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無口なSランク冒険者、引退して魔王の娘を育てる〜父と娘のスローライフ〜  作者: 綾瀬蒼


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第3話「パパに無礼な奴は、死よりも恐ろしい目に遭う」

 グレイウッドの朝は、だいたいいつも同じ匂いがする。


 湿った土。切り立ての木。煮込みスープ。焼きたてのパン。

 そして今日は、そこにひとつだけ混ざっていた。


 金の匂い。


 村の入口に、やけに派手な馬車が止まっていた。漆黒の車体に金の縁取り。御者の帽子には羽飾り。馬は太り、蹄鉄が新品で、足元の泥を嫌うように小刻みに足踏みしている。


 村人たちは遠巻きに、ひそひそと声を交わした。


「王都の役人かい?」

「騎士団もいるぞ」

「なんでこんな辺境に……」


 答えは、すぐに出た。


「この村の責任者は誰だ!」


 甲高い声が村の広場に響いた。馬車から降りてきたのは、腹の出た中年男だった。絹の服、指輪、香水の匂い。腰に佩いた剣は新品の飾り物で、抜かれたことがない光沢をしている。


 その後ろには、鎧に身を包んだ騎士が五名。旗を持った従者もいる。旗印は王国のものだ。


 村長が恐る恐る前に出た。


「は、はい。私が村長のバルトでございます。いかがなさいましたか」


 役人は鼻で笑い、巻物を広げた。


「王都直轄監察官、グラハムである。お前たちの村に、王都より重要な通達が来た。……近隣で不審な“魔力反応”が観測された。よって村の家屋、住民の身分、持ち物、すべて検査する」


 村人の顔色が変わる。


「魔力反応……?」

「まさか魔族が……」


 グラハムは村人たちの怯えを楽しむように顎を上げた。


「そうだ。魔族、あるいはその残党。魔王討伐は成されたが、血脈が残っていれば話は別だ。王国は万全を期す」


 その言葉で、村長の背筋に冷たいものが走った。

 血脈――その言葉が、森の奥の丸太小屋を指しているのは明白だった。


「さあ。怪しい者がいると聞いている。森の奥に住む木こりだ。名前は……」


 巻物を覗き込み、グラハムが口角を吊り上げる。


「カイル。無口で愛想もなく、身元も不明。村の外れで勝手に暮らしている。……まったく、辺境は野良犬の巣だな」


 騎士の一人が苦笑して言った。


「監察官殿、木こりごときが魔族のはずは――」


「黙れ。万が一という言葉を知らんのか」


 グラハムの目がギラつく。


「それに、妙な噂もある。『森に魔物が寄りつかない』『斧が見えない速度で薪が割れる』……笑える。だが笑えない。魔族の幻術や、禁呪の可能性もある」


 村人たちは顔を見合わせる。カイルのことは皆知っている。危険な男ではない。むしろ、困っている時に黙って助けてくれる男だ。


 それでも「王都直轄監察官」と名乗られると、村人は逆らえない。


 グラハムは旗を振らせた。


「行くぞ。全員、森へ案内しろ。抵抗すれば反逆罪だ」


 騎士たちが槍を鳴らし、村人の背中を押した。


 ◇◇◇


 丸太小屋の前に着いた時、煙突から白い煙が上がっていた。

 中で誰かが煮炊きしている。平和な匂い。プリンの甘さが、ほんの少し混ざっていた。


 グラハムは鼻を鳴らした。


「おい、木こり。開けろ」


 返事はない。


 騎士の一人が扉を叩く。二度、三度。

 内側から小さな足音が近づき、鍵が外れる音がした。


 扉が開く。


 そこにいたのは、銀髪の幼女だった。


「……どなたですか?」


 言葉遣いが丁寧すぎる。年齢に見合わない落ち着き。紫の瞳が、相手を真っ直ぐ見る。


 グラハムは一瞬、息を呑みかけた。

 だがすぐに、口元を歪める。


「ほう。噂の拾い子か。なるほど、妙に整った顔だ。……木こりは?」


「パパは、お仕事に行きました」


「パパ?」


 騎士が顔を見合わせる。


 グラハムはニヤついた。


「拾い子に父親ごっこをさせているか。気色悪い。まあいい。お前、名は?」


「リリスです」


「リリス。覚えた。お前は今から王都へ来い」


 リリスが瞬きをする。


「……どうしてですか?」


「検査だ。お前の血、目、骨、魂まで調べる。魔族の血が混じっていれば、その場で処分だ」


 村人たちがざわめく。


「こ、子どもにそんな……」

「監察官殿、もう少し――」


「黙れ」


 グラハムは手を振り、騎士に命じた。


「連れていけ。木こりが戻る前に終わらせる」


 騎士が一歩前に出る。

 リリスは扉の前から退かない。むしろ、少しだけ首を傾げた。


「パパは、わたしをいじめる人が嫌いです」


「だから何だ。たかが木こりが王都に逆らえるとでも?」


 グラハムは笑った。


「一つ教えてやろう。辺境の木こりは、王都の塵より価値がない」


 その瞬間、村の空気がひやりと冷えた。


 リリスの表情は崩れない。

 ただ、紫の瞳の奥で、何かが灯る。


(……パパを、塵って言った)


 胸の奥で古い記憶が囁く。

 怒れ、滅ぼせ、喰らえ。

 王として、王を侮辱した者に罰を。


 でも、リリスは小さく深呼吸した。


(だめ。いい子。パパに叱られる)


 だから、こうする。


 パパが知らないところで、静かに掃除する。

 泣かせない。怒らせない。プリンは守る。


 リリスはにこ、と笑った。


「……わかりました。王都に行きます」


「賢いじゃないか」


 グラハムが勝ち誇る。

 騎士がリリスの腕を掴もうと手を伸ばした。


 その手が、止まった。


 騎士の足元。日差しで伸びた影が、ゆっくりと揺れたのだ。

 風でもないのに。


「……?」


 騎士が不審そうに足元を見る。

 影が、じわりと黒く濃くなっていく。まるで、墨が水に溶けるみたいに。


 リリスは小さく囁いた。


「ここ、うるさくしないでね」


 声は甘い。子どものお願い。

 だが、影が応えた。


 騎士の影が、床から剥がれる。

 本人は気づかない。影を失った瞬間、胸の奥が空っぽになったことに。


 騎士の顔色が青くなる。


「な、なんだ……急に寒気が――」


 次の瞬間、騎士の視界が暗転した。

 目の前にいる幼女の姿が、巨大な“何か”に重なって見えた。


 玉座。

 闇。

 終わらない飢え。


 騎士は喉を鳴らし、膝から崩れ落ちた。


「ひ……っ、ひぃ……!」


 叫び声を上げかけて、口が止まる。

 声が出ない。喉が凍る。

 恐怖だけが、胸の中で増殖する。


 グラハムが顔をしかめる。


「おい、何をしている! 情けない!」


 もう一人の騎士が前に出る。

 しかし、同じだ。影がゆらめき、足元から黒が這い上がる。


 騎士は槍を構えたまま、急に泣きそうな顔になった。


「……やめろ」


 自分でも分からない相手に懹願する声。


 リリスは首を傾げる。


「やめてほしいのは、こっちだよ?」


 ぱくり、と音のない“食事”が続く。


 影が薄くなるたび、騎士の心に、言葉にならない恐怖が刻まれていく。

 死ではない。

 逃げても逃げてもついてくる、「思い出」になる恐怖。


 村人たちには何が起きているのか分からない。

 ただ、屈強な騎士たちが次々と膝をつき、涙と涎を垂らし、震えていくのを見て、背筋が凍った。


 グラハムだけが、状況を理解できないまま怒鳴り続ける。


「何だこれは! 貴様ら、演技か! 立て! 立てえ!」


 リリスはグラハムを見る。


(この人が、一番うるさい)


 言葉が多い。偉そう。パパを侮辱した。

 だから、少しだけ。


 リリスは、つま先で影を踏んだ。


 グラハムの影は、他の影より濃かった。

 欲望と恐れが詰まった影だ。


 影が、くねる。

 黒い舌みたいに伸びて、グラハムの足首に絡みつく。


「なっ……!」


 グラハムは腰を抜かして尻もちをついた。


 足元の影が、今まで見たことのない形に変わっていく。

 巨大な口。

 無数の歯。

 暗闇の奥に、紫の光。


 グラハムは叫んだ。


「や、やめろ! 何だそれは! 魔族の術か! 騎士! 守れ! 守れええ!」


 騎士たちは動けない。

 彼らの影はすでに薄く、心は折れていた。


 グラハムの影が、口を開いた。


 そして――影が、囁いた。


『おまえは、何を“偉い”と思っている?』


 声は、グラハムの頭の中に直接響いた。

 彼自身の声のようでもあり、世界の底から響くようでもある。


 グラハムは白目を剥いた。


「ひ、ひぃ……! 助けて……!」


 影は、彼の胸に恐怖を流し込む。

 一生抜けない種類の恐怖。

 夜になるたび思い出す恐怖。

 鏡を見るたび、自分の影が口を開いている気がする恐怖。


 リリスはにこにこしたまま、言った。


「大きな声を出すとね。パパが起きちゃうよ?」


 グラハムは、がたがたと首を振った。


「す、すみません! 失礼でした! どうか……どうか命だけは……!」


 リリスは首を傾げる。


「命はいらないよ?」


 そして、小さく手を叩いた。


 ぱちん。


 影は、すっと元に戻った。

 騎士たちの影も戻る。だが“欠けた部分”だけは戻らない。そこに刻まれた恐怖も戻らない。


 騎士たちは転がるように後退し、村の入口へ向かって逃げ出した。

 グラハムも這うように立ち上がり、泥だらけのまま馬車へ駆ける。


「撤退! 撤退だ! この村は……この村は呪われている!!」


 馬車が急発進し、騎士たちが必死に追いすがる。

 旗が地面を引きずり、泥を跳ね上げながら、王都の方向へ逃げ去っていった。


 広場に残ったのは、呆然とする村人たちと、扉の前に立つ小さな少女だけだった。


 リリスは村人たちに向かって、ぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい。びっくりしたよね」


 その言葉は、いつもの可愛いリリスの声だった。

 村人たちは、何も言えない。何も理解できない。ただ、彼女が無事でよかったという思いだけが、遅れて湧いてくる。


 リリスは小屋に戻り、扉を閉めた。


(セーフ)


 心臓が少しだけ速い。

 やりすぎた? でも殺してない。声も大きく出させなかった。

 パパにはバレない。たぶん。


 リリスは棚を見上げる。

 昨夜のプリンの器はもう空だ。けれど、材料はまだ残っている。


(……今日も、プリン食べたい)


 その時、外から足音が近づいた。

 森を踏む、重くて静かな足音。


 カイルだ。


 リリスは瞬時に表情を作り直す。

 笑顔。天使の笑顔。何もなかった笑顔。


 扉が開き、カイルが入ってくる。

 肩に薪、斧、そして袋。村で買った砂糖と卵だ。


 カイルは室内を見回し、眉を僅かに動かした。


「……人が来たか」


 村の空気の乱れ。残る匂い。僅かな恐怖の味。

 彼には分かる。戦場で鍛えた感覚が、否応なしに拾ってしまう。


 リリスは両手を広げて飛びついた。


「パパー! おかえり!」


 カイルは受け止め、抱き上げる。

 胸に押し当てるようにして、体温を確かめた。


「……怪我は」


「ないよ! わたし、いい子だった!」


「……そうか」


 カイルはリリスの髪を撫で、次に小さな手を見た。

 汚れはない。血もない。問題ない。


 それでも、引っかかる。


「……何があった」


 リリスの心臓がきゅっとなる。


(バレた? バレた?)


 泣きそうになるのを堪えて、リリスはにこっと笑う。

 嘘は苦手。だから、半分だけ本当を言う。


「へんなおじさんたちが来てね、パパのこと、わるく言ったの」


 カイルの目が、ほんの少しだけ細くなる。

 温度が下がる。


「……何を」


「木こりは王都の塵より価値がない、って」


 言った瞬間、空気が重くなった。


 カイルは無言で、袋を床に置く。

 ゆっくりと外套を脱ぐ。

 それだけで、小屋の中が静まり返る。


 リリスは慌てて続けた。


「でもね! すぐ帰ったよ! みんな勝手に帰ったの! わたし、何もしてない!」


 最後はほとんど叫びだった。


 カイルはリリスを抱いたまま、しばらく黙っていた。

 そして短く言う。


「……よく耐えた」


「え……?」


「……嫌だったろう」


 それは叱責ではなかった。

 慰めだった。


 リリスの胸の奥が、じわっと熱くなる。

 パパは怒ってない。疑ってない。私を守ろうとしてる。


 カイルはリリスをそっと床に下ろし、膝をつく。

 目線を合わせ、短く告げた。


「……次からは、俺がいる時に言え」


「う、うん……」


「……お前に、触るな」


 言葉は少ない。けれど、刃物みたいに鋭い守りの宣言だった。


 リリスはこくこく頷く。

 涙が出そうで、慌てて笑顔にする。


「じゃ、じゃあ、プリン!」


 カイルの目が少しだけ緩む。


「……作る」


 台所へ向かう背中が、いつもより少し硬い。

 怒りを抱えているのが分かる。けれどそれは、リリスに向けたものではない。


(よかった)


 リリスは胸を撫で下ろした。


(掃除、成功)


 パパは今日もプリンを作る。

 パパは今日も私のパパ。

 世界は壊れない。


 ――その夜。


 村を離れていく馬車の中で、グラハムは震えながら同僚へ報告書を書いていた。


「辺境に、異常あり。魔王残党の可能性……いや、それ以上だ。あの村には、“何か”がいる。影が……影が……」


 彼は書く手を止め、足元を見た。


 馬車の揺れで揺れる自分の影が、ほんの一瞬だけ――口を開いたように見えた。


「ひっ……!」


 グラハムは悲鳴を飲み込み、歯を鳴らしながら筆を走らせた。


 恐怖は消えない。

 影は逃げない。


 そして報告書は、やがて王都の上層部に届く。


 グレイウッドに住む無口な木こりと、その娘へ向けて。

 次の“厄介”を連れてくるために。

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