第5話「魔物たちの王、幼児の『おやつ』になる」
森の外縁は、思ったより静かだった。
ギルドでもらった地図には「薬草採取:危険度E」と書いてある。村の周囲にも生える薬草を、少し奥でまとめて採ってくるだけの簡単な仕事。報酬は銅貨三十枚。プリンの材料と、リリスのクリーム代には足りる。
――はずだった。
カイルは森の中を歩きながら、違和感を噛み砕くように沈黙していた。
風が止んでいる。
鳥が鳴かない。
土の匂いが薄い。
そして何より、足元の落ち葉が妙に湿っているのに、霧がない。
「パパ、ここ、しーんってしてる」
リリスが小さな声で言う。
今日は約束通り、カイルの手を握ったまま離れない。町で買った小さなリボンを髪に結び、背中には小さな袋。本人は「冒険者みたい!」とご満悦だった。
カイルは頷き、歩幅を落とした。
「……見るな。離れるな」
「うん」
リリスは素直だ。パパの言うことは絶対だ。
その絶対が、今日だけは妙に胸に刺さる。
(危ない)
カイルは薬草の生える岩場へ向かう予定を変え、斜めに進路を切った。木々の間を抜け、少し高い場所へ。視界を確保するためだ。
だが、その時。
森の奥から、低い振動が伝わってきた。
地面が、微かに揺れる。
リリスがカイルの手をぎゅっと握り直した。
「……なに?」
カイルは答えない。答えるより先に、音が来た。
ドォン、と空気が押しつぶされるような衝撃。
木々が一斉にしなり、葉が舞い上がる。
獣の咆哮。
それは狼でも熊でもない。山が吠えたみたいな、巨大で、古い声だった。
カイルは瞬時にリリスを抱き上げた。
胸の前に抱え、外套で包む。視界を遮るように。
「……目を閉じろ」
「え、でも――」
「……閉じろ」
短い命令。
リリスは反射で目を閉じた。パパの声が、いつもより低い。
カイルは地面に片膝をつき、耳を澄ませる。
足音。重い。四足――いや、違う。地を踏む音が、二つのリズムで重なっている。
そして、匂いが来た。
熱と、焦げと、金属と、魔力。
(ドラゴン……?)
こんな森の外縁に出るはずがない。ギルドがE判定を出すわけがない。
カイルは静かにリリスを下ろし、自分の背中側へ回した。
「……そこ。動くな」
「う、うん……」
怯えた声。
カイルは一歩前へ出て、鞘から大剣を引いた。
刃が空気を切る音が、森の静けさを割る。
次の瞬間、木々の間から姿を現した。
黒い鱗。燃えるような橙の眼。角は枝のように広がり、背中の翼は半分破れている。それでも、ひとつの村なら焼き尽くせる威圧を纏っていた。
ドラゴン――のはずだった。
だが違う。
その額には、王冠のような骨の隆起がある。鱗には古い紋様。周囲の魔力が“従っている”。ただの上位個体ではない。群れを支配する、王の個体。
魔物たちの王。
ドラゴンはカイルを見て、鼻先を震わせた。
そして、口を開く。
「……人間」
言葉が、出た。
人語。理性。狡猾な光。
ドラゴンの喉が鳴り、嘲るように続けた。
「この森は、我の領域だ。貴様は……臭う。血の臭い。城の臭い。王の臭い」
カイルは無表情で剣を構える。
「……退け」
それだけ。
ドラゴンは笑った。牙の隙間から炎が揺れる。
「退けだと? 小さな肉片が。……だが、面白い。貴様の背後。弱い匂いがする」
カイルの指が、柄を握り締める。
「……見るな」
「見えるのだ。嗅げるのだ。食えるのだ」
ドラゴンの眼が、カイルの肩越し――リリスの方へ向いた。
次の瞬間、カイルの身体が動いた。
踏み込み。
剣閃。
空気が裂け、木々が薙がれ、ドラゴンの頬を浅く削る。
血が飛ぶ。
ドラゴンは驚いたように目を見開き、すぐに笑みを深めた。
「ほう……!」
ドラゴンの翼が広がり、衝撃波が走る。地面がえぐれ、枝が折れる。カイルはその風圧を斬り裂くように進む。
剣と爪がぶつかった。火花が散る。
カイルは一撃で決めるつもりだった。リリスに見せないために。時間をかける戦いは、最悪だ。
だが、ドラゴンの硬さは異常だった。
(王の個体……魔力で鱗を強化している)
普通なら、首が落ちる角度で斬っている。
なのに、傷が浅い。
ドラゴンは余裕を見せながら、口角を吊り上げた。
「貴様、強い。だが、守るものがあるな。守るものがある者は、いつも負ける」
炎が喉に溜まる。
ブレスの前兆。
カイルは踏み込もうとして――背後に、リリスの小さな声がした。
「パパ……」
震えている。
カイルは一瞬だけ視線を向けかけた。
その一瞬を、ドラゴンは逃さない。
炎が吐き出される。
森が昼間のように赤く染まり、熱が肌を刺す。
カイルは剣を逆手にして地面へ突き立てた。
闘気が壁となって立ち上がり、炎を弾く。
土が溶け、石が砕ける。だがカイルは一歩も退かない。
(……早く終わらせる)
カイルが剣を引き抜こうとした、その時。
炎の向こうで、ドラゴンが笑った。
そして、口を歪めて言った。
「背後の小さきもの。お前、甘い匂いがする」
カイルの目が鋭くなる。
「……言うな」
「食う」
ドラゴンの一言が落ちた瞬間。
背後の気配が、変わった。
リリスの震えが、消える。
代わりに、妙に落ち着いた静けさが生まれる。
カイルは背後に振り向こうとした。
だが、その前に――世界が、ひとつ瞬きをした。
ドラゴンの炎が、止まった。
いや、止まったのではない。
炎の“魔力”だけが、すっと抜け落ちたのだ。
赤い光が消え、残るのはただの熱い空気。
ドラゴンは咆哮しかけて、声が途切れる。
「……なに?」
その巨体が、ふらりと揺れた。
鱗の間を流れていた魔力が消え、王の威圧が崩れる。
カイルは反射で剣を構え直す。
仕留める好機。
だが、仕留める必要がなくなった。
ドラゴンは膝を折り――いや、四足を崩し、地面に倒れた。
首が落ちたわけではない。
胸が貫かれたわけでもない。
ただ、“急に死んだ”。
森が、しんと静まり返る。
カイルの眉が僅かに動いた。
こんな死に方は見たことがない。魔物が寿命で倒れるには若すぎる。毒でもない。外傷がない。
彼はゆっくりと振り向いた。
そこにいたのは、リリスだった。
外套の影から、ひょこっと顔を出し、両手を胸の前で握っている。
目はぱっちり開いていて、いつもの可愛い顔。
そして。
口の端に、黒い火花のようなものが、ほんの少しだけ残っていた。
魔力の残り香。
リリスはそれに気づいて、慌てて袖で口元を拭いた。
「えへへ……パパ、だいじょうぶ?」
カイルは言葉が出なかった。
目の前に倒れているのは、王のドラゴン。
背後にいるのは、五歳の娘。
結びつかない。
カイルはゆっくりとドラゴンへ近づいた。
鼻先を蹴る。反応なし。完全に死んでいる。
次に、リリスを見る。
リリスはにこにこしている。小さな手を背中に回し、何かを隠すようにして。
「……リリス」
「は、はい!」
呼ばれただけで背筋が伸びる。
叱られる気配を察知した子ども。
カイルは短く問う。
「……目を閉じてたか」
「と、途中まで閉じてた!」
「……途中」
「うん……ちょっとだけ、見ちゃった……」
カイルの眉がわずかに寄る。
「……怖かったか」
リリスの目が丸くなる。
予想していた叱責ではない。
「え……こ、こわかった……」
嘘ではない。ドラゴンの威圧は普通の子なら失神する。
リリスにとっては別の意味で“厄介”だっただけだが。
カイルは黙って近づき、リリスを抱き上げた。
ぎゅっと胸に押し付ける。小さな背中に手を回し、確かめるように撫でる。
「……もう大丈夫だ」
それだけを言う。
リリスは一瞬固まり――すぐに、しがみついた。
「パパ……!」
嬉しそうに、少し泣きそうに。
抱きしめられるのが、何よりのご褒美だ。
カイルは抱いたまま、倒れたドラゴンを見下ろした。
(……なぜ急死した)
答えは出ない。
ただ、背中のリリスが、ほんのり甘く、焦げた匂いがする。
カイルは気づいていないふりをした。
気づいてしまえば、世界が変わる。
今の平和が、プリン味の生活が、壊れる気がした。
「……帰る」
「うん!」
リリスの声は明るい。
カイルはドラゴンの死体から素材を剥ぎ取ろうとし、手を止めた。
王の個体の鱗や角は高く売れる。
だが、解体している間に“何か”が寄ってくるかもしれない。あるいは、ギルドに余計な話が届く。
カイルは、剣で地面を一度だけ叩いた。
闘気が走り、ドラゴンの死体の周囲の土が盛り上がる。簡易の埋葬。痕跡を隠すための土。
そしてリリスを抱いたまま、森を離れた。
◇◇◇
帰り道。
リリスはカイルの腕の中で、ずっと機嫌がよかった。
途中で見つけた花を指差し、「あれ、きれい」と言い、川の音を聞いて「おさかないるかな」と笑う。
その無邪気さの裏で、胸の奥が熱い。
(食べちゃった)
リリスは心の中で小さく反省した。
ドラゴンは危なかった。
パパが戦っているのに、あのままだとブレスで森ごと焼けて、パパの服が焦げる。髪が焦げる。最悪、パパが怒る。
だから、一瞬で“ごはん”にした。
魔力だけ。
命そのものを噛み砕く必要はない。魔力を抜けば、王の個体は支えを失って倒れる。あとは勝手に終わる。
(でも……おいしかった)
渦巻く魔力は濃厚で、甘くて、熱い。
先代魔王の記憶が舌の奥で笑った。
(もっと食べろ。もっと強くなれ)
リリスは小さく首を振る。
(だめ。パパに抱っこされるサイズがいい)
もし大きくなったら、抱っこが減る。
それは世界の終わりと同義だ。
だから、ほどほど。
ほどほどに、掃除する。
リリスは顔を上げ、カイルの横顔を見る。
無口で無愛想。だけど、リリスを見る時だけ、目が少し優しい。
(パパ、大好き)
胸がいっぱいになる。
だからこそ、隠す。
パパに知られたら、きっと――違う顔をする。
リリスはぎゅっと腕にしがみつき、わざと甘えた声を出した。
「パパ、おなかすいた!」
「……家で、食う」
「プリン?」
「……夜」
「やった!」
いつもの会話。
いつもの約束。
その平和のためなら、ドラゴン一匹くらい、いただいてもいい。
◇◇◇
夕方、村に戻ると、村人たちが驚いた顔で駆け寄ってきた。
「カイル! 無事かい!」
「森の方で、すごい音がしたって……!」
カイルは首を振る。
「……何もない」
村人は目を丸くする。
「何もないって……あんな地鳴りが――」
カイルはそれ以上言わず、リリスの頭を撫でた。
「……帰る」
リリスは村人たちににこにこ手を振る。
「ただいまー!」
村人たちは安堵して手を振り返す。
誰も気づかない。
この幼女が、森の王を“おやつ”にしたことに。
◇◇◇
夜。
小屋には甘い匂いが満ちていた。
鍋の中でプリンが揺れ、別の鍋でクリームが泡立てられている。カイルは黙々と作業し、リリスは椅子の上で足をぶらぶらさせて待つ。
「パパ、まだ?」
「……もう少し」
「はーい」
リリスは我慢できずに、テーブルを指でとんとん叩く。
カイルはその指を見て、短く言った。
「……行儀」
「ごめんなさい!」
即座に両手を膝に置く。
その素直さに、カイルはほんの少しだけ口元を緩めた。
プリンが皿に盛られ、白いクリームがのせられる。
最後に、村で買った小さなベリーをひとつ。
「……できた」
「わあぁ……!」
リリスの目が宝石みたいに光る。
「いただきます!」
「……いただきます」
リリスは一口食べて、頬を押さえた。
「おいしい……! 世界でいちばん!」
その言葉で、カイルの胸が静かに満たされる。
戦いで得た称号より、何よりも重い評価。
リリスは夢中で食べる。
クリームが口の端に少しついて、カイルが無言で布巾を差し出す。
「……拭け」
「えへへ」
拭きながら、リリスはふと思い出したように言った。
「ねえパパ」
「……ん」
「今日の森の敵、レベルひくかったね」
カイルの手が、わずかに止まる。
リリスは笑顔のまま続けた。
「だから、わたしが食べてもいい?」
沈黙が落ちる。
カイルはゆっくりとリリスを見る。
紫の瞳。無邪気な顔。子どもの冗談にしか見えない。
だが、胸の奥の違和感が、また小さく疼いた。
カイルは短く言った。
「……だめだ」
「えー」
「……悪いことを言う口には、食後のプリンはやらない」
リリスの背筋がぴんと伸びる。
「わわっ、ごめんなさいパパ! いい子にするからプリンください!」
必死な声。
カイルは目を細め、リリスの頭を撫でた。
「……分かればいい」
リリスはほっとして、プリンをまた一口食べる。
その口元には、昼間の魔力の残り香はもうない。
甘いプリンの匂いだけだ。
カイルは皿を洗いながら、窓の外を見る。
森は静かだ。あまりに静かだ。
(……妙だ)
でも、今は考えない。
考えるより、目の前の幸せを守る。
背後で、リリスが小さく呟いた。
(うん。いい子。パパの前では、ぜったい)
その声は、カイルには届かなかった。
届かないまま、夜は更ける。
そして森の奥では、王を失った魔物たちが、理解できない空白に怯え、逃げ出し始めていた。
――その空白が、幼い魔王の胃袋に収まったことなど、誰も知らずに。




