いじめられっ子でブラック企業に潰された私、悪役令嬢に転生したら恐れられてたけど……今度こそ堂々と生きます!
――目が覚めた瞬間、真っ先に思ったのは、
(……あ、寝坊した)
だった。
けれど、いつも聞こえるはずのスマホのバイブ音も、隣室からのテレビ音もない。
代わりに耳に届いたのは、鳥のさえずりと、柔らかな布が風に揺れる音だった。
(……あれ?)
ゆっくりと瞼を開けると、目に飛び込んできたのは――
純白の天蓋。
天井には蔦の模様が刻まれ、レースのカーテンが朝の光をぼんやり透かしている。
ベッドは大きくて、ふかふかで、シーツには淡い花の刺繍が施されていた。
(どこ、ここ……?)
上体を起こすと、ガサリと音がした。
腕には絹のように滑らかなドレス。
そして、鏡に映った自分の姿――艶やかなプラチナブロンドのストレートヘアに、
宝石のような紫の瞳。
それは、明らかに“自分”ではなかった。
(え……これ、夢?)
頭が追いつかない。
でもそのとき、バラバラと脳内に情報が流れ込んできた。
「エレノーラ・ヴァレンタイン公爵令嬢」――
傲慢で冷酷な悪役令嬢。
美貌と家柄に驕り、周囲を見下し、婚約者を軽んじ、
やがて国王陛下の命により“断罪”される存在。
そして――その名前が、今の“私”だと、何故か分かった。
(…………転生?)
混乱の中で、ふと蘇る前世の記憶。
深夜残業。
上司の罵声。
「女のくせに気が利かない」と吐かれた言葉。
寝不足でクマが浮いた顔を、鏡で見てため息をついた夜。
駅の階段。足がもつれ、目の前が真っ白に――
(ああ……死んだんだ、私)
どこか納得する自分がいた。
「……お目覚めでしょうか、エレノーラ様」
控えめな声に顔を向けると、使用人らしきメイドが、
明らかに怯えた目で私を見ていた。
「あ、あの……ご気分は……いかがでしょうか……?」
その手は震えていて、目を合わせようともしない。
まるで、猛獣でも見るかのように。
(……ビビってる?)
ああ、そうか。
この世界の“エレノーラ様”って、周囲から恐れられてたんだっけ。
(どうせ、また嫌われるんだ……)
自然と、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
前の人生でも、職場でも、私は――
“空気の読めない邪魔者”として、
見えない壁に囲まれ、いつも浮いていた。
転生しても、私はきっとまた――
「いえ……ありがとうございます。目覚めさせてくれて」
私は小さく微笑んだつもりだった。
けれど、メイドの顔色はさらに青ざめた。
「ひっ……も、申し訳ありませんっ!!」
メイドは大慌てで頭を下げ、ガタガタと退室していった。
(……はぁ)
目覚めたばかりなのに、もうため息が出そうだった。
扉の向こうで、ばたばたと足音が遠ざかっていく。
まるで火でもついたような勢いだった。
(やっぱり、私が怖いんだ……)
ため息をつくと同時に、胸の奥に重いものがのしかかってきた。
前の職場でも、こんな空気だった気がする。
「関わったら損」とでも言うように避けられた。
(私は、何もしてないのに)
ただ目が合っただけ。
ただありがとうと言っただけ。
ただ微笑もうとしただけ。
なのに――
「エレノーラ様、お召し替えを……!」
次のメイドが入ってきた。小柄で色白、ぱっと見は控えめで優しそうな子。
だけど私と目が合った瞬間、その体が硬直する。
「……ど、どのドレスをご希望でしょうか?」
「えっと……昨日のピンクのやつで……」
「っ……!!」
ぴくん、と肩が跳ねた。
(……え? なんで?)
「す、すぐにお支度いたします! も、申し訳ありません、ピンクなど……お、お嫌いだったかとっ!」
「いや、嫌いじゃないけど……?」
「し、失礼しましたっ!!」
バッと頭を下げると、そのまま後ずさるようにドアを閉めた。
声も、動きも、全部が怯えている。
(私、今なんかおかしいこと言った……?)
何もしてない。
本当に、ただ色の希望を言っただけ。
それだけなのに――
次に食堂へ向かえば、扉の前で控えていた執事が、私の顔を見るなり、
「ッハ……!」
と小さく息を呑み、わざわざドアを両手で勢いよく開けてくれた。
丁寧というより、恐慌状態で“何かされる前に”動こうとしているように見えた。
(そんなに私って……ヤバいの?)
食卓につけば、席に並んだメイドたちが誰も目を合わせない。
水差しを持った子の手が震えて、カップに水を注ぎながらも、視線はずっとテーブルの上。
ついに耐えきれずに言ってしまった。
「……そんなに、怖い?」
するとその場の空気が凍った。
誰も返事をしない。
ただ、全員が一斉に――小さく、震えながら頭を下げた。
「お、おいたわしゅうございます、エレノーラ様……」
「……っ」
意味がわからなかった。
私が何をしたのかも、何を間違えたのかも、分からない。
でも全員が怯えている。
まるで私が、いつ暴力を振るうか分からない、危険人物のように。
(……また、だ)
気づけば、スプーンを握る手が震えていた。
口の中がカラカラに乾いて、飲み込むことすら苦痛になる。
前世と違うのは、今の私は何不自由ない令嬢だということだけ。
でも――その“立場”が、余計に人を遠ざけていた。
(どうせ、また――)
誰にも信じられず。
誰からも好かれず。
いつの間にか、全部自分が悪いような気がして、
静かに、孤独の中で心が削れていく。
部屋に戻っても、胸のざわつきは収まらなかった。
硬いソファに沈み込み、ぼんやりと指先を見つめる。
(……どうして、こんなことに)
私は、ただ普通にしたかっただけ。
ありがとうと伝えて、落ち着いてお茶を飲んで、穏やかな朝を過ごしたかった。
それなのに。
「――あの、エレノーラ様」
不意に、控えめなノック音と共に、扉の外から声がした。
「……どうぞ」
返事をすると、恐る恐るドアが開き、先ほどの侍女が小さく一礼して入ってきた。
手には、予備のカップとクロス。
「……先ほどは、本当に、申し訳ありませんでした……っ」
顔はまだ強張っていた。
おどおどと視線を伏せ、背中は緊張でこわばっている。
さっき、床に額をこすりつけて謝っていた彼女の姿が、脳裏に焼きついて離れない。
私は小さく首を振った。
「いいの。あなたは、悪くない」
……なのに。
その瞬間、彼女の目がまた大きく見開かれた。
――あぁ、やっぱり怖がられてる。
そう思った。
また怯えさせてしまった。
きっと心の中では、私のことを“危険人物”だと決めつけている。
(もう、いいよ。慣れてるし)
私はそっと視線を伏せた。
そのとき――
「……ありがとうございます」
震える声で、でもはっきりと言った。
顔を上げると、彼女は深くお辞儀をしていた。
震えていたけれど、すぐに逃げたりはしなかった。
そのまま静かに後ろを向き、ゆっくりと部屋を出ていった。
(……ありがとう?)
その一言が、胸に残った。
(私に……ありがとうって言った? 嘘……)
ずっと、忘れていた感情が、わずかに揺れる。
けれど――
(……でも)
次の瞬間、浮かび上がったのは“過去の記憶”だった。
職場での、最悪の朝。
隣のチームの先輩がクライアント対応でミスしたせいで、
なぜか私が朝礼で全員の前に立たされ、責任を取らされた。
「椎名さん、あなた昨日確認してたよね?」
「はい……でも、担当は田中さんで――」
「言い訳しないで。報連相が足りなかったってこと」
言い訳。責任転嫁。自己保身。
その言葉が、口々に浴びせられた。
頭を下げたのは私。
謝罪文を印刷して回ったのも私。
クライアントに電話をかけたのも、土下座したのも、私だった。
田中さんは黙っていた。
上司も、それが当然のような顔をしていた。
(……まただ)
「悪いことしてないのに、私が謝る」
「私が“悪者”にされる」
「私のせいになって、みんな安心する」
そんな世界に、私はいた。
ため息をつこうとした、そのとき。
「失礼します、エレノーラ様。お部屋の整頓に参りました」
別の声が、部屋の外から届いた。
(あれ、誰……?)
ドアが開き、そっと顔を覗かせたのは――
年は15〜16歳くらい。
やや癖のある栗色の髪を三つ編みにまとめた、
背筋だけはやけにシャキッとした、見習いの侍女のようだった。
「あ、あの……すみません。新人のメリルと申します」
その少女――メリルは、表情を硬くしながらも、
こちらを正面から、しっかりと見据えていた
彼女は、ほかの侍女たちと同じように少しだけ身体を固くしていたけれど、
それでもちゃんと目を見て、ぎこちなくも笑顔を浮かべていた。
「お食事の最後に、お茶をお持ちしました。よろしければ、お召し上がりくださいませ」
「……ありがとう」
私は、おそるおそるカップを受け取った。
香ばしい香り。ミルクティーだ。
前世では、休憩中にコンビニで買って飲むのが唯一の楽しみだった。
その記憶がよぎり、ふっと気が緩んだ――その瞬間。
カップが、私の指先をすべった。
「あっ……」
テーブルに倒れたティーカップ。
広がる茶色い液体。
そして――
「……っ!? 」
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
アナスタシアの顔から血の気が引いていく。
「ひっ……! す、すみませんっ、すみませんっ、申し訳ありません、エレノーラ様……っ!!」
彼女は音を立ててひざまずき、床に額をつける。
「わ、私の持ち方が悪かったのですっ! 完全に、私の不手際でございます……っ! どうか、どうかお許しを……!」
(……え?)
私がこぼしたのに?
私の手が滑っただけなのに?
なのに彼女は、まるで命乞いでもするかのように、震えながら頭を下げている。
「い、いいから……顔、上げてよ……っ」
声が震えたのは、きっと私のほうだった。
でも彼女は上げない。
むしろ、もっと深く、深く、床に額を押しつけて――
「お詫びの印に、この場で指を落とさせていただきます……っ!」
「はっ……!?」
一瞬、本気で心臓が止まりかけた。
そのとき、扉の外から慌ただしい足音がして、
別の侍女が血相を変えて飛び込んできた。
「エレノーラ様! ご無礼をはたらいたアナスタシアに、ただいま厳罰の手配を――」
「ちょ、ちょっと待って!!」
私は椅子を引いて立ち上がった。
その瞬間、全員の視線が私に集中する。
無言。凍った空気。呼吸すら止まりそうだった。
「……罰とか、いらない。私が……私が、こぼしたの。だから、誰も悪くない」
誰も動かない。
まるで、私が何か罠を仕掛けてるとでも思っているかのように――
(やめて……そんな目、やめて……)
怒ってもいないのに、怒ってるように見られて。
責めてもいないのに、謝られて。
ただ声をかけただけで、顔をこわばらせて逃げられて。
(私……また、間違ってるの?)
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
(優しくしたって、普通にしたって、全部裏目に出る。
だったらもう、最初から何もしない方がよかったのかも――)
そんな思考が、ゆっくりと、静かに、
心を押し潰していった。
新人の侍女、メリルはぎこちない所作ながらも、
精一杯、丁寧に部屋の整頓に取り組んでいた。
棚の上の花瓶を拭き、カーテンのたるみを直し、机の端の小物を揃えていく。
そのたびに、手が震えているのが見えた。
(やっぱり、怖がってる……よね)
でも――彼女は逃げなかった。
真正面から、私の目を見て話してくれる。
怯えながらも、取り繕うこともせず、きちんと敬意を持って接してくる。
(……慣れてないだけ。仕事も、人付き合いも)
そんなふうに見えた。
どこか昔の自分を見ているようで、放っておけない気持ちになる。
「そ、その……今朝のお召し物、たいへんよくお似合いでした、エレノーラ様……!」
メリルがおずおずと褒めてくれた。
その顔は緊張で強張っていたけれど、
瞳の奥にはほんの少し、尊敬と好意のようなものが宿っていた。
「……ありがとう」
そう返すと、彼女はパッと顔を赤くして、嬉しそうに笑った。
その笑顔が、なんだか無性に眩しかった。
(こんな顔、前の職場では見たことなかったな……)
そのときだった。
ガシャン――!
棚の上のティーセットが、大きな音を立てて崩れ落ちた。
「きゃっ……!!」
紅茶のしみがカーペットに広がる。
陶器の破片が床に飛び散る。
「えっ、あ、あああああっ、ご、ごめんなさいごめんなさい、わ、私っ……!」
メリルは顔を真っ青にして、震える声で繰り返し謝った。
「わ、わざとじゃなくて……その、拭こうとしたら手が滑って……っ!」
その声を聞きつけて、廊下から使用人たちが駆け込んでくる。
「エレノーラ様、お怪我は!?」
「この者が粗相を!? すぐに処分いたします!!」
「こ、こんな未熟者、即刻首に――!」
「――待って」
私の声が、空気を割いた。
誰もが一斉に動きを止め、私を見る。
さっきと同じ、凍りつくような沈黙。
私は、そっと紅茶の染みを見下ろして、言った。
「……こぼしただけよ。誰にだって、あることでしょう?」
「し、しかしエレノーラ様……この者は下賤の――」
「首になんて、しないで」
それは、はっきりとした声だった。
「彼女は、一生懸命働いてるわ。……たとえ不器用でも、その姿勢はとても立派よ」
周囲の空気が震える。
誰も言葉を返せない。
誰かが、何かを言いかけたけれど、
私はそれを一瞥で黙らせた。
その瞬間――
「……っ」
メリルが、泣きそうな顔で、口元を押さえた。
「す、すみません……でも、ありがとう、ございます……っ」
涙ぐみながら、メリルは深く頭を下げた。
けれど、その姿には――さっきまでの“恐怖”だけではない、
確かな“信頼の芽”のようなものが宿っていた。
(……怖がられるばかりだったのに)
ほんの少し、
本当に少しだけど、
誰かに、必要とされた気がした。
その実感が、心の奥に――
まるで、固く凍っていた雪の上に差し込んだ、
春の光みたいに、優しく沁み込んでいった。
あの日の出来事を境に、メリルの態度が――いや、“距離感”が、少しずつ変わっていった。
「本日の天気は晴れでございますので、テラスでお茶などいかがでしょうか?」
「この間のミルクティー、またご用意いたしました。お気に召されていたようなので……!」
最初はぎこちなかった言葉も、だんだんと柔らかくなってきた。
でも、それ以上に変わったのは――彼女の視線だった。
怖がるでもなく、媚びるでもなく、
まっすぐに、真剣に。
ときに緊張しながらも、確かに“こちらを見て”接してくれるようになった。
(……でも、なんでこんなに一生懸命なの?)
それが、不思議だった。
私は特別に優しくもしていないし、褒めたこともない。
むしろ、私は“過去に恐れられてきた存在”だ。
そんな私に――なぜ?
「……ねえ、メリル」
昼下がり、書斎で帳簿を整理していたとき。
いつものように隣に控えていた彼女に、私はぽつりと問いかけた。
「そんなに、私の世話なんて……したくないでしょ?誰かと変わっても構わないわよ」
彼女の手が、ぴたりと止まった。
一瞬、沈黙が流れる。
そして――
「……いえ、したいです」
はっきりと、そう返された。
「……え?」
「最初は、怖かったです。エレノーラ様は“冷酷で、怒りっぽくて、命令ひとつで人を消す”って、ずっと言われていて……だから、近づくだけでも震えました」
(とんでもないわね……)
「でも――本当のエレノーラ様は、全然違った」
メリルは、小さく笑った。
「紅茶をこぼした私を、かばってくれました。あのとき、エレノーラ様が声をかけてくれなかったら、私は今ここにいません」
「……そんな、大したこと……」
「大したこと、です」
彼女は、真剣な目で言った。
「私なんて、ただの下っ端で、失敗も多くて、取り柄もありません。でも、あのとき、エレノーラ様が“庇ってくれた”ということだけで、私……“自分がここにいていい”って、初めて思えたんです」
私の心臓が、ひとつ跳ねた。
「だから、私……今度は“エレノーラ様のお役に立ちたい”んです」
彼女の声は、少し震えていた。
でもその目は、真っすぐだった。
ただの従者の目じゃない。
媚びでも、恐れでもなく、誇りと敬意を持った“まなざし”。
(……私なんかに)
こんなふうに見てくれる人が、本当に、いるんだ。
胸が、また少しだけ温かくなる。
でも同時に、怖くなった。
(裏切られたらどうしよう)
(この優しさが嘘だったら――)
言葉にできない想いが、喉元までこみ上げる。
でも、飲み込んだ。
代わりに、私はほんの少しだけ笑ってみせた。
「……じゃあ、もう少しだけ、お願いするわね」
「はいっ!」
メリルはパッと笑った。
その笑顔は、春風みたいにまっすぐで、
そして――私には、少し眩しすぎた。
メリルの笑顔を背中に受けながら、私はそっと帳簿に視線を戻す。
心の中に、小さな温もりが灯っていた。
(信じて、いいのかな……)
まだ怖い。
けれど、誰かがそばにいてくれるのは、やっぱり――
メリルが世話を焼くようになってから、屋敷の空気は少しずつ――本当に少しずつだが、変わっていった。
最初は、相変わらず皆が私を避けていた。
視線を合わせず、命令の前に震え、気配を殺すように仕事をこなす。
その空気は変わらないように見えた。
けれど――
「エレノーラ様、お召し物の裾が……!」
メリルが素早く駆け寄り、裾を整えてくれたときのことだ。
彼女のその自然な所作に、周囲の侍女たちが一瞬驚き、そしてざわついた。
(……あれ?)
怯え切っていた彼女たちの瞳に、ほんのわずかだが“違う色”が宿っていた。
恐怖ではなく――好奇心。
「どうしてあの子は、無事なんだろう?」
「エレノーラ様に怒鳴られないの?」
そんな疑問が、少しずつ混じり始めた。
次の日。食堂で水を注いでいた給仕が、手を滑らせて少し机を濡らしてしまった。
使用人たちは一斉に青ざめ、「すぐに新しい者を――!」と声を上げかけた。
私は静かに首を振った。
「布巾で拭けばいいだけよ。気にしないわ」
それだけ言って、微笑んだ。
給仕はぽかんとした顔をして、次の瞬間には涙目で「ありがとうございます……!」と小さく呟いた。
周囲の空気が、またひとつ変わった気がした。
(……なんだろう)
今まで“当然”だった恐怖が、少しずつ揺らいでいる。
メリルが笑顔で世話をし、私がそれを受け入れる。
その当たり前の光景を見て、使用人たちは困惑し、そして――少しずつ安心していくのだ。
――数日後。
「エレノーラ様、本日はお花を飾ってもよろしいでしょうか?」
別の侍女が、恐る恐るながらも自分から声をかけてきた。
かつてなら、私に近づくことすら避けていた人だ。
「ええ、お願い」
そう答えると、その侍女は安堵のように微笑んだ。
そして花を活けながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、本当は優しい方なのですね」
(――優しい? 私が?)
その言葉に、胸が強く揺さぶられた。
前世では一度も言われなかった言葉。
むしろ真逆の烙印ばかりを押され続けた。
“気が利かない”“空気が読めない”“役立たず”。
なのに――ここで、私は。
「……そんなこと、ないわ」
思わず小さな声で返した。
でも侍女は、柔らかく笑っただけだった。
そして気づけば。
私の周りに立つ人々の目が、少しずつ変わっていく。
怯えの色は完全には消えていない。
でもその奥に、好奇心、安堵、そして――期待。
そんな感情が、混じり始めていた。
(……私、変われてるのかな)
メリルが側でにっこりと笑った。
その笑顔が、屋敷の空気をまた少しだけ明るくしていった。
変化は、ほんのささいなところから始まった。
「エレノーラ様、本日はお加減はいかがでしょうか?」
侍女がそう尋ねてくる。
以前なら震える声で「お許しください」と言って逃げるばかりだったのに、
今は――わずかに、こちらを心配しているような響きがあった。
食堂では、給仕が私の皿を置くとき、ほんの一瞬だけ目を合わせてきた。
怯えた視線ではなく、確認するような、優しい目。
「ありがとうございます」と私が返せば、その子は真っ赤になって「も、申し訳……いえ、ありがとうございます!」と慌てて去っていった。
(……お礼を言われて喜んでる? 私に?)
それだけで、胸が温かくなった。
さらに数日後。
ある日執事のグレイが私の前に跪いた。
年配の、昔から仕える忠実な執事だ。
その顔には、ずっと恐れと緊張しかなかったのに――今日は違った。
「エレノーラ様」
「なに?」
「……どうか、無理をなさらずに」
「……え?」
「皆、気づいております。エレノーラ様が、以前とはまるで違うお振る舞いをなさっていることを」
「……っ」
「私は……ようやく、真のご令嬢にお仕えできた気持ちでおります」
グレイの声は低く、誠実だった。
頭を深く下げるその姿に、私は言葉を失った。
前世では、どんなに頑張っても“駄目なやつ”の烙印を押され続けた。
気が利かない。役に立たない。いないほうがいい。
でも、今――初めて、「仕える価値がある」と言われた気がした。
(こんな私でも……受け入れられるの?)
屋敷の中での私に対する態度が少しずつ変わるにつれて――街の空気にも、ささやかな変化が生まれ始めた。
買い付けに出た使用人が、帰ってきてぽつりと漏らした。
「……最近、街で“ヴァレンタイン公爵令嬢は雰囲気が柔らかくなった”って噂が流れているようです」
「柔らかくなった? 私が?」
思わず聞き返してしまった。
「ええ……以前は皆、エレノーラ様の話題をするだけで青ざめていましたが、最近は“笑顔を見た”とか、“お礼を言われた”とか……」
(……そんな些細なことが、噂になるんだ)
妙にくすぐったい気持ちになった。
けれど同時に、胸の奥がじんわり温かくなったのも確かだった。
――ある日の午後。
メリルに誘われ、庭園を散歩していたときのこと。
城下の子供たちが、庭に面した柵の外からこちらを覗いていた。
「ねぇ、本当にあの人なの?」
「うん、公爵令嬢さま……」
「こわい人なんでしょ……」
小声が聞こえる。
胸がちくりと痛んだ。
(やっぱり、そう思われてるよね……)
でもそのとき、メリルが笑って手を振った。
「こんにちは!」
驚いた子供たちが固まる。
そして、おそるおそる小さな花束を差し出した。
「こ、これ……お庭に咲いてたの……」
メリルが受け取ろうとした瞬間――
「エレノーラ様に、です!」と、子供が慌てて言った。
「え、私に?」
戸惑いながら受け取ると、子供たちは一斉に顔を赤くして走り去っていった。
残されたのは、ぎこちなく束ねられた花と、ほんのり甘い香り。
(……私に、花を?)
前世でそんなこと、ありえなかった。
誰かに贈り物をされるなんて。
それも、好意からなんて。
「……似合ってますよ、エレノーラ様」
隣でメリルが微笑む。
その笑顔につられて、私も少しだけ口元が緩んだ。
――さらに数日後。
書庫で本を探していると、普段は目を合わせようともしなかった若い書庫番が、
勇気を振り絞るように声をかけてきた。
「……あの、もしよろしければ、この本など……」
差し出されたのは、穏やかな恋愛譚の小説。
「お好きそうだと思いまして」
「……ありがとう」
そう答えると、彼は安堵の笑みを浮かべた。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
でも確かに、周囲の視線が変わっていく。
恐怖から、興味へ。
興味から、尊敬へ。
尊敬から――信頼へ。
(こんな日々が……あるんだ)
前世ではどれほど望んでも手に入らなかったもの。
人の輪に混ざれる日々。
小さな優しさを受け取り、それを返せる生活。
胸が温かくて、少しだけ涙がにじんだ。
けれど――心のどこかで、まだ不安が囁いていた。
(これも、いつか壊れてしまうんじゃないか)
その予感は、やがて現実となって、私の前に現れることになる。
⸻
エレノーラには、婚約者がいた。
王国の第一王子、ユリウス・フォン・グランツ殿下。
美貌と才覚に恵まれ、次期国王と目される人物。
そして殿下の隣には、常に聖女候補リリアという少女がいた。
慈愛の象徴と呼ばれる彼女は、周囲から絶大な支持を受けており――物語の筋書きでは、“私を断罪に追い込むヒロイン”だった。
(ゲームのシナリオ通りなら……いつか、私が悪女として吊るし上げられる日が来る)
それを理解していたはずなのに。
「優しい」と言ってくれる人が増えたことで、心のどこかで油断していたのかもしれない。
そして――その瞬間は、突然訪れた。
⸻
「エレノーラ・ヴァレンタイン! 貴様の罪は明白だ!」
元婚約者のユリウス殿下の声が広間に響き渡る。
目の前に突きつけられた手紙の束――。
殴り書きの文面は、確かに私の名でリリアを罵り、追い詰める内容になっていた。
「これだけの証拠があるのだ! 言い逃れはできまい!」
「……っ」
ざわめき。
さっきまで私に好意的だった視線が、またざわざわと揺らぎ始める。
疑念。恐怖。あの日々を思い出させる目。
(……ああ、まただ)
前の職場。
同僚のミスを押しつけられ、皆に冷たい視線を浴びせられたあの日。
「自分のせいじゃない」と叫びたかったのに、
声を上げた瞬間、“言い訳”と決めつけられた。
(ここでも、結局……私は悪者にされるんだ)
足元がぐらりと揺れた。
心臓が強く脈打ち、冷たい汗が背中を流れる。
誰も信じてくれない。
誰も味方にならない。
それが“私の世界”だった。
ユリウスが勝ち誇ったように言い放つ。
「エレノーラ、お前との婚約は破棄する! そして断罪だ!」
リリアが泣き真似をしながら私を指差す。
「やっぱり……恐ろしい人! 私を陥れようとして……!」
周囲がざわつく。
「やはりそうだったのか」「恐ろしい……」
私を守るはずの空気が、また離れていく。
(……やっぱり信じちゃいけなかったのかもしれない)
胸が痛む。
これまで積み重ねた小さな優しさ。
メリルの笑顔。侍女の感謝。街の子供の花。
全部、夢だったんじゃないか――そう思いかけた、その時。
「待ってください!」
広間に響いたのは、はっきりした女性の声。
メリルだった。
彼女は震えながらも、真っ直ぐ私の前に立ちふさがった。
「その手紙……エレノーラ様が書いたものではありません!」
「な、何を…何を証拠に…!」
「し、証拠はありません。エレノーラ様は……私の失敗を庇ってくださいました! こんな優しい方が、そんな卑劣なことをするはずがありません!」
「無礼な、この私を疑うの…」
その声に続いて、他の侍女、執事、給仕たちが次々に声を上げ始めた。
「私もです!」
「お礼を言われました!」
「庶民の子供に花を受け取られたのを見ました!」
ざわめきが再び広がる。
今度は――疑念ではなく、混乱と驚き。
私は呆然と立ち尽くした。
(……信じてくれてる? 本当に? 私を?)
胸の奥が熱くなる。
涙がこぼれそうになり、慌てて俯いた。
声は震えていなかった。
前世では一度も出せなかった、“自分を守る声”だった。
「……殿下。その手紙が本物かどうか、調べてもらいましょう」
私の言葉に、広間が静まり返った。
いつもなら震えて声も出せなかったはずだ。
けれど、今は違う。
背中には、メリルの小さな肩が、必死に私を支えてくれている。
周囲からも「私も証言します」「エレノーラ様は潔白です」と声が上がる。
ユリウスの顔色が変わった。
「バ、馬鹿な……! こんな小娘たちの言葉を信じるのか! 余は王太子だぞ!」
「お言葉ですが」
低い声が割って入った。
執事グレイだった。
彼は一歩前に進み出ると、懐から青白く輝く水晶球を取り出した。
「……ならば、事実を確かめましょう」
グレイの指先が淡く光を帯び、水晶に魔力を注ぐ。
次の瞬間、手紙の束が宙に浮かび上がり、燃えるような光が文字を包んだ。
「こ、これは……!」
観衆がざわめく。
水晶に映し出されたのは――手紙を書いた者の“魔力の痕跡”。
赤黒い色がくっきりと浮かび上がり、リリアの侍女の魔力と完全に一致していた。
ユリウスは狼狽し、怒声を上げた。
「そ、そんな魔法……王宮の魔導師でさえ扱えぬはずだ! なぜ貴様のような執事が――!」
グレイは一歩進み出て、恭しく頭を垂れる。
「……僭越ながら。私はかつて、王国魔術師団に所属しておりました」
「なっ……!」
広間がどよめく。
「戦乱の折、敵国の密偵を炙り出した功績により、王から名誉を賜りました。
しかし――祖国に裏切られ、路頭に迷っていたところを、エレノーラ様のご両親に拾われたのです。
今はただ、ヴァレンタイン公爵家に仕える一執事にすぎません」
淡々と語る声に、誰もが息を呑む。
「以前の悪女と恐れられたエレノーラ様ならば、私は動かなかったでしょう。
ですが……変わられたのです。優しきご令嬢に。だからこそ、今ここで助けると決めました」
再び、水晶が赤黒く輝いた。
光が侍女の胸元を照らし、その魔力の痕跡が浮かび上がる。
――先ほどの手紙に込められていたものと、完全に一致していた。
「……っ」
ユリウスの顔から血の気が引いていく。
リリアは唇を震わせ、必死に叫んだ。
「う、嘘よ! これは罠! で、殿下、信じてください!」
だが、水晶の光は揺るがない。
まるで真実そのものが広間を包み込み、彼女の叫びを打ち消すように――
そこにいた誰もが悟った。
一斉に怒号が上がる。
「なんということだ!」
「聖女を騙り、公爵令嬢を貶めるとは!」
リリアはわなわなと震え、必死にユリウスを見上げた。
「で、殿下っ! 信じて……!」
だがユリウスは、唇を噛みしめながらも言葉を失っていた。
王族としての威厳はなく、ただ追い詰められた一人の青年にしか見えなかった。
私は、ゆっくりと一歩前に出た。
「殿下。……あなたは“悪役”を必要としていただけでしょう」
「な、に……?」
「誰かを悪者にすれば、自分が輝ける。誰かを蔑めば、自分が正しく見える。……私は、前の人生でそれを散々味わいました」
静かに、でもはっきりと声を響かせる。
「けれどもう、私はその役を引き受けません。罪を着せられるのは、これで最後です」
広間にどよめきが走る。
その言葉は、私自身の決意の証だった。
メリルが泣きそうな顔で頷き、侍女たちが次々に「エレノーラ様!」と声をあげる。
使用人も、街の子供も、今や皆が私の味方だ。
私は深く息を吸い込み――微笑んだ。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価をいただけると励みになります。