理解するはずだ。人間に育てられるなど、屈辱だと」
その時、小屋の扉が開いた。
「だめ」
小さな声。
リリスが出てきた。
いつもの服。いつものリボン。いつもの天使の顔。
ただし、目だけが冷えている。
四天王が揃って膝をついた。
「姫様……!」
地に頭を垂れる。かつて世界を焼いた怪物たちが、五歳の幼女の前で臣下になる。
村の外れの空気が、異常な儀式みたいに張り詰めた。
リリスはカイルの背後へ行かず、前へ出た。
「戻らない」
ヴァルガが静かに言う。
「姫様。あなたは魔王の転生体。先代の記憶と権能を――」
「知ってる」
リリスは即答した。
「全部、知ってる」
四天王の顔が僅かに動く。
つまり、確信した。
ヴァルガは口元を緩める。
「ならば話は早い。姫様。人間の世界はあなたを恐れ、いずれ狩りに来る。あの監察官の件も、すでに王都は動いている。……戻りましょう。魔王城を再建し、我らが再び――」
「やだ」
リリスは言い切った。
ヴァルガが目を細める。
「なぜです。人間など、滅ぼすべきでしょう」
リリスは一歩前へ出た。
小さな手で、胸の前をぎゅっと握る。
「パパがいるから」
その言葉は、世界の理屈より重い。
ヴァルガは困惑したように眉を寄せる。
「……姫様。あの男は、魔王様を討った仇です。憎むべき相手です」
リリスは首を傾げた。
「ううん」
そして、笑った。
いつもの天使の笑顔で。
「パパはね、プリン作ってくれる」
沈黙。
四天王が固まる。
理解できない。魔王の価値観にプリンはない。
リリスは指を立てて続けた。
「あとね、髪も結んでくれるし、寝るときに背中とんとんしてくれるし、寒いときはマフラー巻いてくれるし、怖い夢見たら抱っこしてくれるし――」
数え始めると止まらない。
愛情の実績が、積み上がる。
ヴァルガは思わず口を挟んだ。
「……それは、人間の……育児、では」
「うん!」
リリスは元気よく頷く。
「だから、戻らない。パパのプリンの方が大事」
ガルドが怒りで牙を剥く。
「くだらん! 姫様がそんな甘いものに――!」
その瞬間、リリスの瞳が一瞬だけ魔王のそれになった。
ガルドの影が、ぴくりと動く。
ガルドは言葉を止めた。
本能が叫ぶ。やばい、と。
リリスはにこにこしたまま言う。
「プリンをばかにしたら、だめだよ」
セレスがくすりと笑った。
「姫様……相変わらず、恐ろしい冗談を」
ノアは興味深そうにカイルを見上げる。
「ねえねえ、天災さん。姫様はあなたの何がそんなに好きなの? 顔? 匂い? それとも――抱っこ?」
その軽口に、カイルの闘気が揺れた。
一歩踏み出す。
空気が鳴る。
「……黙れ」
短い声。
それだけで、ノアの笑いが止まる。
ヴァルガが一歩前へ出た。
「姫様。最後に確認します。……あなたは人間側に立つのですか?」
リリスは少しだけ考えるように口を閉じた。
そして言った。
「パパのとなり」
立つ陣営などどうでもいい。
世界のどちら側でもいい。
私の居場所はそこだけ。
ヴァルガは目を伏せた。
残念そうに、しかしどこか嬉しそうにも見える。
「……分かりました。姫様がそう望むなら、我らは無理に連れ戻しはしない」
カイルの目が鋭くなる。
(嘘だ)
こういう目をした奴は、嘘をつく。
交渉の顔をして、裏で手を回す。
ヴァルガは続けた。
「ただし。姫様を危険に晒す人間社会を放置することもできません。……我らは“準備”を進めます」
セレスが微笑む。
「影は、もう王都へ伸びています」
ノアが楽しそうに言う。
「ちょっと遊んでくるね」
ガルドが斧を肩に担ぎ、唸る。
「姫様が戻りたくなるように、“環境”を整える」
カイルが剣の柄に手をかけた。
その動きに、四天王が一斉に反応する。殺気がぶつかり、空気がひび割れる。
だが、リリスが小さく言った。
「やめて」
それだけで、全員の動きが止まった。
四天王も、カイルも。
リリスはカイルを見上げた。
「パパ、だめ。……きょうは、プリンの日だもん」
カイルの手が、剣から離れる。
無口な男は、短く頷いた。
「……分かった」
その言葉で、四天王がわずかに目を見開く。
天災が、幼女の一言で止まった。
ヴァルガは深く一礼する。
「姫様。いつでもお呼びください。我らはあなたの影です」
そして、カイルへ視線を向けた。
「人間。姫様を泣かせるな。泣かせたら――我らが世界ごと潰す」
カイルは答えない。
ただ、目が「先にお前らが消える」と言っていた。
四天王の姿が、森の影へ溶けるように消える。
風が戻り、鳥が一羽、遠くで鳴いた。
村は何も見ていない。
見ていたとしても、理解できない。
小屋の前に残ったのは、無口な父と、幼い娘だけ。
◇◇◇
リリスは、少し遅れて震えが来た。
四天王を追い払えた。
パパを守れた。
なのに、胸が苦しい。
(あの人たち……私の部下だった)
記憶が言う。
彼らは忠誠を誓っていた。魔王としての私に。
でも今の私は、パパの娘。
(……どっちが本当?)
答えは決まっているのに、葛藤は残る。
もし四天王が強硬手段に出たら。
もしパパが傷ついたら。
その想像だけで、世界が赤く染まる。
リリスはカイルの外套をぎゅっと掴んだ。
「パパ……」
カイルは無言でしゃがみ、リリスを抱き上げた。
胸に寄せる。体温で包む。
「……怖かったか」
リリスは首を振ろうとして、できなかった。
怖かった。すごく。
でも怖いのは四天王じゃない。
怖いのは――パパが、真実を知った時の顔だ。
リリスは小さく頷いた。
「……ちょっとだけ」
「……大丈夫だ」
カイルの言葉は短い。
けれど腕は強い。
リリスはその腕の中で、必死に笑顔を作る。
「ねえパパ。プリン、たべたい」
カイルの目が少しだけ緩む。
「……作る」
いつもの約束。
それが、リリスの世界の柱。
小屋へ戻る途中、リリスは小さく心の中で呟いた。
(あの人たち、もう一回来たら……今度は、全部いただく)
いい子のまま。
パパにバレないように。
四天王は去った。
だが、彼らが言った「準備」は始まっている。
王都へ伸びる影。
揺れる政局。
そして、次に来るのは“交渉”ではない。
その時、無口な父は――本当に剣を抜くことになる。




