エピローグ
いま書かれている松本ミドリの死の真相については、報告書として提出されることはない。
ただ、わたしの私物のパソコンにデータとして保管されるだけだ。これはあくまで個人的な見解を書き記したものであり、警察庁および警視庁とは何の関係もないものである。
わたしこと、高橋佐智子と松本ミドリが交際していたのは大学生の頃であり、大学卒業後は一度も会うことはなかった。だから、このような形でミドリに再会するなんて思いもよらぬことだった。
新宿区歌舞伎町一丁目の通称、ゴールデン街にある居酒屋。そこで松本ミドリはアルバイトをしていた。三〇歳を過ぎても定職には就かずにアルバイトをしていた理由はわからないが、バイト先では多くの仲間から慕われる人物だったようだ。
慕われると言えば、ミドリは大学時代も多くの仲間に囲まれていた。背が高く、ヒョロヒョロで、お調子者。そんな彼の周りにはいつも仲間たちが集まっていた。ミドリと一緒にいると楽しい。そう思える仲間たちなのだ。わたしもその中のひとりであり、わたしは仲間以上の関係をミドリに求め、そして交際をしていた。
「ねえ、さっちゃん。これじゃあ、私小説みたいだよ」
すぐ左後ろから声がした。左の耳に吐息がかかり、くすぐったさを覚える。
スルスルとその細い腕がわたしの両肩を後ろから抱きかかえるようにやってきて、左肩の上に顎が乗せられる感触が伝わってきた。
「邪魔をしないでくれる、ミドリ。いま、わたしは忙しいの」
「そんな冷たいこと言わないでよ、さっちゃん」
甘えた声。大学生の頃、レポートを書いているとミドリはよく邪魔をしてきた。
あの頃、わたしとミドリは同棲していた。いや、正確に言えばわたしの借りていたマンションの部屋にミドリが転がり込んできた。合羽橋で名前入りの包丁を買ったのも、その頃だった。
「ねえ、さっちゃん。もういいでしょ。パソコンばかり見ていないで、こっちに来て一緒にテレビを見ようよ。ほら、バカ殿やっているよ」
ミドリはソファーに寝そべるようにして、自分の頭の位置をポンポンと叩いてみせる。そこはわたしの定位置だった。わたしがそこに座り、ミドリが寝そべると、ちょうど膝枕をするような形になる。よく膝枕をしてあげていたっけ……。
ふと、我に返るとわたしの目からは涙が溢れ出ていた。あの日以来、わたしはミドリのことを思い出しては泣いている。外では、気の強い女刑事。そう見えているかもしれないが、わたしだって人間だ。泣くこともあるし、弱い部分もある。
「さっちゃん、泣かなくてもいいんだよ。おれが死んだのは、おれのせいだし。だから、泣かなくてもいいんだ。もう、おれの事件の真相なんて調べなくていいんだよ」
「そうはいかないよ、ミドリ。あなたの事件について調べるのは、わたしの仕事だから」
「でも、報告書は上司に見せてたりはしないんでしょ」
「別に上司に見せるための報告書を書くだけが仕事じゃないから。ひとりの警察官として、わたしはミドリの事件の真相を知りたいだけ」
「そっか。わかったよ。ありがとう、さっちゃん」
ミドリは寂しそうな顔で微笑むと、わたしの前から姿を消した。
それ以来、わたしはミドリの夢を見なくなった。
※ ※ ※ ※
高台にある墓地からの景色はいつ見ても素晴らしかった。
天気の良い日は遠くに富士山の姿も拝めるらしいが、あいにくきょうは曇り空が広がっている。
松本家の墓と書かれた墓石の隣にある墓標には、松本ミドリとアオイの名前が刻まれている。この墓には兄弟揃って入っているのだ。ふたりが同じ墓に入ることに納得しているかどうかはわからないが、きっと仲良くやっているのではないかと勝手な想像をしている。
週刊ダイナマイトの記者である白石と共同で、松本ミドリ殺害事件の洗い直しを行ったが、結局なにひとつ新しい証拠や証言を得ることはできなかった。この事件は、松本ミドリと笠井みどり、そして松本アオイという三人の関係性が重要だった。
わかったのは、笠井みどりが松本ミドリとアオイの兄弟のふたりと同時期に付き合っていたということだった。どうやって兄弟ふたりと付き合うことになったのかはわからないが、笠井みどりは松本兄弟を手玉に取っていたのかもしれない。その関係がこじれて三人で話し合いをしたことがあるそうだ。それを語ったのは、笠井みどりの友人だった。
笠井みどりが本当に好きだったのは、ミドリとアオイのどちらだったのだろうか。そして、なぜ笠井みどりが松本ミドリを刺し殺すことになってしまったのだろうか。
色々と再調査を行ったが、結局のところ、すべての真相はわからなかった。
松本アオイの詐欺事件に関しては、少しだけ進展があった。アオイのビジネスパートナーだった男がフィリピンで死体となって発見されたのだ。おそらく暴力団関係者か、そこに雇われた現地の殺し屋に殺されたのだろう。捜査二課は悔しがっていたが、これでアオイの罪も有耶無耶となってしまった。
そして、フィリピンといえば、悟空こと島村拓哉についてだ。島村拓哉はフィリピン当局に身柄を拘束され、日本へと送還されることとなった。ちょうど今ごろ、フィリピンの領空を出た辺りで警視庁の捜査員に逮捕されているだろう。今ごろ、空港では多くのマスコミがカメラを構えて待っているだろう。二宮は島村拓哉を逮捕するためにフィリピンへ向かった。もしかしたら、帰国した際にテレビに映るかも知れないと、前日に髪を切りに行っていたことをわたしは知っている。
もう帰ろう。たぶん、ミドリの墓参りに来るのはこれが最後だろう。
「じゃあね、ミドリ」
わたしは墓石に声を掛けて立ち去る。
駐車場へと向かう階段を降りかけたところで、背後から声を掛けられたような気がして振り返った。
一瞬だが、ミドリがそこに立っていて微笑んでいるように見えた。
ハンドバッグの中でスマートフォンが震えた。
「わたしは忙しいんだよ、ミドリ」
そう呟くと、ミドリの姿はもう見えなくなっていた。
「はい、高橋です。――わかりました。すぐに向かいます」
たとえ君が微笑んだとしても 完