第4話「パパ、ギルドに再登録する?」
グラハム一行が逃げ帰ってから、村はしばらく落ち着かなかった。
表向きは平穏だ。畑は耕され、薪は割られ、子どもたちは川辺で石を投げて遊ぶ。だが大人たちは、森の奥の丸太小屋を遠巻きに見るようになった。
あの役人と騎士たちが、突然腰を抜かして逃げ出した。
しかも口々に「呪われている」と叫んだ。
何があったのか、誰も分からない。
分からないからこそ、想像が膨らむ。
カイルはそれを気にしなかった。気にする時間がない。
問題は別にあった。
「……金が足りない」
夜。小屋の台所。
カイルは木箱を開け、硬貨を指で数えていた。銀貨が七枚、銅貨が少し。生活はできる。だが――
棚の上にある紙包みが、彼の視線を引く。
王都からわざわざ取り寄せた砂糖。卵。牛乳。高い。
さらに、村の雑貨屋で見つけた小さなリボンや布地。リリスが「かわいい」と言ったから買った。高い。
そして今夜も言われた。
「パパ、明日はね、プリンの上にね、クリームのせたい!」
リリスが目を輝かせて言う。
カイルは、頷いた。
「……のせる」
言った瞬間、硬貨が足りないと分かった。
カイルは箱を閉めた。
引退して五年。戦わない生活は平和だ。だが平和は、金がかかる。
(……ギルド)
カイルは机の引き出しの奥を開け、古びた金属板を取り出した。
冒険者証。Sランクの刻印は削り落としてある。廃業した証。過去を捨てるための傷。
それでも、刻印の跡が残っている。
消えないものはある。
「……パパ?」
背後から小さな声。
リリスが布団から顔を出していた。眠そうな目。それでも、父の手元を見ている。
カイルは冒険者証をさっと隠すように握った。
「……起きてたか」
「うん。パパ、かなしい顔してた」
カイルの眉が僅かに動く。
悲しい顔。自分がそんな顔をするのか。
「……金のことだ」
「おかね?」
「……プリンが、高い」
リリスは一瞬ぽかんとしたあと、慌てて首を振った。
「プリンなくてもいい! わたし、いい子だから!」
その必死さが、カイルの胸を刺した。
カイルはリリスの布団の端に腰を下ろし、小さな頭に手を置いた。
「……違う」
短く言ってから、少しだけ言葉を足す。
「……お前が食べたいなら、用意する」
リリスの目が潤む。
「パパ……」
「……明日、町に行く」
「まち!」
リリスは跳ね起きた。
「いっしょにいく!」
「……だめだ。危ない」
危ない。役人の件。王都が動くかもしれない。リリスを見せたくない。
だが、リリスは布団から抜け出し、カイルの腕にしがみついた。
「やだ! パパといっしょがいい! わたし、いい子だよ! ちゃんと手つなぐ! おとなしくする!」
必死すぎて、息が詰まっている。
カイルは黙って抱き上げ、胸に寄せた。体温が伝わる。
(……離す方が危ない)
この子は、パパがいないと世界が終わると思っている顔をする。
カイルは諦めたように頷いた。
「……分かった。約束しろ」
「する!」
「……離れない。知らない奴に近づかない」
「うん!」
リリスは満面の笑みになった。
(……俺の負けだ)
カイルはため息を吐き、リリスを布団へ戻した。
その背中をとんとん叩き、眠りを促す。
「……寝ろ」
「うん。パパも、ねるんだよ」
「……ああ」
リリスが目を閉じるまで、カイルは側にいた。
言葉は少ない。
けれど、居る。触れる。守る。
それがこの男の愛情だった。
◇◇◇
翌朝。
村から半日歩いた先に、小さな町がある。石造りの門。露店。騒がしい声。グレイウッドとは別世界だ。
リリスはカイルの手をがっちり握り、目をきらきらさせた。
「すごい! ひとがいっぱい!」
「……離すな」
「うん!」
カイルは人混みを避けるように歩く。だが目指す場所はひとつ。冒険者ギルド。
建物は大きい。扉には剣と盾の紋章。中からは酒の匂いと怒号が漏れてくる。
リリスが小声で囁いた。
「ここ、こわい」
カイルは短く頷き、娘を抱き上げた。
「……見るな」
見るな、というより、見せない。
リリスの視界を胸で遮るように抱く。
ギルドの扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
熱気。汗。血。勝ち負けの匂い。
冒険者たちがテーブルで酒を飲み、依頼書を奪い合っている。受付前には列。掲示板には討伐依頼がびっしり貼られている。
その真ん中を、カイルが歩いた。
ざわ、と空気が揺れる。
誰かが、息を呑んだ。
誰かが、椅子から落ちた。
誰かが、酒を噴いた。
「……嘘だろ」
「生きてたのか……」
「いや、似てるだけだ。まさか――」
囁き声が連鎖して広がる。
カイルは気にしない。受付へ向かう。
受付嬢は書類を整理していたが、カイルを見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「……っ」
声が出ない。
目だけが、彼の顔を凝視する。確信と恐怖と懐かしさが混ざった目。
カイルは短く言った。
「……登録」
「と、登録……ですか?」
ようやく出た声が裏返る。
受付嬢は周囲を見回し、すぐに姿勢を正した。プロの顔になる。
「し、失礼しました。冒険者登録の手続きですね。ええと……お名前を」
「……カイル」
その名が落ちた瞬間、ギルド内のざわめきが一段上がった。
「カイル……?」
「生ける天災の……?」
「魔王を単独で……?」
受付嬢は震える指で書類を取り、目を泳がせた。
「カイル様……いえ、カイルさん。以前の登録は……」
「……消した」
「はい……記録上も、廃業扱いです」
受付嬢はごくりと唾を飲み、恐る恐る続けた。
「再登録の場合、通常はランクはEからの再開になりますが――」
「……それでいい」
即答だった。
周囲の冒険者が「は?」という顔をする。
受付嬢も目を丸くした。
「え、Eから……ですか?」
「……金が必要だ。危ない仕事はいらない」
その言葉で、リリスがカイルの胸から顔を出した。
「パパ、わたしは危なくないよ!」
場の空気が一瞬止まる。
銀髪と紫の瞳の幼女が、にこにこしている。
次の瞬間、ギルド内の荒くれた男たちの表情が溶けた。
「……かわいい」
「天使か?」
「おい、誰の子だ」
受付嬢も硬直してから、慌てて微笑んだ。
「お嬢さん……?」
「リリス! カイルのむすめ!」
その瞬間、ギルドの空気が別の意味で凍った。
「む、娘……?」
「カイルに……?」
「どういう世界線だ……」
カイルはリリスの頭を撫で、短く言った。
「……静かに」
「はーい」
素直に引っ込む。
受付嬢は咳払いをして仕事に戻ろうとした。
「では、再登録手続きに入ります。簡単な力量確認が必要ですが――」
「……いい」
カイルは手を差し出した。登録用の魔石に触れる。魔力と体力を測るためのものだ。
受付嬢が魔石を起動する。
淡い光が走り、数値が表示される――はずだった。
魔石が、ぱきん、と音を立てて割れた。
「……えっ」
受付嬢が固まる。
周囲の冒険者が息を呑む。
カイルは無表情で言った。
「……壊れた」
「そ、そうですね……! あの、すみません! 予備を――」
受付嬢が慌てて別の魔石を持ってくる。
触れる。
また割れる。
ぱきん。
ギルド内が静まり返った。
受付嬢は青ざめながら笑顔を作った。
「ええと……カイルさん。力量確認は……免除、ということで……」
「……助かる」
カイルは短く頷いた。
リリスが小声で囁く。
「パパ、つよすぎ」
「……普通だ」
普通ではない。
受付嬢は汗を拭きながら、依頼書の束を取り出した。
「安全な採取依頼、運搬依頼などがあります。危険度は低いですが、報酬も――」
「……それでいい」
カイルは迷わない。
戦うために戻ったのではない。娘にプリンを食べさせるために来たのだ。
受付嬢が依頼書を選ぶ。
「では、本日は“薬草採取(森の外縁)”。危険度E、報酬は銅貨三十枚。……お嬢さんは」
「ついてく」
「……離れない」
カイルが言うと、受付嬢は頷いた。
「分かりました。くれぐれもお気をつけて」
その時、背後から低い声がした。
「おい……カイル」
振り返ると、ひとりの男が立っていた。
傷だらけの革鎧。顔にも古い傷。だが目は鋭い。
カイルはその顔を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……バルド」
「やっぱりお前か。死んだって聞いたぞ」
「……死んでない」
バルドは苦笑し、視線をリリスへ落とす。
「で、これが……?」
「……娘だ」
バルドはしばらく黙り、次に腹を抱えて笑った。
「ははっ! 世界も変わるわけだ! 生ける天災が、子ども抱いて薬草採取だとよ!」
周囲の冒険者が釣られて笑いそうになり、しかしカイルの無表情に凍りつく。
バルドは咳払いをして真面目な顔になる。
「冗談はさておき。……気をつけろ。王都が妙に動いてる。辺境で異常があったって噂だ。監察官が逃げ帰ったとか」
カイルの目が僅かに鋭くなる。
「……リリスに、触れたか」
「そこまでは知らん。ただ、“影が”とか“呪い”とか、馬鹿みたいな話が回ってる」
リリスはにこにこしている。
何も知らない天使の顔で。
バルドはその顔を見て、声を落とした。
「……守るなら、徹底しろ。お前は強いが、世の中は剣だけで動かない」
カイルは短く頷いた。
「……分かってる」
分かっていない。
だが、守る。守り方が分からなくても守る。
カイルは依頼書を受け取り、ギルドを出ようとした。
その背に、リリスが元気よく言う。
「うちのパパ、すごいでしょ!」
声が大きい。
ギルド中に響く。
冒険者たちが一斉に頷き、口々に言った。
「すごい……」
「いや、すごいっていうか、災害……」
「お嬢ちゃん、それ自慢じゃなくて警告だ……」
リリスは満足そうに胸を張った。
カイルは小さくため息を吐き、娘の頭を撫でて歩き出す。
「……帰ったら、プリン」
「やった!」
その後ろで、受付嬢は震える手で記録簿に書き込んだ。
――再登録者:カイル。ランクE(本人希望)。
備考:測定魔石二つ破損。ギルド内、要注意(いろんな意味で)。
そして同じ頃。
王都へ向かう報告書の束の中に、「グレイウッド」「影」「銀髪の幼女」という文字が混じっていた。
次の来訪者は、役人などでは済まないかもしれない。
だが今のカイルは、そんなことを知らない。
彼の頭の中にあるのは、クリームをのせたプリンのことだけだった。




