ミドリ(3)
しかし、その日五杯目となるジョッキを空けたころには、すべてがどうでもよくなってきていた。
「あのね、富永さん聞いてください。ちゃーんと聞いてください」
「聞いてるよ。うるせえな、さっさと話せ」
ふたりとも、したたか酔っていた。自分でも酔っぱらっているということはわかっており、呂律もあやしくなってきていた。
「ミドリくんは、大学時代の元カレなんですよ。元カレ。わかります、元カレ」
「ああ。だから何だよ。元カレっていっても、一〇年近く前の話だろ。一〇年ひと昔っていうんだよ、知っているか」
「自慢じゃないですけれど、あたしはね大学の時はモテたんですよ。ミドリくんでしょ、タケルくんでしょ、ハヤトくんでしょ……」
指を折るようにして、歴代の元カレたちの名前を挙げていく。
「それがね、それが、この仕事をはじめた途端に男運が消えちゃったんですよ。周りにはたくさん男がいるっていうのに。だれもあたしに声をかけて来ない。どうなってんの、これ。おい、聞いているか、富永」
「ああ、聞いてる」
返事をしたものの明らかに富永は話を聞き流していた。そして、テーブルの下でスマートフォンをいじっているのが見えた。
「こらぁ、聞いてないじゃないか、富永。おまえ、たった一つ歳が上なだけで、先輩づらしてんじゃねーぞ」
「歳がひとつでも上の人のことを先輩っていうんだよ。先輩づらじゃなくて、俺はお前の先輩なんだよ。警察学校を卒業したのも、刑事になったのも、新宿中央署刑事課に配属されたのも、全部俺の方が先なの。だから、俺はお前の先輩なんだ」
ド正論を打ち返す富永に、わたしは何の反論もできなかった。
その悔しさを紛らわすため、わたしはコップに入っていた日本酒を一気に飲み干した。
「すいません、おかわりください」
そんなこんなでふたりは終電が無くなるギリギリまで、酒を飲み交わした。
どうやって家まで帰ってきたのかは、覚えていなかった。
目が覚めたとき、わたしは自宅マンションの部屋にいた。しかし、ベッドでは寝ておらず、冷蔵庫の前で全裸のまま眠っていた。
まったく、記憶はない。
きっとシャワーを浴びて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取ろうとしたところで力尽きたに違いない。そんな推理をしながら、ベッドの置いてある寝室へと向かう。
壁掛け時計へ目をやると、まだ深夜二時だった。とりあえず、トイレに行き、今度はきちんとベッドの中に潜り込んで、再び眠りに落ちた。
夢を見ることはなかった。目覚めも非常によく、ベッドから出るとシャワーを浴びて、出かける支度をはじめた。
「おはようごうざいます」
いつものように挨拶をしながら刑事課の部屋に入っていくと、強行犯捜査係のブースには二川しかいなかった。
自分の席でパソコンに向かっている二川は、顔をこちらに向けることもなく挨拶を返してきた。この人はこういう人なのだ。挨拶が返ってきただけでも良しとしよう。わたしは気にすることなく、自分の席に着いた。
二川はわたしよりも一〇歳以上年上のベテラン刑事だった。
鉄仮面。誰かが、そんなあだ名で呼んでいた。二川は表情の変化が乏しい男なのだ。いつだって能面のような表情のない顔をしている。プライベートは一切が謎で、結婚はしているらしいが奥さんの話を聞いたことは一度もなかった。
しばらくして全員が出勤し、三階にある会議室へ移動すると朝の捜査会議がはじまった。
捜査に進展なし。そのひと言が、重くのしかかってきた。ミドリを殺した人間は、いまもどこかに隠れている。そう思うだけで、胸が張り裂けそうだった。何としてでも捕まえなければ。わたしは、長机の下でぐっと小さく握りこぶしを作った。
その日は外回りをすることになっていた。コンビを組んでいる富永と一緒に、現場となったゴールデン街の居酒屋を中心に回ることにした。
現場百篇。それは刑事になったばかりのころに、ベテランの先輩刑事に教えてもらったことだった。
現場周辺で聞き込みを終えたわたしたちは昼食を取るために、近所にあった店に入った。
わたしは生姜焼き定食を注文し、富永はカツ丼を注文した。
この店は夜になると居酒屋になるらしく、壁には焼酎のボトルなどが飾られている。
ミドリも仕事が終わった後は、この店で飲んだりしていたのかな。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
生姜焼き定食を持ってきたのは、頭に白いタオルを巻いた店主と思われる恰幅のいい中年男性だった。
「すいません、この人ってお客さんできたりしませんでしたか?」
食事を取るときに仕事はしない。そう自分の中でルールを決めていたはずなのに、わたしはスマートフォンに入れていたミドリの画像を店主に見せていた。
この写真は運転免許証の写真を拡大コピーしたものであり、捜査員たちに配布されたものだった。
「ああ、ミドリくんでしょ。たまに来てましたよ。彼女さんと一緒に」
「え、彼女」
「うん、そう。大学生ぐらいかな。ずいぶん、若い娘を連れてるなって思いましたよ。彼、アラサーでしょ」
店主は笑いながらいうと、富永のカツ丼を取りにカウンターへと戻っていった。
大慌てで店主が戻ってきたのは、その三〇秒後のことだった。
「ミドリくん、死んじゃったの?」
「はい。実は我々、こういうものでして」
周りには見えないように、富永はこっそりと身分証を出した。
「やっぱり、警察の方。いやあ、いきなりミドリくんの写真見せられたから何ごとかと思っちゃったんだけど、そうね。そういうことね」
店主は何かひとりで納得したようで、うんうんとうなずきながら、またカウンターへと戻っていった。
「おれのカツ丼、いつ来るんだ」
去っていく店主の背中を見ながら富永はつぶやいた。