パンと生き様と温泉を
異世界生活は9日目に突入した。
今日のバイトはパン工房の手伝いと引っ越しバイト。
引っ越しバイトはイメージできるが、パン工房の方は一切想像できない。
なにするんだろう。こねるのかな。
「パン工房ってなにするんだろう。こねるのかな?」
隣を歩く先輩がそう尋ねてきた。
心を読まれた。
「こねるんですよ多分。」
答えは僕も知らないから適当に答える。
工房っていうくらいだからパンを作れるんだろう。
昨日この仕事を選んだ時も、
『パン作れるんだ!』
と言って報酬もあまり考えずに決めた。
仕事内容は『工房のお手伝い』
だからその手伝いの内容が知りたいんだよ。
報酬は2時間で35クルス。
日本円で時給700円。
…。やはり若干円高か。
案内所で受け取った求人票を見ながら工房へ向かった。
「いやいや、来てくれて助かったよ。いつもやってくれる子が家族旅行に行っちゃっててね。」
パン工房の工房主、ナップさんは、何と言うか、想像通りの風貌だった。
丸く膨らんだお腹。おおらかな笑い方。
うん、パンを作ってそうな人だ。
僕らの仕事は包装作業だった。
パンを作れることを期待していただけに少しがっかりしたが、仕事終わりに少し見せてくれるらしい。
この世界のパンは日本のパンとそれほど変わらない。
食パン、クリームパン、フォカッチャ、バゲット…。
各商品に決まった包装方法がある。
僕らはそれを守って包装してテープで止める。
テープがあるのか。
ていうか包装…。
いつの間にそんな技術ができたんだ。
包装は透明なビニールテープではなく紙包装だったが、それでもシュトレスの時にはそれさえなかった。
紙袋に直入れだった。
聖山に近づけば近づくほど技術も発展する。
これは、イルキュレムにはもう現代日本以上の技術があると思ってよいのでは…?
イルキュレムの技術力なんか行ってみればわかる。
僕らは包装作業を進めた。
2時間が経って、僕らの作業時間も終わりの時間になった。
ナップさんは約束どおり僕らに作業場を見せてくれた。
当たり前だが機械はない。
全て手作りか。
「かなりたくさんパンを作ってましたけど、大変じゃないんですか?」
僕はナップさんに尋ねた。
多くの従業員がいたとはいえ、あの量のパンを生産するのは大変なことのはずだ。
「大変だねぇ。」
ナップさんはしみじみと答えた。
なぜそんな大変なことを。普通にパン屋をやるのであれば、もう少し時間を分けて作れるから簡単ではないか。
なぜわざわざパン屋より大変な方を選んだのか。
そんな問いの答えは、彼のその声と顔だけで分かった。
好きなんだ。
この人は。パンを作るのがたまらなく好きなんだ。
なんだか、太ったおじさん、という印象しかもっていなかった二時間前の僕を殴ってやりたくなった。
ここは工房なのでパンを一般人に販売するのではなくいろんな店に納品しているらしい。
工場のほうがイメージ的に近いが、そこの違いは考えなくてもいいだろう。
どこに納品しているのか聞くと、快く教えてくれたので、僕らはそこで昼食をとることにした。
納品先は大通りにある商店だった。
ウラル商店…。
日本で言うスーパーみたいな感じで野菜や肉、惣菜諸々を売っている店だ。
ナリボシでは有名な商店らしくこの都市だけで6店舗構えているらしい。
アムノンにも1店舗進出しているとのこと。
パン売り場は店の奥の方にあった。
プレーンのまま売っているものもあればサンドウィッチのように納品されたパンにこの商店で具を挟んだものも売っている。
僕は工房で作っていたクリームパンを買って、先輩はパストラミビーフのサンドを買っていた。
大通りにはベンチも何個か設置されていて散歩しながら休憩できるようになっている。
僕らもベンチに座ってパンを食べることにした。
昨日の時点では思い切り失念していた。
ご飯のお金を考えていなかったのだ。
まあ貯金は山ほどあるし、次の都市には長居しよう。
パンは美味しかった。シンプルながらに優しい味だ。
これからは引っ越し作業が待っている。
最後の栄養補給を済ませて、僕らは2つ目のバイト先へ向かった。
二つ目のバイト先は引っ越し作業。
ここはナリボシの中心街だが、依頼主の老人は長年役所勤めをしていたエリートであったが、先月定年退職。
隠居先にここから少し離れた温泉町へ移り住むことを決めた。
自然の力を感じながら日々を過ごしたり、たまに間欠泉を見に行ったりしたいのだそう。
荷馬車の手配は済んだが、年齢が年齢であったために家具などを運ぶことができず困ってしまったのだそう。
「若いお二人が来てくれて本当に助かりました。」
老人はなんだか元エリートを感じさせない温もりをもって僕らに依頼の経緯を話した。
この都市を明日には発とうと思っていたが、あとで先輩と話そう。
温泉。行きたい。
待ち合わせ場所から少し歩いたところにあった老人の家は、四階建ての、普通の家だった。
エリートが住んでいる家か。と問われれば、あまりそのような感じはしない。
どちらかといえば単身者向け、安い賃貸のように見える。
「ここには役所に入ってから今までのすべての思い出が詰まっているんです。手放すとなると、寂しいですね。」
老人は三階にある彼の部屋へ僕らを案内しながらそんなことを言った。
この世界の町並みは中世のヨーロッパのようだ。
石造りの家が並ぶ石畳の道。広場の噴水。
ヨーロッパの人々は生まれてから死ぬまでずっと同じ家に住んでいる場合が多いと、どこかで聞いたことがある。
それはこの世界でも同じなのだろう。
やすやすと引越しをしたりしない。一つの家に愛着を持つ。
素敵だ。
老人の家には、僕の想像していたような高価そうなものは特になかった。
隠居先に温泉町を選ぶくらいだ。質素な暮らしを好んでいるんだろう。
テーブルや椅子、ベッドなどを先輩と協力して運び出す。
知っていはいたが重労働だ。
ますます温泉に行きたくなる。
すべての荷物を運び終え、次は部屋の掃除。
思った通り、あまり広くはない部屋で、掃除は老人も手伝ったのですぐに終わった。
何もない部屋。
窓越しに光が差し込んで、埃が光って光線が見える。
部屋に広がる彼の暮らしの残り香。
老人が役所に勤め始めたのは45年前のこと。
イルキュレムの学校を卒業して、聖山からも遠く離れたこの都市を選び、ナリボシ都市庁へ就職。
そこからはひたすらに仕事漬けの日々。
気付けば定年退職の時期を迎えていた。
僕はまだまだ彼の気持ちを理解できない。
けれど、僕でさえ一抹の寂しさを抱えるのだ。
彼の感じているさみしさは、きっともっと大きい。
横に立つ老人の目は遠く、思い出を見つめているようだった。
荷馬車は大通りを通って家の目の前までやってきた。
そこに荷物を積み込み、僕らの仕事は終了。
報酬の入った袋を僕に渡しながら、老人は言った。
「本当に助かりました。この街での最後の思い出が君たちでよかった。これで心置きなく今後を楽しむことができる。」
気付けば彼の手は僕の手を包み込んでいた。
彼は仕事に生きた人だ。
なんとなくだが、仕事に生きる人は冷たいイメージがあった。
が、彼の手から伝わる温もりはそれを溶かしていった。
「こちらこそ、楽しい時間でした。」
老人の手を握り返しながら言う。
彼は大きくうなずいて馬車へ乗り込み、この街と、この家の思い出とともに新天地へ向かっていった。
年上からは『生き様』を習うらしい。
彼と話すときは不思議と耳がよくなった。
息遣いさえ聞き逃したくないと、そう思った。
彼の生き様。
仕事に生きながら、人としての愉しさや悦びを忘れなかった。
温もりある人になるための方法を、彼の手は、背中は、声は、教えてくれた。
馬車は遠く小さくなった。
それでも、僕の手は、まだ彼に握られているかのように暖かかった。
「温泉町に行きたい?」
ウラル商店で買ったパンを食べながら先輩は聞いた。
日はかなり赤みを帯びて街を染め上げている。
街路樹の葉も緑と赤の中間くらいの色になっている。
「そうです。」
僕もサンドウィッチを食べながら答える。
引っ越し作業で思った以上につかれてしまったので早めの夕食を取ることにした。
「いいと思うけど、お金は平気なの?まだ足りないでしょ?」
先輩はミルクフランスみたいなパンを食べながら至極当然の疑問をぶつけてきた。
「さっき仕事案内板を見たんですけど、住み込みで働ける温泉宿があったんです。日当はそんなに良くないし昨日の時点だとスルー確定だったんですけど、今日ちょっとあのおじいさんの話を聞いていきたくなって。」
そう、昨日の時点で温泉があることは気づいていたが、この街に長居する気もなく、日当もたったの25クルスだったので無視していたのだ。
だが、この先でどこかに長居する必要が生じるのなら、この町に滞在して温泉を楽しみつつお金を十分になるまでためればよい。
「なるほどね。いいんじゃないかな。私もゆっくり温泉つかりたいし、この先ゆっくりできるかどうかはわかんないしね。」
先輩の同意も得た。
僕は早速仕事案内所へ行き、温泉宿での住み込みバイトの依頼を承諾した。




