九つの命、その先へ
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
フワフワは立ち上がって固まっていた背中を伸ばす。
不安な気持ちを追い出す様に後ろ足で耳の後ろを掻く。
飛んでいく細い毛が、陽の光を浴びてキラキラと舞う。
細長い草の先を奥歯でしがむ。
ニンゲンという種族が彼らを閉じ込めたこの箱庭は、毎朝二分の一の確率で放射線が満ちる。運が悪ければ命を落とす。
そうした状態でもう千年の時が経過した。
彼らは繁殖し、街を形成し、この箱庭で暮らしている。
「シュレディンガーという科学者が考えた実験は、たった1匹と放射性物質を箱に閉じ込めたものじゃった」
長老の歴史の授業をフワフワは退屈だと思っていた。いつも聞き流していたが、その日の言葉は何となく彼の三角耳に残っていた。
「ただし彼は計算にいれていなかった。猫に9つの生があることを」
フワフワの隣のカワイイは窓の外を眺めていた。陽気が彼の黒い毛並みを温めている。
「今日の授業はここまで。カワイイ、ゴハンダヨ、フワフワ。君たちは残るように」
長老に呼ばれたのはいつもの不良チームだ。
いつものお説教を3匹は毛づくろいをして待っていたが、その日は様子が違った。
「フワフワ、君はもう『あの夢』を9度見たな」
気付かれていた。フワフワは髭を立てて驚いた。
「私たちは浅い眠りを繰り返して生きている。しかし放射能の影響で時々深い眠りへ入る。その時に見る『あの夢』と遭遇する度に、私たちは9つある生を1つ失うんじゃ」
「じゃあフワフワはなんで生きてるんだ」
カワイイが尻尾を振って質問した。
「9回見たってことは、もう9度死んでるじゃないか。でもフワフワはぴんぴんしてる」
言葉を続けるカワイイ。ゴハンダヨが大きな欠伸をした。
「フワフワだけが10個目の命を持ってるってこと?」
彼の言葉にフワフワはもう一度驚いた。そんなことがあっていいのだろうか。フワフワは思わず自分の前足を口に含んだ。
「理由は不明じゃ。猫の生態は、長老たちでもわからないことが多いからね。フワフワ、そこまでにしておきなさい」
毛をむしりそうになっているフワフワを制止して、長老は教室を去っていった。
いつもの不良チームで日向ぼっこをしながら、フワフワは不満を述べた。
「君たちはのんびりだね。9回もあの夢をみて普通でいられるわけないじゃないか」
「俺は5回見たぜ。なんだか負けた気分だ」
カワイイが妙な対抗心を燃やす。
「ボクはまだ3回。フワフワ、君は幽霊なの?」
ゴハンダヨは勝手なことを言う。
「僕は生きてるよ。ちゃんと」
フワフワはなんだか居づらくなって、その場を離れた。
裏路地に入って排水パイプを登ってフワフワは誰もいない屋根に登った。
空を見上げる。
9回も見たことで詳細を覚えていられるようになった。
『あの夢』には、フワフワの知らない、毛のない者たちが現れた。フワフワが知識でしか知らないニンゲンが、フワフワの身体を触っているのだ。
そしてニンゲンたちの前足はフワフワを抱き上げて、箱に入れるのだった。
ニンゲンたちが残していった罪の記憶が、遺伝子に運ばれて『あの夢』を見せているのだろうか。
空を見上げていたフワフワは、また不安になって毛づくろいを始めた。
落ち着きが戻ってくるとフワフワはお気に入りの場所へと走った。
アクリルガラスで外界と遮断された箱庭の端、研究施設の跡に到着した。
薄暗い箱のような部屋にはいろいろなニンゲンの遺物が転がっている。フワフワはそれを眺めるのが好きだった。たまにレバーやボタンを押して回ったりして、その感触を肉球で感じていた。
「今日はここで寝よう」
大きなパネルの上でごろりと転がって、フワフワは寝息を立て始めた。
ふと、妙な気配を感じた。
部屋の隅を見つめてフワフワは髭を立てる。
陽の光に照らされた埃かと思われたが、どうも違うようだ。
「誰?」
フワフワはたずねてみた。
返事はない。
かわりに、夢で見た『前足』がフワフワの頭を撫でていった。
その一瞬。
フワフワは重ね合わせの状態になり、膨大な感情が流れ込んできた。
愛情。暖かい気持ち。命を尊ぶ。ふわふわ。嘆き。悲しみ。友情。絶望。
そして、希望。
なにが起こったのかわからず。フワフワは、ンナ、と反射的に鳴いて街へと戻っていった。
自分の家に帰ったフワフワは、母親にただいまも言わず、自分の寝床に入って朝を待った。
放射線は満ちなかった。
翌日。
いつもの不良チームで日向ぼっこをしながら、フワフワは不満を述べた。
「君たちはのんびりだね。9回もあの夢をみて普通でいられるわけないじゃないか」
「俺は5回見たぜ。なんだか負けた気分だ」
「ボクはまだ3回。フワフワ、君は幽霊なの?」
以前と同じ話の繰り返しになって、フワフワは呆れて欠伸をした。
「ニンゲンってどんなのかわかるかい?」
フワフワは二匹にたずねた。
「この箱庭を作ったやつらだろ。ろくでもないさ」
カワイイは鼻を鳴らした。
「あの夢で見たことあるよ。ちょっと怖い」
ゴハンダヨは尻尾を股の間に入れた。
「そうなのかな。そんなものなんだろうか」
フワフワは納得しなかった。
「じゃあ、なんなんだよ。言ってみろよフワフワ」
「ろくでなしで怖いもの。それだけじゃない気がするんだ」
フワフワは、あの『前足』を思い出す。
「陽の光とはちょっと違う、あたたかいもの」
ニンゲンという種族が彼らを閉じ込めたこの箱庭は、毎朝二分の一の確率で放射線が満ちる。運が悪ければ命を落とす。
しかし、箱庭の外は放射線が常に満ちていて、生物は生き残っていない。
そうした状態でもう千年の時が経過した。
猫たちの進化が始まっている。
了




