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無口なSランク冒険者、引退して魔王の娘を育てる〜父と娘のスローライフ〜  作者: 綾瀬蒼


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第1話「最強の廃業と、最強の拾い物」

 魔王城は、燃えていた。


 天を舐める紅蓮の炎が尖塔を崩し、瓦礫が雨のように降る。床を這う黒煙の向こうで、残された魔族たちの断末魔が途切れ途切れに響いた。石壁に刻まれた呪紋が悲鳴を上げるようにひび割れ、やがて光を失って塵になっていく。


 その中心に、ひとりの男が立っていた。


 背丈は高い。鎧は裂け、肩から腕にかけて血が乾いて黒く固まっている。だが、その立ち姿だけは揺るがない。大剣を地面に突き立て、静かに息を吐く。


「……終わった」


 男――カイルは、ただそれだけを口にした。


 大陸最強のSランク冒険者。単身で魔王軍の戦線を穿ち、神話級の魔獣すら屠ってきた「生ける天災」。名を知らぬ者はいない。恐れていない者はいない。


 だが本人の胸にあるのは、勝利の昂揚ではなかった。


(戦って、殺して、また戦う)


 剣の柄に残る熱が、指の皮膚をじりじりと焼いた。魔王の血は黒く、鉄の匂いと焦げた甘さが混じって鼻を刺す。その臭いが、これまでの人生そのものに思えた。


(……十分だ)


 玉座の前。巨大な魔王の亡骸が倒れ伏している。角は折れ、胸には深々と刃が刺さったまま。さっきまでこの空間を支配していた威圧は、すでに消え失せていた。


 カイルは剣を抜き、亡骸から静かに刃を引いた。血が糸を引き、床に滴った。


 剣を鞘に収める。音は短い。彼の感情も同じくらい短かった。


 踵を返し、出口へ向かう。ここを出れば、騎士団が待っているはずだ。討伐の確認、魔王の首、凱旋の準備。英雄の扱い。そういうもの。


 そのすべてが、ひどく遠い。


 玉座の間を抜けようとした、その時だった。


「……ふぇ……あう……」


 壊れた石材の隙間から、か細い声がした。


 カイルの足が止まる。


 敵意ではない。殺気でもない。魔力の奔流でもない。戦場のどこにも存在しないはずの――生命の音。


 振り向く。崩落した玉座の裏。瓦礫と焦げた絨毯の向こうに、豪奢な揺り籠が半分埋もれていた。金の装飾は煤で黒くなり、宝石は砕けて散っている。


 その中に、小さな存在があった。


 透き通るような銀髪。夜空を溶かしたような紫の瞳。頬は赤く、唇は小さく震えている。泣き疲れたのか、涙の跡が頬に細い筋を作っていた。


「……魔王の、血か」


 言葉は無意識に漏れた。


 カイルの指が腰のナイフに伸びる。反射だ。敵を残すな。それが、今まで彼を生かしてきた掟だった。


 ここで絶やさねばならない。理屈は明快だった。


 魔王を倒した。それで終わりではない。血脈が残れば、いずれ同じ災厄が芽吹く。将来、何万の命が奪われるか分からない。ならば今、ここで。


 刃が鞘から僅かに鳴った。


 だが次の瞬間。


 赤ん坊は恐れるどころか、カイルのごつごつした人差し指を、小さな両手でぎゅっと掴んだ。


 熱い。柔らかい。指が、吸い込まれるような力で引き留められる。


 そして赤ん坊は、笑った。


 花が綻ぶように、無防備に。


「…………」


 最強の男の胸の奥で、何かが跳ねた。


 戦いの興奮ではない。殺す快感でもない。もっと原始的で、痛いほど熱い衝動。胸骨の内側を、拳で叩かれたみたいに。


(……なんだ、これは)


 握られた指を引き抜けない。力ではない。気持ちが動かない。


 赤ん坊の体温が掌に伝わる。火傷しそうなほど生きている熱。今まで触れてきたのは、死んだ肉、冷えた血、凍った恐怖ばかりだった。


 カイルは揺り籠の縁に膝をつき、赤ん坊を見下ろした。紫の瞳が真っ直ぐに彼を映す。そこに、魔王の残虐も憎悪も見えない。ただ、誰かを求める無垢だけがある。


 背後で、足音が増えた。


 鎧の擦れる音。複数。騎士団だ。


「カイル殿! 魔王討伐、確認しました! 首は――」


 剣呑な声。功を焦る匂い。血の気の強い若い騎士たちのざわめき。


「生き残りの魔族は? 血脈は? 一匹残らず処刑を――」


 カイルは振り向かなかった。


 代わりに、揺り籠ごと赤ん坊を大きな外套で包み込む。包まれた中で、小さく「んぅ」と声がした。すぐに、指がもう一度掴んでくる。


 カイルは、低い声で言った。


「……何もいなかった」


「は?」


「魔王も、その血脈も。すべて俺が灰にした」


 騎士たちの息が止まる。揺り籠の方向を見る者がいた。瓦礫の影。外套。か細い気配。


「ですが、今……声が――」


 カイルはようやく振り返った。


 視線だけで、空気が凍る。


 殺気が一瞬、漏れた。刃物より鋭い圧が、騎士たちの喉元に触れる。百戦錬磨の者すら、本能で理解する。逆らえば死ぬ、と。


「……何も、いなかったと言った」


 誰も、次の言葉を継げなかった。


 カイルは外套を抱えたまま立ち上がり、騎士たちの間を通り抜ける。誰も道を塞げない。足が動かない。


「カイル殿! 王都で凱旋式が! 陛下もお待ちで――!」


 背後から必死の声が飛ぶ。英雄は必要だ。民は象徴を欲しがる。国は勝利を飾りたい。


 カイルは立ち止まらず、短く言い捨てた。


「冒険者は廃業だ」


「なっ……! なぜです! あなたは人類の――」


「俺はこれから、忙しくなる」


 カイルは一度だけ腕の中の外套を見下ろした。内側で、小さな体温が蠢く。握られた指が、まだ離れない。


「……こいつに、ミルクを飲ませなきゃならん」


 騎士たちは言葉を失った。


 魔王城の外へ出ると、空は灰色だった。遠くで雷鳴が轟き、雨が降り始める。焼け焦げた城壁を濡らし、火を少しずつ鎮めていく。


 カイルは雨を避けるように外套を抱き直し、森へ向かう道に足を踏み出した。


 この先に何があるか、彼は知らない。育児の知識も、家の建て方も、乳の温め方も、何ひとつ分からない。


 それでも、足は止まらなかった。


(……俺は、何をしている)


 問いは浮かぶ。だが答えは、腕の中にある。


 外套の内側から、赤ん坊の小さな息遣いが聞こえた。安心したように、指がゆるく握り直される。


 カイルは小さく息を吐き、胸の奥の熱を押し込めた。


「……名前が必要だな」


 誰に言うでもなく、呟いた。言葉が増えるのが、妙にむず痒い。


「……リリス」


 なぜその音が出てきたのか、自分でも分からない。だが赤ん坊は、その名前を聞いた瞬間、ぱちりと目を開いて笑った。


 紫の瞳が、雨空の下でひかり、ほんの一瞬だけ――底知れない深さを宿したように見えた。


 カイルは気づかなかった。


 彼が拾った「最強の拾得物」は、ただの赤ん坊ではないことを。


 こうして大陸最強の男は、歴史の表舞台から姿を消した。


 代わりに、辺境の深い森に――ひとりの「新米パパ」が誕生したのである。


 そしてこの選択が、やがて世界を二度揺るがすことになる。


 その最初の揺れは、まだ小さく――外套の中の、柔らかな握力の形をしていた。

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