表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無口なSランク冒険者、引退して魔王の娘を育てる〜父と娘のスローライフ〜  作者: 綾瀬蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/9

第2話「それから五年、辺境の生活はプリン味」

 朝日が森の梢を舐め、霧が白い布のように地面を這う。


 辺境の村グレイウッドは静かだった。王都の鐘の音も、貴族の馬車も、ここには届かない。届くのは、鳥の声と風の匂いと――


 ドン、ドン、ドン、と、規則正しい衝撃音だけだ。


 村の外れ。森の奥にぽつりと建つ丸太小屋。その裏庭で、無口な木こりの男が薪を割っていた。


 斧が振り下ろされる。薪が二つに割れる。次の薪が置かれる。斧が振り下ろされる。薪が二つに割れる。


 それが早い。


 いや、早いという言葉では足りない。斧が見えない。薪が置かれたと思った瞬間、すでに割れて積み上がっている。


 隣家のミラ婆さんが畑を耕しながら、目を細めた。


「……あれは木こりっていうか、天災だねえ」


 言いながらも、彼女は驚かない。この村に越してきた男――カイルが「普通じゃない」ことは、とっくに村の常識になっていた。腕力がやたら強い。森の奥に入っても魔物が寄りつかない。冬でも怪我ひとつしない。


 だが、村人たちがもっとよく知っているのは、別の常識だった。


 彼が、娘にとにかく甘いことだ。


「パパー! おはよ!」


 小屋の扉が勢いよく開き、銀髪の幼女が飛び出してきた。朝日を受けてきらめく髪と、夜を溶かしたような紫の瞳。頬はふっくら、手足は小さく、声は鈴みたいに澄んでいる。


 リリス、五歳。


 村の宝。歩く天使。ミラ婆さんの孫が泣き止む魔法使い。そう呼ばれている。


 カイルは斧を止め、無言で振り向いた。


 そして、しゃがむ。


 娘の身長に合わせる。その一動作が、薪割りの速度とは真逆で、やけに丁寧だった。


「……寒くないか」


「だいじょうぶ! だって、あったかいもん!」


 リリスは胸を張って、自分の薄い上着をぱたぱた叩く。明らかに寒そうなのに、本人は平気そうだ。


 カイルは眉をわずかに動かし、娘の首元に手を伸ばした。巻き直すようにマフラーを整える。結び目をきゅっと締め、冷たい風が入らないようにする。


「……外に出るなら、これ」


「えへへ。パパ、ありがと!」


 笑顔の破壊力に、カイルの呼吸が一拍遅れた。


(……危ない)


 何が危ないのか、自分でも分からない。戦場での危険とは違う。胸が締め付けられて、変な音が喉の奥に詰まる。喜びとか、愛しさとか、そういう名のつくものの危険。


 カイルは咳払いを一つして立ち上がり、斧を肩に担いだ。


「……朝飯」


「やった! 今日なにー?」


「……卵と、スープ」


「わあ! あれ好き! あとね、あとね、プリンは?」


 リリスが目を輝かせる。


 カイルは少しだけ考えたふりをして、短く言った。


「……夜。いい子なら」


「いい子になる! すっごくいい子!」


 村中に聞こえそうな勢いで宣言してから、リリスはぱたぱたと小屋へ戻っていった。


 ミラ婆さんは畑の鍬を止め、にやにや笑う。


「カイル。あんた、そのうちプリンで村一つ養うことになるよ」


 カイルは返事をしない。返事の代わりに、薪を抱えて小屋へ入った。


 ◇◇◇


 小屋の中は、木の匂いと煮込みの香りで満ちていた。


 鍋の中で野菜が踊り、フライパンで卵がじゅうじゅう音を立てる。カイルは無言で手際よく動く。包丁の音は小気味よい。だが、動きの端々には妙な慎重さがある。


 熱い油が跳ねないように。

 刃がリリスの手に触れないように。

 火が強すぎて焦げないように。


 戦う時の慎重さとは方向が違う。守るための慎重さだ。


「パパ、わたし、おさらあらいする!」


 リリスが小さな桶を引きずってきた。


「……無理だ。水が冷い」


「だいじょうぶ! わたし、つよいもん!」


 リリスはむん、と拳を握る。


 カイルは一瞬だけ迷い、布巾を渡した。


「……拭く。これなら」


「うん!」


 リリスは誇らしげに皿を拭き始めた。拭き方は雑だが、本人は真剣だ。舌をちょっと出して集中している。


 カイルはその姿を横目に、スープの味を確かめた。塩をほんの少し足す。


「……できた」


 テーブルに朝食が並ぶ。スープ、卵、焼いたパン。村で買った小さなバターも添えてある。


 リリスが椅子によじ登る。


「いただきます!」


「……いただきます」


 リリスはスープを一口飲んで、目を丸くした。


「おいしい!」


 それだけで、カイルの胸が満たされる。食卓という場所が、彼にとっての戦利品だった。


 リリスは食べるのが早い。だが行儀はいい。パンをちぎってスープに浸し、こぼさないように口へ運ぶ。時々、カイルの顔を見て「おいしい?」と聞く。


「……うまい」


「えへへ!」


 たった一言で喜ぶ。それが、また胸を締め付ける。


 食事が終わる頃、外で鳥が騒ぎ始めた。森の方角。何かが動いた気配。


 カイルの視線が窓へ向く。反射的な警戒。


 だが、窓の外に見えるのはいつもの森だ。風が木々を揺らし、日が差すだけ。


 カイルは立ち上がり、道具を整え始めた。木こりの仕事の時間だ。


「リリス。今日は家で――」


「留守番!」


 リリスが先回りして言った。


 カイルは頷き、娘の頭に手を置いた。わしゃわしゃと乱すのではなく、そっと撫でる。


「……いい子だ」


「うん! プリンのために!」


 その一点に全力なところが、たまらなく愛しい。


 カイルは外套を羽織り、斧と縄を肩に担いだ。


「……戸締まり。知らない人には開けるな」


「はーい!」


 返事は完璧だ。


 カイルは一度だけ振り返り、リリスがちゃんと家の中にいるのを確認してから、小屋を出た。森へ向かう。無音の足取り。木々が揺れるだけで、彼の姿は消えた。


 残された小屋の中で、リリスはしばらく扉を見つめていた。


 父の足音が完全に消えた頃。


 リリスは、ふっと息を吐いた。


「……よし」


 声の調子が変わる。可愛い子どものそれでありながら、どこか落ち着きすぎている。


 リリスは窓の近くへ行き、外を見る。森の端。木々の影が、妙に濃い。


(また来た)


 五歳の胸の奥で、古い記憶がざわめいた。


 燃える城。

 玉座。

 砕けた誇り。

 そして、最後に見た――剣を持つ男の背中。


(……あの時の私、泣いてたんだっけ)


 リリスは自分の頬に指を当てる。涙の感触はもう思い出せない。けれど、覚えていることがある。


 大事なことがある。


(パパ)


 あの男が、私を拾った。

 殺すはずだったのに、抱いた。

 怖がるはずだったのに、優しかった。


 だから私は決めた。


 この人の前では、最高に可愛い愛娘でいる。

 いい子でいる。

 わがままは少しだけ。

 怒らせない。

 悲しませない。


(……だって、パパが泣いたら、世界が壊れちゃう)


 リリスは自分の言葉に、少し笑った。


 冗談ではない。

 本気だ。


 彼は強い。強すぎる。あの剣の一振りで、私の城は終わった。先代魔王の記憶が教えてくれる。あれは「人間」ではなく、災厄だ。


 その災厄が、今は私のために卵を焼く。


(かわいい)


 リリスは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。嬉しい。幸せ。ああ、これが「家族」なのかと、記憶がないのに理解する。


 だが同時に、森の影が動く。


 人影。数人。鎧の擦れる音。笑い声。


 リリスの紫の瞳が細くなる。


(……パパのいないところで、うろうろしないでほしいな)


 彼らの匂いは知っている。

 魔王軍の残党。

 先代魔王に忠誠を誓っていた者たちだ。かつての私の配下。あるいは、私を利用しようとする連中。


 彼らは、私を連れ戻すつもりだろう。

 もしくは、パパを殺すつもりだろう。


 どちらも、嫌だ。


 リリスは小さな手で窓枠を掴み、にこ、と笑った。

 外から見れば、ただの無邪気な子どもの笑顔だ。


(掃除しなきゃ)


 私はいい子。

 だからパパの邪魔をするものは、私が片付ける。


 リリスは扉へ向かった。戸締まり? 関係ない。鍵は内側から開ければいい。パパとの約束は守る。知らない人には開けない。だから――


 自分から外へ出れば、問題ない。


 外に出た瞬間、森の冷たい空気が頬を撫でた。


 影の中から、男たちが現れる。黒い外套、角飾りの付いた兜。目が血走っている。


「姫様……!」


 彼らは跪いた。五歳の幼女に、恭しく頭を垂れる。


「お待ちしておりました。お戻りを。あなたこそ、我らが――」


 リリスは首を傾げ、指を唇に当てた。


「しーっ」


 男たちが口を閉じる。


 リリスは困った顔を作った。いつもパパの前でやる、可愛い困り顔。


「ここで大きな声を出したらね、パパが気づいちゃうの」


「しかし姫様! あの人間は魔王様を――」


「うん。知ってる」


 声が冷える。

 男たちが背筋を震わせた。


「だからね。パパに会いに来るの、やめて」


「姫様……?」


 リリスはにこにこ笑う。笑顔はそのまま、瞳の奥が暗く光った。


「会いに来たってことは、パパに何かするつもりでしょ?」


「い、いえ……! 姫様をお守りするため――」


「うそ」


 リリスが一歩近づく。


 次の瞬間。


 男の影が、床から剥がれた。


 まるで黒い布が引きずり出されるみたいに、影だけがリリスの足元へ滑っていく。男は気づかない。影を失ったことに。


 リリスはしゃがみ込み、指先で影をつまんだ。


「いただきます」


 ぱくり。


 指先の黒が、口の中に吸い込まれる。音はしない。匂いもない。ただ、男の顔色が青くなり、膝ががくんと折れる。


「ひ……っ」


 残りの男たちが後ずさる。


 リリスは首を傾げた。可愛い仕草。


「うるさい口はね、プリンがもらえないんだよ?」


 男たちには意味が分からない。

 だが恐怖だけは分かった。


 リリスは次の影に手を伸ばす。二つ、三つ。黒が溶けるように消えていく。男たちは喉を掻きむしり、視線が定まらなくなり、森の奥へ逃げようとする。


 逃げられない。


 影は、足元にある限り、私のごはんだ。


「ごちそうさま」


 最後のひとつを食べ終えたリリスは、口元を袖で拭いた。ちょっとだけ、甘い焦げの匂いが残る。魔力の味。


 男たちは倒れていた。死んではいない。たぶん。けれど影を喰われた者は、もう“同じ”ではない。恐怖が骨の髄まで刻まれる。二度とここへは来ない。


(うん。いい子)


 リリスは満足して、森へ向かって小さく手を振った。影のない地面が、からんと静かになった。


 そして何事もなかったように小屋へ戻り、戸を閉め、鍵をかけた。


 約束は守った。

 知らない人には、開けてない。


 リリスは台所へ行き、棚の上の瓶を見上げる。中身は卵と牛乳と砂糖。プリンの材料。


(パパ、帰ってきたら作ってくれる)


 胸がぽわっと暖かくなる。


 けれど同時に、腹の底がじわりと熱い。さっき食べた魔力が、体の奥で渦を巻いている感じがする。嫌ではない。むしろ心地いい。栄養が満ちていく。


(……食べすぎると、また大きくなっちゃうかな)


 五歳の体は小さい。このサイズが、パパに抱っこされるのにちょうどいい。


 だから、ほどほどにしなきゃ。


 リリスは自分に言い聞かせるように頷いた。


「今日は……これくらいで、がまん」


 その時、外から足音が近づいた。


 カイルだ。


 リリスは瞬時に表情を切り替える。無邪気な笑顔。両手を広げる。


「パパー! おかえり!」


 扉が開き、木こりの男が入ってくる。肩には丸太。背中には森の匂い。


 カイルはリリスを見るなり、僅かに目を細めた。


「……留守番、できたか」


「できた! すっごくいい子だったよ!」


「……そうか」


 カイルは丸太を下ろし、手を洗い、リリスの頭に手を置く。撫でる。ゆっくり。確かめるみたいに。


 リリスはくすぐったそうに笑った。


 ――その手のひらに、微かに残る魔力の匂いに、カイルが気づかなかったのは幸運だった。


 気づいていたら、彼はまた“正解”を選ぼうとしたかもしれないから。


「……約束だ」


 カイルは短く言って、台所の棚を見上げた。


 プリンの材料。


 リリスの目が輝く。


「わあ! プリン!」


「……作る。待ってろ」


「うん!」


 リリスは椅子に座り、足をぶらぶらさせながら、パパの背中を見つめた。


(パパが笑ってる)


 口元はほとんど動かない。けれど、雰囲気が柔らかい。肩の力が抜けている。私の世界で一番大好きな光景。


 だから私は、これからもいい子でいる。


 パパが知らないところで、全部掃除して。

 パパが安心してプリンを作れるように。

 パパがずっと、私のパパでいられるように。


 リリスは小さく呟いた。


「パパの敵は……わたしが、いただきます」


 カイルの背中に聞こえないように、甘い声で。


 鍋の中で、プリンの液が静かに温まっていく。

 その甘い匂いが、小屋の中を満たす。


 平和は今日も、プリン味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ