第17話 そんなあなただから
須賀さんに何度もお礼を言いながら、須賀催眠術研究所を辞した千歳たち。拓嗣くんはまだ落ち込んでいる。
今の時間は17時40分。忘年会のお店は18時からの予約だが、もし前倒しが可能なら、と、予約をした千歳が電話をしてみる。
そのお店は11時開店で、夜までの通し営業である。果たしてお店からは「大丈夫ですよー」と言ってもらえ、千歳たちは地下2階に降りて、大阪駅前第4ビルに向かった。
お店の名は「ひもの野郎」と言った。この駅前第4ビルが本店で、他に第1ビルとバルチカ、東京の八重洲にも1店舗展開している。
店名の通り、いろいろな魚の干物がいただけるお店で、特に紀州備長炭を使った灰干しがおすすめとされている。脂が乗ったお魚に灰が持つ香ばしさが移り、良い味わいとなっている。おすすめが灰干しの大トロさばで、これがいちばん人気だそうだ。
一品も豊富だし、種類は控えめだがお肉類もあるし、何より日本酒のラインナップが凄い。人気のお店である。
白いのれんと木材を基調にしたお店に着いて、千歳が「群青です」と名乗ると、にこやかな店員さんに4人掛けのテーブル席に案内される。もう晩ごはんの時間帯に入っていて、店内は大勢のお客で賑わっていた。
まずは全員生ビールで乾杯する。まだ拓嗣くんの覇気は無い。
「ほら拓嗣、飲め飲め。言うてもほどほどにな? もう大丈夫やねんから気にすんなって」
原くんが言って、拓嗣くんの背中を乱暴に叩く。拓嗣くんは「うん……」と言いながらも、なかなか浮上できない様子だ。
千歳はこくりとビールを傾けると、横でうつむいたままの拓嗣くんの肩にそっと触れた。
「……あのね、拓嗣くん」
拓嗣くんの肩がびくりと震える。
「私ね、拓嗣くんが女性に奥手なんを克服したいって思ったんは、ええことなんやと思うんよ。今回はそれがちょっとおかしな方向に行ってしもたけど」
千歳はできる限り優しい声色になる様に語り掛ける。拓嗣くんは「うん……」と消え入りそうな声で返事をした。
「でもね、拓嗣くんは私とお付き合いをするときも、結婚するときも、直接言うてくれたやん。頑張ってくれたやん。確かに女性に苦手意識っちゅうか、あるんかも知れんし、他の人よりちょっと努力とか要るかもやけど、拓嗣くんはちゃんとできる人やって思う」
「千歳ちゃん……」
拓嗣くんがゆるゆると顔を上げる。まだ羞恥があるのだろうか、目の周りを赤くして、くしゃりと顔を歪める。
「ほんまやで。俺、拓嗣が群青さんに直接言うたって聞いて、よっしゃ!って思ったもん。拓嗣はやればできる、ちゃんと自分の思いを伝えられるんやって、めっちゃ嬉しかったんやで」
原くんもさっきとは打って変わって穏やかに言う。
「私も、千歳に、群青くんに告白されたとか聞いたとき、やるやん、て思ったわ。やるべきときにはちゃんとやる。それができるんやったら、大丈夫やって」
カレンちゃんも慰める様に言ってくれる。拓嗣くんはきゅっと目を閉じた。
「……ありがとう。千歳ちゃん、心配させてごめん、トモ、筑波さん、迷惑掛けてごめん。僕、どうしてもこれがコンプレックスで、これからのことを思っても克服しときたくて。今の職場は男性ばっかりやから大丈夫やけど、いつまで続くかは正直分からんから、せやから」
「うん」
千歳は頷いて同意を見せる。クリニックの閉院なんて、珍しいことでは無い。拓嗣くんの勤め先は梅田にあって患者さんも多いと思う。それでも何があるのかが分からない。それはいつの時代もそうなのだと思う。
「総合病院におったときは、ずっと緊張しとった。これから先、またそういうとこに勤めなあかん様になるかも知れん。せやからそのときに備えってて。でも、こんなことになるとは思わんかった」
「大丈夫やで、拓嗣くん。拓嗣くんは大丈夫。苦手意識は今でもあるかも知れんけど、私にはちゃんと言ってくれた。せやから大丈夫。大丈夫」
まるで小さな子どもをあやす様に、大丈夫、千歳はそう言った。拓嗣くんに届いてくれる様に、自分は大丈夫なのだと思ってくれる様に。
「誰にかて、苦手やなって思うもんはあるわな。でもどうにかなるもんや。それに男性専用クリニックそのものが無くなるわけや無いやろうし、そのときどきでどうにかなるって。拓嗣は真面目やから、難しく考えてしもたんやろうなぁ」
原くんのせりふに、拓嗣くんは「はは……」と苦笑いを浮かべる。
「ほんま、考えすぎやったんかも知れん。千歳ちゃんにも何か恥ずかしくて言えんで、暴走してしもたんかな。患者さんに催眠術師がおるって知って、これやって思ってしもた。それがこんなことになって」
「でも、解決したんやからええやん。群青くんって真面目やから、気にしてまうんかも知れんけど、千歳も私らも気にしてへんよ。わざとああなったわけや無いんやから。気ぃ撮り直して、楽しく飲もうや。私、ここの大トロさばは絶対に食べたいし、いかの一夜干しもベーコンも美味しいし!」
カレンちゃんが明るく言ってくれるので、千歳も「せやね!」と陽気な声を上げた。
「カレンちゃんも原くんも、もちろん私も、拓嗣くんと楽しく飲み食べしたいな」
千歳が言うと、拓嗣くんはふにゃっと顔をほころばせた。いつもの拓嗣くんの、楽しそうなときの表情だ。
「ありがとう。今日はたくさん飲んで食べよう。僕、ごちそうする!」
「マジか!」
「うそやん」
原くんとカレンちゃんが驚いて目を見張る。千歳もびっくりした。
「うん、そうさせて。そうせな、僕の気が済まんから。せやから遠慮せんといてな。その方が僕も嬉しい」
「よっしゃ、ほな俺、次から日本酒に切り替えよ〜。そんなん言われたら高いもん頼むでぇ〜?」
原くんが冗談めかして言うと、拓嗣くんは「あはは」と笑う。
「ええよ、ええよ、好きなもん飲んで。僕も次は日本酒にしよっと」
「わったっしっはっ、ハイボール〜。そんなこと言われたら、ほんまにええの頼んでまうで?」
「もちろん」
「拓嗣くん、私も日本酒、ええ?」
「もちろん! 千歳ちゃんには特に心配さしてしもたから、ええのんめっちゃ頼んで!」
拓嗣くんはもうすっかり立ち直ったのか、溌剌とした笑顔を浮かべていた。良かった。催眠術を解いたのは、術中にいた拓嗣くんには不本意だったかも知れない。だが、千歳はありのままの拓嗣くんが良い。少し思い込みが強くて、サプライズとイベントが好きで、優しく千歳に寄り添ってくれて、真面目で。そんな拓嗣くんだから、一緒になったのだから。




