第5話 常識と非常識
千歳の2杯目は、頼もうと思っていた利休梅の静香。こくりと口に含むと、こちらもすっきりとした味わい。香りは控えめだが、柔らかな甘みとほのかな酸味を感じた。
ゆずちゃんもゆっくりとグラスを傾けている。だが聖ちゃんはやけになっている様で、ぐいーっとグラスを斜めにしてしまう。
「ちょ、聖ちゃん、チェイサーもしっかり飲みましょ」
千歳はつい慌てて言う。すると聖ちゃんは予想外にも素直にチェイサーを流し込んだ。千歳は少しほっとする。
「日本酒の一気飲みなんて、あほなことせんと。で、何があったん?」
ちずちゃんが聞くと、聖ちゃんはまた不機嫌そうな顔になる。
「聞いてたんちゃうん?」
「ひじりんの声が大きくなってからしか聞こえてへんから、内容全然分からん。別れ話やったんかなー、ぐらいしか」
千歳もそうだと思ったので、小さく頷く。
「始めはそんなんちゃうかったよ。相手があほなことしたから、それを問い詰めてた」
「あほなことって?」
千歳が聞いてみると、聖ちゃんの黒くつぶらな目が千歳に向く。以前加工したデータの目はブラウンだったので、撮影のときはカラーコンタクトだったのだろうか。
「昨日の夜な、会いたかったから来てくれて言うたのに、夜中やから無理やって来てくれへんかったんよ」
「ほう」
その夜中が何時なのかは分からないが、場所とかにもよっては難しいのではと千歳も思う。
「他にもさ〜、アクセ欲しいのがあったから買ってくれて言うても無理やって言うし。たかだか100万やのに」
たかが100万円。そう言えてしまう聖ちゃんの価値観に、千歳は少なからず驚いてしまう。ゆずちゃんも「あらま」と目を丸くしている。
「バッグとか服とかも、彼氏やったら買ってくれるもんやん。あたしが会いたいて言うたら、何時でも来るんが彼氏やん? そんな最低限こともしてくれへんねんで、ほんまむかつく!」
「落ち着いて、落ち着いて」
聖ちゃんがまたヒートアップしそうだったので、千歳は慌ててなだめる。ゆずちゃんは「あはは」とおかしそうに小さく笑った。
千歳は、あ、そうや、と店員さんを呼ぶ。そして豚汁を3人分頼んだ。
「豚汁? あたしは飲まんで、そんな貧乏くさいもん」
聖ちゃんの顔がしかめられる。貧乏くさいという表現にも千歳は驚くが、どうやら聖ちゃんと千歳は金銭感覚から何から価値観が違うみたいなので、特に気分を害したりはしない。少しだけショックだが。
「まぁまぁ、何ごとも経験ですから」
「そうそう、ひじりんは私らとは感覚がちゃうんよねぇ。多分やけど、実家とかめっちゃお金持ちやったりする?」
「よう分からん。でも欲しいもんは何でも買ってくれたし、家政婦が何でもしてくれたし。レストラン行ったら5万のディナーとか普通やったけど、そんなもんや無いの?」
「それやったら、バイトとかもしたこと無いかぁ。お小遣いも多かったんやろうなぁ」
「多かったんかな? 欲しいもんあって、お金欲しいて言うたらくれてたし」
なるほど、ご両親にべったべたに甘やかされた上の、この感覚形成となったわけか。あまり珍しい話では無いのだろうが。
甘やかしにはいろいろあれど、親が子に施すことはおおまかにはそう多く無い。お金、行動、基本的にはこのふたつだろうかと思う。
親は子に言われるがままにお金を与え、家政婦さんは願いを何でも聞いてきた。家政婦さんにしてみればお仕事だろうから、雇い主の子にもの言える立場では無かったのだろう。
そうして今の聖ちゃんになった。一般的な常識とはかけ離れたひとりの人間ができあがったのだ。
「今も、モデルやったりタレント活動とかで、それなりに稼いでるんやろうなぁ。事務所も大きいとこやし」
「まぁ、お小遣い程度にはなってるけど」
ゆずちゃんと千歳は目を見合わせる。多分、思ってることは一緒だ。
「聖ちゃん、さっきの男性、元彼さん、お仕事は何をしてはる人ですか?」
「何って、詳しくは知らんけど、普通に働いたりしてるんとちゃうん?」
「普通の会社員やったら、100万円を稼ぐのには、3ヶ月ぐらい掛かるんですよ」
すると、聖ちゃんは「え」と目を見開いた。
「嘘やん! そんなに掛かるん? ていうか、会社の給料とかってそんな安いん!?」
元彼さんは自分の収入などは伝えていなかった様だ。確かにお付き合いをしているだけなら、そう言うものでは無いだろう。
だから価値観の相違ができていた。聖ちゃんには常識だったが、元彼さんには非常識だった。
千歳は聖ちゃんの経歴は知らないが、学校を卒業して、就職はせずにこの業界に入ったのだったら、一般的な収入を知らなくても無理は無いのかも知れない。
「ま、普通の勤め人は、5万のディナーなんて、滅多に食べにいかへんわな」
「行かへんねぇ。居酒屋さんとかでひとり5千円とかで充分よねぇ」
「そうそう。それで贅沢気分」
居酒屋さんの相場は、立地にもよるが4千円から5千円といったところ。千歳のお家があるあびこなら、3千円でお釣りがくる。
「せやから、いつも連れてかれるお店がしみったれてたん? お酒とか1杯千円もせんようなとこ」
「それが、私ら一般的な人間の常識。そりゃ新地とかのバーとか行ったら千円なんて余裕で超えるけどな? そんなん、よほど贅沢しようと思わんかったら行かへんわ」
「嘘ぉ……」
聖ちゃんはこれまで相当周りに守られてきたのだろう。呆然としてしまっていた。




