第2話「それから五年、辺境の生活はプリン味」
朝日が森の梢を舐め、霧が白い布のように地面を這う。
辺境の村グレイウッドは静かだった。王都の鐘の音も、貴族の馬車も、ここには届かない。届くのは、鳥の声と風の匂いと――
ドン、ドン、ドン、と、規則正しい衝撃音だけだ。
村の外れ。森の奥にぽつりと建つ丸太小屋。その裏庭で、無口な木こりの男が薪を割っていた。
斧が振り下ろされる。薪が二つに割れる。次の薪が置かれる。斧が振り下ろされる。薪が二つに割れる。
それが早い。
いや、早いという言葉では足りない。斧が見えない。薪が置かれたと思った瞬間、すでに割れて積み上がっている。
隣家のミラ婆さんが畑を耕しながら、目を細めた。
「……あれは木こりっていうか、天災だねえ」
言いながらも、彼女は驚かない。この村に越してきた男――カイルが「普通じゃない」ことは、とっくに村の常識になっていた。腕力がやたら強い。森の奥に入っても魔物が寄りつかない。冬でも怪我ひとつしない。
だが、村人たちがもっとよく知っているのは、別の常識だった。
彼が、娘にとにかく甘いことだ。
「パパー! おはよ!」
小屋の扉が勢いよく開き、銀髪の幼女が飛び出してきた。朝日を受けてきらめく髪と、夜を溶かしたような紫の瞳。頬はふっくら、手足は小さく、声は鈴みたいに澄んでいる。
リリス、五歳。
村の宝。歩く天使。ミラ婆さんの孫が泣き止む魔法使い。そう呼ばれている。
カイルは斧を止め、無言で振り向いた。
そして、しゃがむ。
娘の身長に合わせる。その一動作が、薪割りの速度とは真逆で、やけに丁寧だった。
「……寒くないか」
「だいじょうぶ! だって、あったかいもん!」
リリスは胸を張って、自分の薄い上着をぱたぱた叩く。明らかに寒そうなのに、本人は平気そうだ。
カイルは眉をわずかに動かし、娘の首元に手を伸ばした。巻き直すようにマフラーを整える。結び目をきゅっと締め、冷たい風が入らないようにする。
「……外に出るなら、これ」
「えへへ。パパ、ありがと!」
笑顔の破壊力に、カイルの呼吸が一拍遅れた。
(……危ない)
何が危ないのか、自分でも分からない。戦場での危険とは違う。胸が締め付けられて、変な音が喉の奥に詰まる。喜びとか、愛しさとか、そういう名のつくものの危険。
カイルは咳払いを一つして立ち上がり、斧を肩に担いだ。
「……朝飯」
「やった! 今日なにー?」
「……卵と、スープ」
「わあ! あれ好き! あとね、あとね、プリンは?」
リリスが目を輝かせる。
カイルは少しだけ考えたふりをして、短く言った。
「……夜。いい子なら」
「いい子になる! すっごくいい子!」
村中に聞こえそうな勢いで宣言してから、リリスはぱたぱたと小屋へ戻っていった。
ミラ婆さんは畑の鍬を止め、にやにや笑う。
「カイル。あんた、そのうちプリンで村一つ養うことになるよ」
カイルは返事をしない。返事の代わりに、薪を抱えて小屋へ入った。
◇◇◇
小屋の中は、木の匂いと煮込みの香りで満ちていた。
鍋の中で野菜が踊り、フライパンで卵がじゅうじゅう音を立てる。カイルは無言で手際よく動く。包丁の音は小気味よい。だが、動きの端々には妙な慎重さがある。
熱い油が跳ねないように。
刃がリリスの手に触れないように。
火が強すぎて焦げないように。
戦う時の慎重さとは方向が違う。守るための慎重さだ。
「パパ、わたし、おさらあらいする!」
リリスが小さな桶を引きずってきた。
「……無理だ。水が冷い」
「だいじょうぶ! わたし、つよいもん!」
リリスはむん、と拳を握る。
カイルは一瞬だけ迷い、布巾を渡した。
「……拭く。これなら」
「うん!」
リリスは誇らしげに皿を拭き始めた。拭き方は雑だが、本人は真剣だ。舌をちょっと出して集中している。
カイルはその姿を横目に、スープの味を確かめた。塩をほんの少し足す。
「……できた」
テーブルに朝食が並ぶ。スープ、卵、焼いたパン。村で買った小さなバターも添えてある。
リリスが椅子によじ登る。
「いただきます!」
「……いただきます」
リリスはスープを一口飲んで、目を丸くした。
「おいしい!」
それだけで、カイルの胸が満たされる。食卓という場所が、彼にとっての戦利品だった。
リリスは食べるのが早い。だが行儀はいい。パンをちぎってスープに浸し、こぼさないように口へ運ぶ。時々、カイルの顔を見て「おいしい?」と聞く。
「……うまい」
「えへへ!」
たった一言で喜ぶ。それが、また胸を締め付ける。
食事が終わる頃、外で鳥が騒ぎ始めた。森の方角。何かが動いた気配。
カイルの視線が窓へ向く。反射的な警戒。
だが、窓の外に見えるのはいつもの森だ。風が木々を揺らし、日が差すだけ。
カイルは立ち上がり、道具を整え始めた。木こりの仕事の時間だ。
「リリス。今日は家で――」
「留守番!」
リリスが先回りして言った。
カイルは頷き、娘の頭に手を置いた。わしゃわしゃと乱すのではなく、そっと撫でる。
「……いい子だ」
「うん! プリンのために!」
その一点に全力なところが、たまらなく愛しい。
カイルは外套を羽織り、斧と縄を肩に担いだ。
「……戸締まり。知らない人には開けるな」
「はーい!」
返事は完璧だ。
カイルは一度だけ振り返り、リリスがちゃんと家の中にいるのを確認してから、小屋を出た。森へ向かう。無音の足取り。木々が揺れるだけで、彼の姿は消えた。
残された小屋の中で、リリスはしばらく扉を見つめていた。
父の足音が完全に消えた頃。
リリスは、ふっと息を吐いた。
「……よし」
声の調子が変わる。可愛い子どものそれでありながら、どこか落ち着きすぎている。
リリスは窓の近くへ行き、外を見る。森の端。木々の影が、妙に濃い。
(また来た)
五歳の胸の奥で、古い記憶がざわめいた。
燃える城。
玉座。
砕けた誇り。
そして、最後に見た――剣を持つ男の背中。
(……あの時の私、泣いてたんだっけ)
リリスは自分の頬に指を当てる。涙の感触はもう思い出せない。けれど、覚えていることがある。
大事なことがある。
(パパ)
あの男が、私を拾った。
殺すはずだったのに、抱いた。
怖がるはずだったのに、優しかった。
だから私は決めた。
この人の前では、最高に可愛い愛娘でいる。
いい子でいる。
わがままは少しだけ。
怒らせない。
悲しませない。
(……だって、パパが泣いたら、世界が壊れちゃう)
リリスは自分の言葉に、少し笑った。
冗談ではない。
本気だ。
彼は強い。強すぎる。あの剣の一振りで、私の城は終わった。先代魔王の記憶が教えてくれる。あれは「人間」ではなく、災厄だ。
その災厄が、今は私のために卵を焼く。
(かわいい)
リリスは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。嬉しい。幸せ。ああ、これが「家族」なのかと、記憶がないのに理解する。
だが同時に、森の影が動く。
人影。数人。鎧の擦れる音。笑い声。
リリスの紫の瞳が細くなる。
(……パパのいないところで、うろうろしないでほしいな)
彼らの匂いは知っている。
魔王軍の残党。
先代魔王に忠誠を誓っていた者たちだ。かつての私の配下。あるいは、私を利用しようとする連中。
彼らは、私を連れ戻すつもりだろう。
もしくは、パパを殺すつもりだろう。
どちらも、嫌だ。
リリスは小さな手で窓枠を掴み、にこ、と笑った。
外から見れば、ただの無邪気な子どもの笑顔だ。
(掃除しなきゃ)
私はいい子。
だからパパの邪魔をするものは、私が片付ける。
リリスは扉へ向かった。戸締まり? 関係ない。鍵は内側から開ければいい。パパとの約束は守る。知らない人には開けない。だから――
自分から外へ出れば、問題ない。
外に出た瞬間、森の冷たい空気が頬を撫でた。
影の中から、男たちが現れる。黒い外套、角飾りの付いた兜。目が血走っている。
「姫様……!」
彼らは跪いた。五歳の幼女に、恭しく頭を垂れる。
「お待ちしておりました。お戻りを。あなたこそ、我らが――」
リリスは首を傾げ、指を唇に当てた。
「しーっ」
男たちが口を閉じる。
リリスは困った顔を作った。いつもパパの前でやる、可愛い困り顔。
「ここで大きな声を出したらね、パパが気づいちゃうの」
「しかし姫様! あの人間は魔王様を――」
「うん。知ってる」
声が冷える。
男たちが背筋を震わせた。
「だからね。パパに会いに来るの、やめて」
「姫様……?」
リリスはにこにこ笑う。笑顔はそのまま、瞳の奥が暗く光った。
「会いに来たってことは、パパに何かするつもりでしょ?」
「い、いえ……! 姫様をお守りするため――」
「うそ」
リリスが一歩近づく。
次の瞬間。
男の影が、床から剥がれた。
まるで黒い布が引きずり出されるみたいに、影だけがリリスの足元へ滑っていく。男は気づかない。影を失ったことに。
リリスはしゃがみ込み、指先で影をつまんだ。
「いただきます」
ぱくり。
指先の黒が、口の中に吸い込まれる。音はしない。匂いもない。ただ、男の顔色が青くなり、膝ががくんと折れる。
「ひ……っ」
残りの男たちが後ずさる。
リリスは首を傾げた。可愛い仕草。
「うるさい口はね、プリンがもらえないんだよ?」
男たちには意味が分からない。
だが恐怖だけは分かった。
リリスは次の影に手を伸ばす。二つ、三つ。黒が溶けるように消えていく。男たちは喉を掻きむしり、視線が定まらなくなり、森の奥へ逃げようとする。
逃げられない。
影は、足元にある限り、私のごはんだ。
「ごちそうさま」
最後のひとつを食べ終えたリリスは、口元を袖で拭いた。ちょっとだけ、甘い焦げの匂いが残る。魔力の味。
男たちは倒れていた。死んではいない。たぶん。けれど影を喰われた者は、もう“同じ”ではない。恐怖が骨の髄まで刻まれる。二度とここへは来ない。
(うん。いい子)
リリスは満足して、森へ向かって小さく手を振った。影のない地面が、からんと静かになった。
そして何事もなかったように小屋へ戻り、戸を閉め、鍵をかけた。
約束は守った。
知らない人には、開けてない。
リリスは台所へ行き、棚の上の瓶を見上げる。中身は卵と牛乳と砂糖。プリンの材料。
(パパ、帰ってきたら作ってくれる)
胸がぽわっと暖かくなる。
けれど同時に、腹の底がじわりと熱い。さっき食べた魔力が、体の奥で渦を巻いている感じがする。嫌ではない。むしろ心地いい。栄養が満ちていく。
(……食べすぎると、また大きくなっちゃうかな)
五歳の体は小さい。このサイズが、パパに抱っこされるのにちょうどいい。
だから、ほどほどにしなきゃ。
リリスは自分に言い聞かせるように頷いた。
「今日は……これくらいで、がまん」
その時、外から足音が近づいた。
カイルだ。
リリスは瞬時に表情を切り替える。無邪気な笑顔。両手を広げる。
「パパー! おかえり!」
扉が開き、木こりの男が入ってくる。肩には丸太。背中には森の匂い。
カイルはリリスを見るなり、僅かに目を細めた。
「……留守番、できたか」
「できた! すっごくいい子だったよ!」
「……そうか」
カイルは丸太を下ろし、手を洗い、リリスの頭に手を置く。撫でる。ゆっくり。確かめるみたいに。
リリスはくすぐったそうに笑った。
――その手のひらに、微かに残る魔力の匂いに、カイルが気づかなかったのは幸運だった。
気づいていたら、彼はまた“正解”を選ぼうとしたかもしれないから。
「……約束だ」
カイルは短く言って、台所の棚を見上げた。
プリンの材料。
リリスの目が輝く。
「わあ! プリン!」
「……作る。待ってろ」
「うん!」
リリスは椅子に座り、足をぶらぶらさせながら、パパの背中を見つめた。
(パパが笑ってる)
口元はほとんど動かない。けれど、雰囲気が柔らかい。肩の力が抜けている。私の世界で一番大好きな光景。
だから私は、これからもいい子でいる。
パパが知らないところで、全部掃除して。
パパが安心してプリンを作れるように。
パパがずっと、私のパパでいられるように。
リリスは小さく呟いた。
「パパの敵は……わたしが、いただきます」
カイルの背中に聞こえないように、甘い声で。
鍋の中で、プリンの液が静かに温まっていく。
その甘い匂いが、小屋の中を満たす。
平和は今日も、プリン味だった。




