源四郎、れいわより文化へ流れ着く
かつて毎日夜八時に時代劇が放送されていた時代がありました。真面目なものから考証など知ったことかというものまで様々。そんな時代に思いを馳せて書いた作品です。
蘭学医下山長屋の源四郎といえば、腕は良いが金に頓着しないのが玉に瑕であり、内儀の稼ぎがなければとつくに野垂れ死んでいるだろうというのが長屋の面々のもっぱらの評判であった。
品川宿の長屋に診療所を構えてはいるものの、旅の最中なら路銀が入り用だろうとか、お前はやや子が生まれたばかりだろうなどと金銭を求めることが稀であり、その浮世離れした気風は、かえって住民たちの心配の種となっていた。
その内儀と言うのがおさえというよくできた女であった。源四郎が稼ぐ気がないのを承知の上で診療所に押しかけたという剛の者である。なんでも旅先で源四郎に命を救われたらしく、それがきっかけで夫婦になり、おさえは蘭学医の源四郎の妻となって飯屋「はっとり」で働くようになったのであった。
下山源四郎は気風の良さや腕の良さでたちまち評判となり、患者の行列が絶えなかった。六尺近い上背に、細い顎や整った歯並びなど当世離れした役者のような源四郎目当てに足繁く通う女も少なくなく、長屋は狭いながらも女たちの溜まり場と化していたぐらいである。
おさえの心中いかばかりか、と常ならばなるところだが、この夫婦、「お前様が評判になることは良いことです」と笑いながら気にもしない。そんなおさえが唯一不機嫌になるのが、悪友、蟹江左内が持ちかける相談事であった。
**
「おう左内の旦那、どうしたね」
ある日の早朝から、下山長屋に訪れた蟹江左内は困った顔を源四郎に向けていた。
「源さん、ちと厄介ごとを頼まれてくれんか」
蟹江左内とは江戸北町奉行所与力であり、源四郎がこの品川に居着いたときからの腐れ縁、言ってしまえば悪友である。その蟹江がわざわざ源四郎のもとへ足を運んできたのだから、これは何か面白そうな話に違いない。
「中身によるがね」
勿体つけたその言葉を受けた佐内は寄る辺あり、と声を潜め語りだす。
「源さん、夜烏党、という名前を聞いたことはあるかい?」
「江戸市中で噂の盗賊だな。盗む相手は非道の金貸し連中から。盗みはすれど殺しはせず、なんてんで随分評判らしいじゃねえか」
「おう、その夜烏党よ。やつら遂にな……、殺しをやった」
「何!?」
「しかもな、盗みに入った先が、旗本の邸だったのだ」
「ほう!で、どこのお殿さまが殺されたのだ?」
「……聞かないほうがいいかも知れぬぞ、実はな……」
「どうなされたのです?」
いつの間にやらおさえも座して顔を寄せている。
「おさえ、男同士の話に首を突っ込むのは悪い癖だぞ」
「今更ですよ」
おさえはすまし顔で受け流す。
「私も蘭学医様に命を救っていただいた身、夜烏党と聞けば心中穏やかでは……」
「いや、話が進まんからおさえは黙っておれ。左内殿、先を続けてくれ」
源四郎の単刀直入な物言いに苦笑いしながら左内は言葉を続ける。
「うむ。結論から言えば殿様……、鳥居様は怪我もなく無事だ。だがその腹心萬田用石殿が鳥居様を庇い命を落とされた」
「萬田殿が?」
鳥居甲斐守は下山源四郎にとっても縁のある人物だった。源四郎が江戸に現れた際に身分を保証してくれたうしろだて、などといえば聞こえはいいが、まあ何かしらの駒としての利用価値を認めてくれた腹黒である。
「そこでだな、源さん。鳥居様のもとへ赴き骸検めをしてきちゃくれねえか。士分のおこりごとなので俺たちにゃ手が出せねえ。本当に夜烏党の仕業なのか、検めてきてほしいんだ」
「やれやれ、まあ手荒な真似はしたくはないがな」
そう嘯いた源四郎は傍らの往診箱を手に取りながら立ち上がる。
「おさえ、てなわけで鳥居様のお屋敷まで出かけてくらあ。付いてくるなよ、仕事に女房連れで行ったら物見遊山かと思われちゃうし、骸はお前には見せたくねえ」
「お前様……」
源四郎はおさえの手の甲をつねった。
「いて」
おさえが小突く源四郎の手を摑み、そのまま指を絡める。
「お前様こそ、また厄介ごとに巻き込まれたいのでしょうに」
二人は目を合わす。
そして微笑み合うと手を離して出かける準備にとりかかった。
**
品川宿から東海道を江戸に向かい半里ばかり歩いた処にある鳥居甲斐守の屋敷は閑静なところにあり、常日頃ならば雀の鳴き声ばかりが響くような屋敷なのだが、今日ばかりは噂を聞きつけた江戸市中の者たちが様子を見に集まっていた。
「鳥居様、源四郎でございます」
門を通され屋敷の奥、線香の匂いが漂う一室に通されると、顔に白布をかけられた骸と、数人の男たちがその骸を囲み座していた。
その中でもひときわ眼光鋭い五十半ばと思われる質素な普段着の侍が源四郎の顔を見るや表情を緩め声を上げる。
「おお源四郎、来てくれたか。……萬田だ」
源四郎は一礼の後骸の横に座ると、両の掌を合わせ南無南無と唱え、布を持ち上げ顔を見る。
「確かに萬田様……。結局腕相撲で勝つことは出来ませなんだ」
源四郎は肩を落とすが、顔を上げると鳥居に向き直る。
「骸検め、宜しいでしょうか」
鳥居は頷き周りの侍たちを人払いする。
さて、と源四郎は往診箱から眼鏡を取り出し萬田の服を除ける。体の正面には一本の斬り傷。深く見るまでもなく致命傷である。見事な袈裟斬りであり、これが夜烏党の手に因るものならば凄腕の使い手が一党にいるということになる。
「鳥居様、此度の件夜烏党と断じられたわけは?」
源四郎は萬田の服を直しながら鳥居に尋ねる。
「うむ。まずはこれを見てくれ」
鳥居は懐から一枚の紙を取り出し源四郎に差し出す。紙には黒々とした墨で、なにやら文字が書かれている。
「これは?」
源四郎が尋ねると、鳥居は頷きながら答える。
「萬田が持っていたものだ」
源四郎は紙を手に取ると、しげしげと眺める。
「夜烏党が現場に残す書状ですな」
書には『夜烏党、世直し仕る』と大きく書かれ、墨で烏の紋様が描かれていた。
「萬田の手に握られておったよ。私の目の前でな……」
「盗まれたものは無かったんですよね」
「うむ。お主のあれ狙いかとも勘繰ったが、知る者は居るはずもないでな」
「鳥居様を恨むものは?」
「星の数ほど。目付けなどやるものではないな」
鳥居は自嘲気味に笑った。
「……まあせっかく来たのだ。預かり物でも見ていくかね?」
鳥居の言葉に源四郎は頷く。鳥居は立ち上がると源四郎を伴い私室へと足を運んだ。
**
「これよ。久しかろう」
鳥居は箪笥の奥から黒く光を反射する皮製の背負い袋を引っ張り出すと源四郎の前に置く。
源四郎は少しばかり目を輝かせながら袋を開く。中からは木札のような板きれや洋風の衣服、小さな耳当てなどよくわからないものが入っていた。
「鳥居様……使いましたな?」
源四郎は板切れに指を当てしばし弄ると、含みのある笑みを浮かべ鳥居を見た。
「まあ許せ、お主の云う『れいわ』の音曲に興味があってな。お主の言う通りに中のえれきてるにてば、ばってり?とやらは満たしている」
「私より遥かにお上手です」
源四郎が褒めると鳥居は自慢げな顔をした。
「ふふ、私のような博学多識の士は、単なる音曲愛好家とは一線を画すのだ」
鳥居は襖を開け庭を見遣る。
「あの日、萬田が止めたからお主の命が繋がったのだ。ならばすべき事はわかるな」
源四郎の記憶に刻まれた雨の日の音。
忘れもしない『令和四年二月一日』。二年前なのか二百年先なのか。あの日手術を終えた俺は小雨のふる湾岸道路を愛車GSXカタナで家路に急いでいた。平和島あたりを走っていたとき、雷に打たれた俺は何故か江戸時代にタイムスリップしていたのだ。
わけもわからず途方に暮れていた俺を助けてくれたのが、鳥居甲斐守その人であった。
怪しきものとして手打ちになる寸前、萬田用石が源四郎に生かす価値あり、と進言したのだった。
「そう、萬田殿はあの日のように飛び出したのでしょうな。そして身を呈し鳥居様の命を救った」
「うむ。萬田のためにも一党の尻尾を……尾羽根を捕らえよ」
源四郎は無言で頷く。
「だがな、源四郎。オレの勘ばたらきだが、どうもこれは夜烏党じゃない気がするのよ。彼奴らにオレの命を狙う理由がねぇ」
庭を眺めながら淋しげに漏らす鳥居の一言を胸の内に収め、源四郎は屋敷をあとにした。
**
「おう源さん、なにかわかったかい?」
品川へ帰った源四郎は、飯処『はっとり』にて左内と合流した。
「うむ、まあ色々わかったが、一番重要なのは鳥居様が『夜烏党ではない』と仰っていたことだ」
「ほう。なんでぇそりゃ」
左内は運ばれてきた燗を一口飲み、首をかしげる。
「どうも鳥居様は夜烏党に狙われたというよりも、萬田様を狙った刺客に襲われていると考えたほうが良いようだ」
「ふむ?」
「鳥居様は黒い噂も沢山あるが、市井の民草から恨まれることはしちゃいねえ。夜烏党に狙われる筋がないのよ。夜烏党は鳥居様を恨んでいるやもしれないが、狙う理由が無い。だからあれは鳥居様を狙ったものでは無い、と仰っていたのさ」
「なるほどな……だがそれじゃあ一体誰が?」
「わからん。でまあ、夜烏党じゃないならば夜烏党の連中はどうなったんだ?って話になる」
「おう」
「そこで萬田殿だ。あの善良を絵に描いたようなお方。鳥居様の話では夜中にふらりと屋敷を抜けることがあったとか」
「ほお」
「つまり夜な夜な萬田殿はどこかで誰かと会っていたのではないか、と鳥居様はお考えだ」
左内はうんうん、と相槌を打っている。
「それでだな、吉原通いでも始めたのかと他の用人に後をつけさせてみると、どうにも呉服町のあたりでいつも姿を見失う」
「おうおう。……うん?」
源四郎は箸で煮魚をほぐしながら言葉を続ける。
「どうやら呉服町あたりにその謎が隠れているようなんだがナア。まあ今日わかったのはその程度よ」
左内は白飯を頬張りながら、ふうん、と相槌を打つ。そして空の茶碗を卓に置くと思い出したように問うた。
「そういえばな、源さん。今日この宿場に土佐様の遣いが来てたぞ」
「お?なんかあったのかい?」
「おう。なんでも浜川の蔵屋敷を一軒買い上げるんだとよ」
「……そりゃまた豪気な話だな……」
「大砲なんぞ設えるんだと。金っていうのはあるところにはあるものだな」
左内は湯呑みを煽ると銭を卓において席を立つ。
「ありがとよ源さん。俺は呉服町でもあたってみらあ」
「おう、またな」
源四郎は左内の後ろ姿を見送りながら、箸の先で煮魚の皮をつついた。
*
それから十日程たったある日。
夜烏党は鳴りを潜めたのかそれ以来音沙汰がない。源四郎は品川遊郭の女郎たちの身体に不調はないか、今で言うところの健康診断に赴いていた。
品川で最も名のとおっている花魁『はな雅』を前に流石の源四郎も頬を朱に染め、胸、気管、肺などの具合を確かめる。
「源四郎先生、可愛いところもありんすなァ」などとはな雅はいつもの如くの笑みを浮かべながら源四郎の診察を受ける。
「ところで先生、最後に夜烏党が盗みに入ったお店、覚えてはります?」
「ん、鳥居様のお屋敷じゃないのかい」
「あんな『にせもの』の話じゃありませぬ。廻船問屋『いわみや』のことどすえ」
源四郎は、ああ、と頷く。廻船問屋『いわみや』は夜烏党の被害を受けていないはずだからだ。夜烏党に入られたものの奉行所には盗まれたものは無いと捜査を突っぱねていたのである。
「あそこのお店、どうやら怪しいものを隠してたみたいでしてな」
「へえ」
はな雅の話によれば、事件の後、品川遊郭でも一番柄が悪いという『皆花楼』に配達に来ていたいわみやの丁稚が来なくなり、皆花楼も開店休業。遊郭の女達の間ではいわみやは阿片でも取り扱っていたのでは、という噂がまことしやかに流れているそうだ。
「そして十日ほどまえから皆花楼は客引きを再開したんどすえ」
「なるほど……。鳥居様の一件とタイミング……時期が一致するな」
はな雅は頷いて、源四郎に向き直る。
「その件なんやけど、先生にお願いがおざります」
「どうしたね?」
「先生、うちで遊んで行きまへんか?うちの馴染みからの誘いどす」
*
源四郎は茶屋『花御殿』の二階座敷に上がり、一人盃を傾けていた。
(もう二年、麦酒なんぞも飲んでないな)
あの夜を知らない街のネオンや喧騒が懐かしくないと言えば嘘になる。だがこの品川の町とて中々捨てたものではなし、少なくともよくできた嫁と退屈しない暮らしがある。
「先生、お待たせいたしました」
はな雅に連れられどこかの隠居といった風体の身なりの良いおとこが座敷に入る。
「太夫、こちらの旦那は?」
おとこは意に介すでもなく源四郎の前に座る。
「呉服町の反物屋、尾張屋のご隠居、幸右衛門様どす」
「はな雅、お主の紹介じゃ。聞かぬわけにはいかぬのう」
幸右衛門はおとこ臭い笑みを浮かべながら源四郎に向き合う。
(全く江戸の町人は恐ろしいね。)
源四郎も微笑みながら言葉を返す。
「名乗るほどのものではないです。しがない町医者でございますよ」
「ほうほう、太夫が推すお方だ。さぞ高名な先生なのだろうな!」
はな雅の酌でしばらくは言の葉もないまま二人は酒を酌み交わす。
「……品川いちのおんなに注いでもらう酒だ。もう少し悦んでもいいんだぜ」
幸右衛門は源四郎の顰め面を愉快そうに眺め盃をあおる。
「幸右衛門殿。あなた、萬田用石様とお知り合いですな」
源四郎の一言に幸右衛門は目を鋭くして源四郎を見据えた。
「お主、何者だ」
「ただの町医者ですよ」
「まあよい。萬田を知っているのは確かだがな、奴とは長い付き合いになるがね……。確かにあの用人と儂は昔馴染みだよ。それがどうした?」
源四郎は酒を一口含むと盃を置く。
「萬田用石様が亡くなった際、手には夜烏党の書面が握られておりました。そのため鳥居様宅に押し入ったのは夜烏党という話となりましたが、鳥居様も俺もそんなのは信じちゃァいない。『あれ』はおそらく、書面を捨てようとしていたのです」
「ほう」
幸右衛門は眉一つ動かすことなく酒を飲み続けている。
「それで?」
幸右衛門は盃の中の酒を飲み干すと、源四郎に鋭い目線を飛ばす。
「俺の勘ですがね、萬田殿は夜烏党の一味だった。いや、首格ですらあったやもしれない。まあ、今となっちゃあどちらでもよい話です。根が善良な萬田殿は、よなおしの積もりで悪党相手の盗みを行っていたのでしょう。だが相手が悪かった。いわみやは一枚上手だつたのでしょうな。面が割れ、いわみやからの報復で萬田殿は命を落とすことになった。夜烏党の秘密を守るため萬田殿は書状を捨てようと取り出したが逆にそれをいわみやに利用され、この騒動をさも夜烏党の仕業であるかのように宣伝された、と言うところかと」
源四郎の盃に再び酒が満たされる。
「ふむ。お前さん、面白いねェ」
幸右衛門は源四郎を試すような目で見据えている。
「そして萬田殿の死をもって皆花楼が再開した。おそらく夜烏党がいわみやから盗み出したものは阿片。邪魔者がいなくなったのをよしとしてまたいわみやから皆花楼へ流通を始めたと考えれば筋がとおる」
「ふむ。だが儂には解せぬな」
源四郎は盃の酒に、映る自分の眼を覗き込みながら呟く。
「阿片なぞなくとも皆花楼の稼ぎならば十分に暮らしていけるであろう。わざわざ危険を冒してまで入手する意味があるだろうか?」
幸右衛門は首を傾けて源四郎を見据えた。
「確かにね、あんたの言う通りだ。まあここから先は根も葉もない益体のないはなしです。お隣、清の国のことはご存じですかぃ、えげれすが持ち込んだ阿片のために王朝は不平等な取引を迫られ、戦争に……いや、もう少しあとの話か。俺が言いたいのはね、幸右衛門の旦那、裏で手を引いて富を得ようとしているやつらがいるってことですよ。そしてそれはこの国の者ではないかもしれない」
幸右衛門はニヤリと笑いながら源四郎を見据えた。
「ふむ。……お前さん、医者にしておくには惜しいな。どうだ、儂の用心棒にならんか?」
源四郎は苦笑した。
「やめといた方がよろしいですぜ。ろくな死に方はせんでしょうよ」
「はは、違いない!だがこれは儂の勘だがね、あんたとはまた会うことになると思うよ」
「さてどうですかね、そろそろ俺は失礼しますよ。女房が待っていますんで」
源四郎は席を立つ。
「うむ。あんたとはまた飲み交わしたいものだ。……これも儂の勘だがね。夜烏党が動く、近日中にな」
「かたきうち、などは考えないほうがよろしいかと」
「やつらは盗っ人よ。侍みたいな真似はやらねえよ。やるならもっと粋なことさ。粋にな」
「粋、ですか」
源四郎は首を捻る。
***
その日、一枚のかわら版が江戸市中をにぎわせた。
「さあさ、見てくれ買ってくれ!あの夜烏党がなんと『お勤め』を宣言した!しかもいわみやに皆花楼、二箇所同日にやるってんだから驚きだ!詳しいことはこのかわら版を買ってくれ!さあさあ買ったり買ったり!」
かわら版売りは人だかりに声をかけながら声を張り、道行くものはそれを手に取っていく。
かわら版の売り文句は『今夜、いわみやと皆花楼の二箇所同時襲撃!』と大きく書かれていた。
そして『今夜決行』の日取りとともにいわみやと皆花楼へそれぞれの場所を指示した地図が載せられていた。
***
「左内の旦那はどっちにはりつくんだい?」
いつもの如くの飯処『はっとり』では源四郎と蟹江左内が顔を突き合わせている。
「今回は皆花楼だな。夜烏党の動きがきな臭くなってきた」
源四郎は懐から紙の包みを取り出し、中身を口に運んだ。
「旦那、これは内緒だぜ」
源四郎は包みをいくつか左内の手のひらにこっそり握らせる。
もぐもぐと口を動かす源四郎をみて左内も真似をする。口の中で甘い砂糖のようなものが甘く溶けていくのを左内も感じていたが、すぐに溶けて無くなってしまうので不思議な食べ物だと思った。
「おう源さんに左内、うまそうなもん食ってるねェ。俺にもくれよ」
などと脇から現れた浪人のような風体の男が、言い終わる前から左内の菓子を取り上げる。
「なんだ、金の字か」
この男、旗本御家人の三男坊、冷や飯食らいで名を金四郎と言う。家督をついで遠山景元を名乗り、いずれは江戸市民のヒーローとなるのだがそれはまだ先の話である。
「源さんよう、なんか面白そうなことになってるみたいじゃねえか。俺も連れてってくれねえか?」
左内は嫌な予感がした。金四郎はとんでもない暴れん坊である。彼の武勇伝を語れば枚挙に暇がないが、とりあえずこの場で言えることは『殴りこみ』の好きな乱暴者であるということである。
(……まさかとは思うが)
左内が不安げに源四郎の顔を見ると、彼はいつもの顔だった。
「おう金の字、ちょうどいいや。左内の旦那は皆花楼に張り付くらしいから、お前さんはいわみやについてくれ。大暴れして構わんぞ」
源四郎はニヤリと笑って金四郎の肩に手を置いた。
「おお、そうかい!そいつぁいいや」
金四郎は無邪気にはしゃいでいるが、左内は気が気ではない。
「ちょ、ちょっと源さん!そんな勝手な……!」
「おっと心配するな左内。金の字はなりはこんなだが江戸の皆のことを第一に考えている。なんだっけ、桜吹雪?」
「そう!俺の『せな』に咲く御目付桜よ!」
左内は頭を抱える。この男に常識は通用しないのだ。
「そうと決まればまずは腹ごしらえだ!『はっとり』の飯はうまいが、いかんせん量が少ないからな!」
金四郎は嬉しそうにそう言って飯を掻き込み始めた。源四郎もそんな彼の様子を見て微笑みながら自身も料理を口に運んだ。
***
その夜である。廻船問屋いわみやは夜というのに周りの往来は絶えず、夜鳴きそば屋が屋台を出し、かわら版屋が蕎麦をすすり、江戸の市民たちはこの一戦見逃すまい、と人だかりを作っていた。
そのいわみやの主半兵衛は不機嫌を隠しもせず邸内を歩き回り、雇いの柄の悪い者たちに指示を出す。
「あの蔵だけは絶対に誰も近づけるんじゃありませんよ。高い金を払っているんだ、夜烏党がごとき盗賊など切り捨てても構いません!」
半兵衛は金切り声をあげる。えげれすと取引していたという、いわみやにとっては機密の文書がそして御禁制の阿片が蔵には保管されている。
「何をしているんですか!さっさと蔵の見張りに行きなさい!」
柄の悪い男たちは足早に部屋を出ていくが、一人だけその流れに逆らう者がいた。
「すいやせんな旦那。俺はどうにもあの蔵が怪しくっていけねえや」
「怪しかろうがお前が構うことじゃない。金の分だけ働け、と言っているんですよ」
男、すなわち金四郎はにやりと笑みを浮かべ半兵衛の元を去る。金四郎の頭の中では蔵の中には何が眠っているのか、どんなお宝があるのかが想像を膨らませていた。
(まあ、あの蔵の中にあるもんは御禁制の品々だろうよ。見つかったらただじゃあすまないだろうな。)
金四郎はいやらしく笑う。金四郎には剣術の心得もある、腕も立つと自負しているし何より頭が切れるのだ。まずは夜烏党がどう動くのか。金四郎は自分の出番をじっと待つ。
***
品川遊郭の一角、皆花楼は迷路のような遊郭の街並みを巧みに使い、すっかりいくさの仕度であった。用心棒の無頼の浪人も多数引き入れ夜烏党なにするものぞ、というふうである。
「おいおい。夜烏党のやつら、返り討ちではなかろうな」
左内は品川宿の通りで屋台の蕎麦をすすりながら遊郭の様子を窺う。
遊郭の内には火盗改が入り込み、皆花楼の無頼の衆と牽制し合っている様子であった。
「夜烏党のやつらも、火盗改には敵うまいて」
と左内が思っていると、突如火付盗賊改の者たちが、皆花楼へ次々と乗り込んでいく様子が見えた。
「いかぬ!」
左内は食いかけの蕎麦を置くと走り出した。
***
金四郎は廻船問屋いわみやの蔵の前で腕組みをしながら立ち尽くしていた。
もし俺が夜烏党ならどうするか。
二手に分かれるのだから手が足りねえ。どちらかを『はったり』として、一方に集中する手もあるだろうが、それは夜烏党の誇りが許さんだろう。
態々宣伝までしたのだ。お陰であちこちに人だかりができ、盗みなんぞやりにくそうなものだがー
「なるほど、そういうことかい」
金四郎は壁越しに聞こえる町人たちの喧騒に耳を傾けた。次第に祭りのように狂騒をましていく外の声の中、一つの『声』が夜の町にひときわ高く響き渡った。
「夜烏党だ!!」
その名を聞くや雇いの男たちは各々警戒を強め次の動きが起きるのを待つ。
ひとりはつばを飲み込み、ひとりは愛刀の鈍い光に視線を送る。あるいは肌をさらけ出し、自慢の肉体で周りを挑発する。
しかし何かがおこる様子はなく。拍子抜けとばかりに息をつくと、また町の何処から声が響く。『夜烏党だ!!』男たちは声のおきたあたりの門を固めじつとまつ。
だがやはりなにかが起きるふうでもなく。
「夜烏党だ!!」
その声起きること四度、五度、……八度。いつしか声は門の外のあちこちから聞こえ、いわみやは夜烏党の呼び声にまつたく囲まれる体となっていたのである。
「町人ども、楽しんでいるな……!」
いわみやの主半兵衛は歯噛みし雇いの男たちに荒げた声を送る。
「いったいいつになったらやつらは仕掛けてくるのだ!ええい、役立たずどもめ!」
男たちがその声を相手にすることにつかれた頃、門の前で既に聞き飽きた『夜烏党』の名前が聞こえてくる。
半兵衛がうんざりした顔で手を振ると、雇いの男が幾人か、凄みを利かせた顔で門を開く。
「いい加減にしろ!てめえ等邪魔をしたいのか!」
だが門を開いたのが悪手だった。
町人の波が自らを『夜烏党』と名乗り邸内に飛び込んでくる。もう誰が本物の夜烏党なのか判りはしない。大混乱である。
「な、なにをする貴様ら!」
半兵衛は後ずさる。その拍子に躓いたかと思うと、彼はその場に尻もちをついてしまった。
「半兵衛の旦那!ご無事ですか!」
「蔵を、蔵を固めなさい!夜烏党どころか町人ひとり近づけてはなりませんよ!」
「わかりやした。では旦那。念のため鍵はあっしが預かりやす。旦那がそれを持っていると目立つでしょう?」
夜通しの夜烏党を呼ぶ声と町人たちの入り込んだ混乱で半兵衛は疲れ切っていたのであろう。ああ、と頷くと半兵衛は蔵の鍵を雇いの中には『いなかった』男に手渡した。
**
雇いの男たちがやっとのことで町人たちを追い出し、もう夜烏党は来ないのだろうとてんでに考え始めた頃、一人の男が『それ』を見た。
「は、は、は半兵衛の旦那!蔵が、蔵が空いてる!」
「な、ななんですって?」
半兵衛と男たちが蔵に駆けつけてみると、確かに蔵の鍵は開き、中はすっかり空っぽになっていた。その壁には『夜烏党、世直し仕る』の書状が貼られている。
「まさか……」
力なく腰を落とす半兵衛。集まった男たちの姿をみると、鍵を渡した男がいない。
やられた。
あれは夜烏党の一味だったのだ。
「追いかけなさい!まだ間に合うはず!」
男たちは応、と頷き門から外に出ようとするが、そこに立った雇いの男の一人が門を塞ぐように振り返った。
「いや、もう終わりだぜいわみや半兵衛。お前さんが仕入れていたご禁制の品の数々、明日には奉行所の門の前に並べられているだろうよ。それにこいつ、これがことのおこりだろう?」
男……金四郎は懐から小袋を取り出し半兵衛の足元に投げつける。割れた袋からは白い粉が姿をのぞかせた。
「阿片なんか配るもんじゃねえよ。貴様らの悪事、この金さんが一切合切見届けたぜ」
「う、裏切り者! さては夜烏党の一味ですね? やってしまいなさい!」
斬りかかる男の一人をいなすと金四郎は半兵衛たちに向き直る。
「そんなわけねえ、どっちがより悪いか考えてみただけよ。さあ、この桜吹雪、散らせるもんなら散らせてみやがれ!」
金四郎が片肌脱ぐと見事な桜をあしらった彫り物が顕になる。
「この桜吹雪の金さんが相手だ! かかってきな!」
***
左内が品川遊郭へ飛び込むと、皆花楼の無頼の衆と火盗改が刃を交えている最中だった。
夜烏党をほっぽりだして刃を交えている理由はとんとわからぬが、それを考えるのは後にしたほうが良さそうであった。
「木村様、北町の蟹江でござる! 何がありました!」
指揮を取る火盗改の与力を見つけた左内は急ぎ声をかける。
木村は左内の姿を横目で一瞥すると火盗改のはたらきに目を戻し声を出す。
「皆花楼から飛び出したおんなの手に阿片が握られていた。話を聞くために匿おうとしたら浪人どもが斬りかかってきたのだ」
「なるほど……して、夜烏党は?」
夜烏党の名前に木村は苦々しく眉を寄せる。
「おんなの背に『夜烏党、世直し仕る』と書状が縫い付けられていった。隠居のようなじじいと飲んでいたが、『じゃあ今日はお前さんを盗むとするか』などと嘯いたそうだ」
「左様か。あいわかった」
左内は十手を引き抜き皆花楼の中に走り込むと、座敷からはげしい剣戟が聞こえてくる。
浪人や皆花楼の雇い人たちを躱しながら左内は皆花楼の離れを目指す。奥の座敷からは逃げ惑う使用人の悲鳴と浪人の怒号が聞こえてくる。
「北町の蟹江である! おとなしく縛につけ!」
左内は襖を開き名乗りをあげた。
「町方だと! どけえ!」
大柄の渡世人風の男が振り向きざまに刀を振り下ろす。その刃は左内に届くことはなく、左内の十手は男の刃をしっかりと受け止めていた。
「こ、こやつは……!」
「この太刀筋……、お主、萬田用石殿を斬ったものだな?」
「萬田? 知らんな、俺が斬ったのは夜烏党よ!」
「左様か」
左内は十手で刀を払い除け、改めてその先を男に向ける。普段のとぼけた目つきは消え、街を守る同心の瞳が男を睨む。
男は渡世人らしい我流の構えからひといきに大太刀を振り下ろす。
「応!」
だがその刃は左内の十手に阻まれる。
左内はその姿勢から男に蹴りを入れ、怯んだところを二の腕に十手の一撃を入れる。思わず刀を取りこぼした男に向かいさらに一撃。
勝負は決した。
「萬田殿のかたきでも命は取らん。お白洲で全て吐いてもらうぞ」
***
さて、この二つのおつとめの間、源四郎はどうしていたか。
多摩川を越えた東海道を、鉄の馬が激しいいななきをあげながら横浜へ走っていた。
隣を並走する鳥居甲斐守とその愛馬。
「源四郎! すごいのう、その馬、疲れも知らずしかも速い! れいわとやらの技によるものか!」
「鳥居様! 残念ながらこれは令和ではなく昭和の技術に候! だが排ガス規制前の一品、パワーなら段違いでさあ!」
源四郎が愛車GSX1100Sカタナのアクセルを捻ると鉄の馬の嘶きは強くなり、闇の東海道を照らすヘッドライトが源四郎たちの行き先を示す。スマホからは大音量のBGM。夜中に騎馬と走るのだから、こういうときは『Ghost riders in the sky』だ。
「さあ、えげれす人共に一杯食わせてやりましょう!」
「おうよ!」
甲斐守の返事も勇ましく、二騎の馬は夜道を駆ける。
***
夜の神奈川の宿場は静かなものだった。
その宿のひとつ旅籠『湊屋』にて、江戸に入ることを許されていない英吉利の軍船『ハイヤシンス号』の将校たちが休息を取っていた。
「そう言えばモールズ大尉。清に回す阿片の数が合わぬと管理兵より報告があがっている。心当たりはないか?」
なんの気もないように努めてさり気なく船長は傍らの将校に声をかける。
「はて、ネズミにでも齧られましたかね。日本のネズミは悪食なことだ」
そうか、と船長は頷く。彼が最近船員相手のギャンブルで妙に羽振りがよくなったのはみんな知っている。阿片の数が合わなくなったのとほぼ同じ頃からだ。
清が片付けばつぎの目標はこの島国なのだからこの国に阿片が出回ること自体はどうでもいい。問題は軍の規律を無視し私腹を肥やしていることだ。なにかあれば切り捨てを……、船長の思考は旅籠内に響く声に中断された。
「旦那方、いけねえよ! こちらはえげれすの船乗り方だ、あんたらが勝手に乗り込んでいい相手じゃねえ!」
主の声を無視し二人の男が旅籠の部屋に飛び込んできた。
いずれも日本の服を身につけている。
「おやおやあんたは英吉利の海軍将校様じゃあありませんかい? それなのにこの江戸で人に阿片を売って商売してるたあ感心しないねえ!」
ぴくりと震える大尉を尻目に船長が立ち上がる。
「全くだ。私は紳士ゆえに話をしようと思うが、こちらの御仁はそうでもなさそうだ」
船長は眼の前の男を観察する。身の丈175cm、日本人なのだが立ち居振る舞いは西洋人に近い細身の優男。そして何より、今のは英語。アメリカに近い発音だ。
「なんでい、じろじろと」
「いや。話を聞こう。名は?」
「源四郎。こちらは幕府目付役、鳥居甲斐守様」
「ふむ。確かに我らの船には阿片が積んでるよ。だがこれは清国との貿易で使うもの。もし流通しているなら横流ししている裏切り者がいるということになる。だな、大尉」
話を振られた大尉はびくりと体を震わせながら声を上げる。
「そ、そうであります! 我が船にそんなことをする者はおりません!」
「だそうだ。すまないがほかを当たってくれないかな?」
船長はあごひげをひと撫でし二人を見やる。
源四郎の脇に立つ年かさの男が一歩すすみ、静かに口を開いた。
「この度の騒動で我が用人が命を落とした。いくさならばそういう定めであったと諦めもつこう。だがよ、人の欲のために命を落としたってんじゃあ、浮かばれないんじゃねえのかい」
鳥居が放ったことの葉は、日本語故に船長には届かない。だがじっと静かに船長を見据える瞳には、真実を語るだけの力があった。
「……大尉、君を罷免する。軍事品の横流しについて君は裁判にかけられよう。責任は自分でとり給え」
「か、閣下! 御無体な!」
悲鳴のような声を背に鳥居と源四郎は部屋を出た。
「鳥居様、いいんですか。我々でとっちめてやったって……」
「萬田は喜ばんよ。それに直に制裁するといくさになる。お主の話ではえげれすとはいくさをしていないのだろう?」
源四郎はカタナのエンジンを温めながら歴史の教科書を思い出す。
この数年後、異国船打払令が将軍徳川家斉より発布され米国の黒船が現れるまでオランダ以外の船は日本に近づけなくなる。
結果的に日本はアヘン戦争に巻き込まれることなく開国を迎えるのだ。
「どうですかね。明日のことなんざ知らないほうがいいですよ」
源四郎は笑いながら二輪の鉄の馬にまたがると、鳥居の馬と速度を合わせながら空が白み始めた東海道を、お天道様のほうへ駆けていった。
***
「ふむ、左様なことが」
夜烏党の騒動が収まったころ、飯処『はっとり』の二階では一人の侍があるじの紋次と酒を酌み交わしていた。
「は。『いわみや』、『皆花楼』は取り潰し、女郎たちは診療所で阿片を抜いたあと『花御殿』が引き取ることに。夜烏党は取り逃がしましたが町方のこと、水野様が知る必要はないかと存じます」
ときの老中水野忠成は頷くと、手近にあった酒瓶を取る。
「うむ、まあ……それで良いじゃろうて。なにせ夜烏党は誰も殺めず見事におつとめを果たしたらしいでな」
紋次が盃をあおり、水野もまた酒を干す。
「ご存知でしたか」
「それにしても阿片とはのう……」
「水野様、なにかございましたか」
「いやなに、愚にもつかぬことよ。それにじゃ」と水野は傍らに眠る白い猫の頭を撫でながら続ける。
「鳥居のやつ、私情で動きおって」
水野は残りの酒を呷ると話は終わり、と言いたげに立ち上がり、階下へ降りる。
「紋次、幕府の目、耳として励め。御庭番のはたらき、期待している」
「ははっ、ありがたきお言葉!」
水野が暖簾を潜る入れ違いに六尺はあろう、細身の男とがっしりした浪人風の男がすれ違う。
水野と金四郎が縁を交えるのはまだ先の話。男たちはぺこり、と会釈し『はっとり』の席で陽気に笑う。
あれはおさえが惚れた、明日から来たという男か。本気で惚れて御庭番衆をぬけるとはな。
水野は忍び笑いを漏らしながら品川を去っていった。
終わり