第2話 紳士的な行為
梅田から大阪メトロ御堂筋線に乗ると、先に到着するのは群青くんが住まう昭和町駅である。1駅次が千歳が住んでいる西田辺駅。
その昭和町駅に着いたのに、群青くんは降りようとしない。どうして。
「群青くん、降りひんの?」
「うん。もう遅いし、設楽さん家まで送るわ」
おや。それは群青くんの紳士的な気遣いなのだろうか。
「ええよ、駅からお家までそんな遠くないし、それでもし終電逃したら大変やし」
「逃してもええよ。1駅やから歩けるやん」
「いやいや」
確かに駅から駅までなら、歩いて15分程度だ。あびこ筋を北上すれば良い。だが夜も遅いのだから、それはさすがに申し訳が無い。
「私は大丈夫やから」
千歳はそう言うが、群青くんは「いやいや」と笑顔で首を振る。そんなことをしている間に、電車のドアは閉まってしまった。あちゃ〜、と千歳は思うが。
「な、やっぱり心配やからさ」
群青くんはそう言って穏やかに笑った。仕方が無い、もう降りられなくなってしまったし、このまま西田辺まで行こう。そのあと折り返してもらえば良い。
そうして西田辺駅に着いたら、群青くんは千歳を促して電車を降り、そのままホームと直結している改札口を出てしまった。千歳も慌ててあとを追う。
「送らして。僕のわがままかも知れんけど、やっぱり心配やねん」
そこまで言われてしまったら、もう千歳には断れない。御堂筋線は上りも下りも終電は遅めの時間だが、こんなところでもたもたして時間を消費するより、間に合う様に動いた方が良さそうだ。
「じゃ、ありがたく」
千歳が言うと、群青くんは嬉しそうににっこりと笑った。
西田辺駅周辺は遅くまで開いている飲食店もそれなりにあり、この時間でもそこまで暗くは無い。千歳と群青くんは並んでお家へと向かう。付かず離れずの距離だ。
「西田辺って、あんま来ることって無いわぁ」
「まぁねぇ、特に何があるわけや無いからね」
例えば隣駅、群青くんのお家の最寄り駅でもある昭和町には、国登録有形文化財である寺西家阿倍野長屋があるし、もうひとつの隣駅になる長居駅には広大な長居公園がある。だが西田辺駅にはこれといって特筆すべき名物的なものが無い。
けれど、暮らしやすい街だと思っている。大きな道路沿いはいくつものお店があるが、路地に入ればすぐに住宅街が広がる。千歳のお家もそれらの中のひとつである。
5分も歩けばお家が見えてくる。4LDKの一戸建てだ。両親が結婚して数年後に建てたお家である。
「うち、ここ。送ってくれてありがとう」
「あ、うん。あ、あの」
お家の前で向かい合い、群青くんが何かを言い掛けたとき、お家の開き戸ががちゃりと開いた。ふたり揃ってとっさに視線を向ける。
「……千歳か」
「兄ちゃん」
玄関から姿を現したのは、兄の千景だった。部屋着にしているグレイのだぼだぼジャージ姿だ。足元の黒いサンダルもラフさを表している。
「お兄さん……」
群青くんは一瞬呆然とした様な顔になるが、すぐに我に返ったのか慌て出す素振りを見せる。
「お、お兄さんですか、こんばんは。あ、あの、設楽さん、じゃあ、また」
「うん。ありがとう」
群青くんは踵を返すと、小走りで去っていった。やはり終電が気になるのだろう。悪いことをした。
「千歳、今の、彼氏?」
「ううん、お友だち」
「それやのに、わざわざ送ってくれたん?」
「うん。お家が昭和町で近いからって」
「へぇ、ええ子やん」
兄ちゃんは感心した様に、目を丸くする。
「うん。兄ちゃんは玄関で何しとったん」
「靴磨き。明後日面接やから」
「こんな時間に?」
「こんなん、思い立ったときにやるんがええねん」
「ま、そりゃ確かに」
兄ちゃんは千歳と年子の大学4回生。千歳とは違う大阪府内の大学に通っていて、今は就職活動の真っ最中である。簡易靴磨きセットが出されていて、玄関に置かれている黒い革靴は、片方を磨き終えたのかつやつやと輝いている。
「就活、がんばって」
「おう」
もう片方の革靴を磨き始めた兄ちゃんを背に、千歳はあまり足音を立てない様に洗面所に向かう。もう家族の皆は寝静まっているだろう。起こさない様にしなければ。
それにしても、楽しいひと時を過ごせた。良い誕生日になったのでは無いだろうか。もうお家で家族に祝ってもらう様な歳でも無い。お母さんがホールケーキを買ってきてくれるが、それぐらいである。
幼いころはそれこそテーブルにはごちそうが並んだりして、今や懐かしい思い出である。だが、もう兄ちゃんともども成人だ。ここ数年はケーキだけである。それでも充分なのだが。
手を洗い、ついでに歯も磨く。お風呂は……シャワーだけ軽く浴びて、寝てしまうとしよう。明日は目覚まし無しでゆっくり寝られる。それだけでわくわくするのだった。