第6話「パパの『しつけ』と娘の『葛藤』」
違和感は、最初は“気のせい”の形をしていた。
森に入っても魔物の気配が薄い。
夜の遠吠えが減った。
村の外れで見つかるはずの獣の死骸が、妙に綺麗に消えている。
グレイウッドの村人たちは「カイルがいるからだ」と笑って済ませた。確かにそれもある。あの無口な木こりが森に住んでから、魔物は寄りつかなくなった。
だが――最近のそれは、少し行き過ぎている。
(……消え方が、違う)
カイルは朝の薪割りを終え、斧を壁に立てかけた。手のひらには固い豆。昔なら剣の柄が作った豆。今は、薪と鍋と、娘の髪を結ぶ紐が作った豆だ。
小屋の中から、ぱたぱたと足音がする。
「パパ、できた!」
リリスが誇らしげに出てきた。髪には昨日買ったリボン。服の前掛けには、粉が少しついている。台所を手伝った証だ。
「……何をした」
「おさら拭いた! あとね、おさかなの絵、描いた!」
小さな紙を差し出す。川と魚と、なぜか王冠を被った魚。
カイルは頷き、短く褒めた。
「……上手い」
「えへへ!」
褒められると、リリスはすぐに頬を緩める。その顔を見るたび、カイルの胸の奥の硬い部分が柔らかくなる。
だから、言うべきか迷った。
しかし迷っている間にも、違和感は増える。昨日、森の外縁で見つけた“何か”の痕跡が、まだ鼻の奥に残っている。
焦げた甘さ。
魔力の残り香。
(……リリス)
カイルは娘の頭を一度撫で、それから真面目な声を出した。
「……リリス。最近、森で何か見たか」
リリスが一瞬、固まった。
ほんの瞬きの間。
笑顔が遅れる。
「え? な、なにも?」
声は明るい。だが早い。答えが早すぎる。
カイルは顔に出さない。出すと、娘はもっと怯える。そんな顔をさせたくない。
「……この村に、変なのが来たことは」
「……へんなの?」
リリスは首を傾げた。上手に。完璧に。いつもの“天使の顔”だ。
カイルの胸の奥で、針がちくりと刺さる。
(嘘……か)
娘が嘘をつく。そんなこと、あるのか。
いや、ある。子どもは叱られるのが怖い。隠す。誤魔化す。そういうものだ。
(……そういうもの、なのか)
カイルは“育児の正解”を知らない。
戦の正解なら知っている。殺すか殺されるか。
だが子どもの心は、斬れない。脅せない。斬ったら終わる。
カイルは言葉を選ぶ代わりに、行動を選んだ。
リリスの手を取る。
「……散歩」
「さんぽ?」
「……川まで」
リリスの顔がぱっと明るくなる。
「いく!」
それでいい。まずは外の空気。話はそれからだ。
◇◇◇
川は透明だった。
石の間を水が走り、日差しがきらめいている。
リリスはカイルの手を握ったまま、川辺の小石を拾っては「これきれい」と言った。カイルは頷き、拾った石をリリスのポケットに入れてやる。
平和だ。
だが、カイルはふと足を止めた。
川辺の砂に、妙な跡がある。
爪でも牙でもない。何かが“引きずられた”跡。しかも、最後はぷつりと消えている。
リリスの足音が止まる。
「……パパ?」
「……ここに、何か来た」
カイルが砂を指でなぞると、リリスが小さく肩をすくめた。
「おおきいの?」
「……分からん」
嘘だ。分かる。
魔物の痕跡ではない。人間でもない。
“影”の匂いが混じっている。
カイルはゆっくりとリリスを見る。
「……リリス。怖いことがあったら、言え」
リリスの喉が小さく鳴った。
「……こわいこと、ないよ」
やっぱり言う。
カイルはしゃがみ込み、目線を合わせた。
言葉を短く、刃物みたいにしないように。
「……嘘は、だめだ」
リリスの瞳が揺れる。
怒られた。
その認識だけで、心が縮む。
「……ごめんなさい」
「……怒ってない」
怒ってないのに、娘はもっと苦しそうな顔をする。
その顔を見て、カイルの胸が痛くなる。
(……俺が、怖いのか)
自分の声が。
自分の目が。
自分の存在が。
カイルは一度息を吐き、リリスの肩に手を置いた。
「……リリス。お前が何かしたなら、教えろ。隠すと……危ない」
危ない。誰にとって?
リリスにとって。村にとって。自分にとって。
何より――この生活にとって。
リリスの唇が震えた。
「パパ……」
声が細い。
「……わたし、いい子、だよね?」
カイルの胸に、鈍い衝撃が落ちる。
いい子。
その言葉が、刃物より深く刺さる。
リリスは必死だった。褒められたい。嫌われたくない。守りたい。
その必死さが、嘘を作る。
カイルは答える代わりに、リリスを抱き上げた。
ぎゅっと胸に押し付ける。
小さな背中が震えているのが分かる。
「……いい子だ」
短く言う。
リリスの肩が、少しだけ落ちる。
安心が混じる。
だが、それでも言えない。
言ったら壊れると思っている顔。
(……思春期)
カイルの脳裏に、村の女たちの話がよぎる。
“子どもはある日急に、親に言えないことが増える”
“心が大きくなる前の、反抗期みたいなもの”
“甘やかしすぎは良くないけど、追い詰めるのも良くない”
分かったようで分からない。
だが、ひとつだけ分かる。
この子を泣かせたくない。
カイルはリリスを抱いたまま、川辺に腰を下ろした。
ポケットから小さな包みを取り出す。昼用に持ってきた甘いクッキーだ。町で買った、少し高いやつ。
「……食うか」
リリスが目を丸くする。
「……いいの?」
「……泣く顔より、こっちがいい」
リリスの目が潤む。
それでも笑おうとして、口角がぶるぶる揺れた。
「……ありがとう、パパ」
クッキーを受け取り、かじる。
甘さが口に広がった瞬間、リリスの肩の力が抜けた。
カイルはその頭を撫でながら、静かに言った。
「……隠したいなら、今はいい」
リリスが息を止める。
「……でも」
カイルは続けた。
「……危ないことだけは、しない。約束しろ」
リリスの喉が鳴った。
嘘をつけない子の喉の鳴り方。
リリスは、小さく頷いた。
「……うん」
それが“全部”ではないと分かっていても、カイルはそれ以上追わなかった。
追えば、壊れる。
抱きしめる力を、少しだけ強くする。
言葉の代わりに、腕で伝える。
ここにいる。
離さない。
嫌いにならない。
リリスはカイルの胸に顔を埋め、かすれた声で呟いた。
「……パパに、きらわれたら、いや」
「……嫌わない」
即答だった。
迷いはない。
その答えを聞いた瞬間、リリスの震えが止まった。
(よかった)
心の中で、リリスが泣きそうに笑う。
(まだ、世界は終わらない)
◇◇◇
夕方、小屋に戻ると、リリスはいつもより大人しく台所を手伝った。
皿を拭き、布巾を畳み、床を掃く。
その“良い子”が、逆に痛い。
カイルは鍋を見ながら、ふと口を開いた。
「……リリス」
「なに?」
「……今日、よく頑張った」
それだけで、リリスの顔がぱっと明るくなる。
褒められるのが、何よりの栄養。
「えへへ!」
カイルは無言でプリンの型を取り出した。
そしてもう一つ、器を増やす。
リリスの目が丸くなる。
「……え? ふたつ?」
「……ひとつは、明日の分」
嘘だ。
明日の分を作るふりをして、今日の分を増やした。
リリスはそれを見抜いている。見抜いているのに、言わない。
言わないことで、パパの優しさを守る。
プリンが固まるまでの間、リリスは椅子の上で足を揺らしながら、カイルの背中を見つめていた。
(パパ、やさしい)
優しすぎる。
だから怖い。
もし本当のことを知ったら、この背中はどうなる?
その問いが、リリスの胸を締め付ける。
(……言えない)
私は、元魔王。
パパが倒した相手の“続き”。
しかも私は、パパの敵を、こっそりいただいている。
言った瞬間、この家は壊れる。
プリンの匂いも、髪を撫でる手も、消える。
(だから、隠す)
リリスは膝の上で小指を握りしめる。
(危ないことは、しない……って約束した)
でも、危ないの定義が違う。
私にとって危ないのは、パパが悲しむこと。
村が燃えることより、パパが眉を寄せることの方が危険だ。
鍋を見ていたカイルが、振り返った。
「……できた」
器に盛られたプリンが並ぶ。
今日は、クリームも少し多い。
リリスは背筋を伸ばして手を合わせた。
「いただきます!」
「……いただきます」
一口。
甘さが舌に広がる。
リリスの目から、涙が一粒こぼれた。
カイルの手が止まる。
「……どうした」
リリスは慌てて袖で拭く。
「ち、ちがうの! おいしくて! しあわせで……!」
嘘じゃない。
本当だ。
本当すぎて、涙が出た。
カイルは席を立ち、リリスの横にしゃがむ。
そして短く言った。
「……泣くな」
命令ではない。
不器用な慰め。
リリスが首を振る。
「泣かない……でも、ちょっとだけ」
カイルはリリスの頭を撫で、頬についたクリームを布巾で拭った。
「……食え」
「うん……!」
リリスは残りを食べきり、皿を空にした。
そして小さく言った。
「ごちそうさま」
カイルも皿を片付けながら言う。
「……ごちそうさま」
その夜、リリスはいつもより早く眠った。
カイルの腕の中で、ぎゅっとしがみついたまま。
寝息は穏やかだ。
けれど、カイルの目は閉じない。
リリスの髪を撫でながら、彼は天井を見つめた。
(……何かを隠している)
確かだ。
だが、追い詰めたくない。
(……守る)
結論は、それだけ。
そして翌日。
森の奥の闇で、何かが“欠けた影”の報告を聞いていた。
影を失った残党が、震える声で王都へ告げる。
「姫様が……いる。あの村に……」
新しい厄介は、確実に近づいている。
だが小屋の中では、無口な父が娘の額に手を当て、熱がないことを確かめるだけだった。
この温もりを守るためなら、彼はまた世界と戦うだろう。
本人だけが、まだそれに気づいていなかった。




